« 2007年03月 | メイン | 2007年05月 »
2007年04月24日
ゴミを拾った1日
4月15日の日曜日に、相模川のいつも遊んでいる河原の一斉清掃があった。一斉清掃については何度も書いているけど、環境応援団いっぽさんの呼びかけで、この流域で遊んでいるみんながジャンルを問わずに協力して、きれいな河川敷にしようというイベントだ。
なぜこの流域だけ、ぼくらが自由にオートバイで走れるのか、話はそのへんから始まるんだけど、このへんも、何度か説明してきたような気がする。ここは民間区と行政区が複雑に絡み合っていて、民間も行政も、自分ちのこととして自由なことができない。その間隙を縫って、ぼくらはオートバイで遊んでいられるわけなのだ。
当日は、レンタカーの軽トラックを持って河原にはせ参じた。今まで、座架依橋の下をきれいにしたりしてきたけど、河原の奥のほう、トライアルセクションにしたいあたりには、まだまだ大量のゴミが隠れていた。トライアルやっていると、あちこち散策に入るから、ゴミを発見することも多い。ところがトライアルマシンで清掃にやってくると、大きなゴミを持てないんで、なんとなく清掃活動も中途半端で終わってしまう。だから次に大掃除をやるときには、絶対自前で輸送手段を用意しようと決めていたのだ。ちなみに、レンタカーの費用は相模川クリーンアップトライアルのエントリーフィーを貯金していた中から捻出しています。参加者のみなさん、ありがとうございます。
レンタカーを2台借りて、大人数であっちこっちを片づけようと思ったんだけど、あけてみたらトライアルライダーはぼくと下園さんと、その他もうお二人しかいなかった。人手不足だから、そのへんの子どもたちにもご協力願って(トラックの荷台に乗って河原を移動していくのは、子どもには楽しいイベントだったみたいだ)作業した。
何ヶ所できるかなぁ、なんて思っていたのはとんでもございません。1ヶ所をきちんときれいにしようとすると、2時間やそこらはすぐに立ってしまう。目立つゴミを運び出すだけなら簡単だし、見る見るトラックの荷台がいっぱいになっていくので気持ちがいい。でも後に残った、なんとなく汚らしいものを片づけるのは根気と忍耐が必要だ。こういうのを残しておくと、またあっという間にゴミ捨て場になってしまう。ゴミを捨てるやつらは、きれいなところだとちょっと躊躇するもんなのだ。ニューヨークでは、落書きを消したら犯罪が減った。ロジックとしては、おんなじだと思うんだけど、こちらはもっと哲学的だ。ゴミの不法投棄をなくすには、ゴミを減らすのではなく、ゴミをなくせばいい。
作業中は、こんなことを考えているヒマはなくて、地中から次々に出てくるゴミたちをいかにして効率よく、しかも安全に回収するかに集中すべし。捨てる方は限度ないから、割れたガラスとか、へたすると注射器とかも捨ててあるんだ。あぶないったらありゃしない。
ぼくらが、地味に河川敷の奥のほうのゴミを片づけている間、四輪駆動車の愛好家たちは、河川敷に捨て去られた自動車の残骸を運び出していた。屋根はつぶれ、タイヤはない。おまけに斜面から滑り落とされて、宙ぶらりんになっているのもある。
こういうのを引っ張り出すのは、パワフルな四駆の得意なところ。うれしそうにウインチを操作して、タイヤのない自動車は転地逆さにされて、屋根でずるずる滑らせて運ばれてきた。出てきたのは、かつて自動車だった3台。
9時過ぎからはじめた清掃活動は、お昼過ぎには完了した。それから、おのおのの遊びに出かけていく人もいるし、そのまま帰る人もいる。遊ぶついでに、ちょっとだけお掃除をしてくれればいいのだ。四駆の人たちは、前の晩から宴会をしていたらしい。
ところで、このエリアには四駆で遊んでいる人はたくさんいる。でも、今回掃除にきてくれた人たちは、かなり遠方から駆けつけてくれた人たちで、いつも遊んでいる仲間じゃないみたいだ。これは、ひとつには主催者側(ぼくたちだけど)の告知がへたくそだというのがある(告知は猿が島利用者連絡会でされていたんだけど、URLを知らないひとがこの案内にたどり着ける可能性は皆無に近い)。ぼくらも、始終河川敷にやってきているわけじゃないし、遊んでいる人も、いろんなグループがある。なかなか情報が徹底できない。
一斉清掃に参加したかったのに、日程がわかんなかったという人は少なくないみたいだから、このへんはもっとがんばらないといけない。つまんないデマはあっという間に口コミや2ちゃんねるで広がるのに、大事なことは伝わらないから、ちょっと悲しい。
もうひとつは、掃除をするグループとしないグループは、もしかするとはなから別人種なんじゃないかとも思う。今回は、いつもとちがってお掃除の日程が春になった。春は、シーズンが始まってみんなイベントに出かけるのに忙しいから、トライアル層の参加が少ないのもやむを得ない。こういう活動は、無理やりおしつけてもつまんないし、気持ちのある人が、手の空いたときにちょっとだけやるのが正しいと思う。でもそのちょっとだけが、チリも積もれば山となってほしいわけです。それと、当日たまたまそこにいるんだったら手伝ってほしい。なんせボランティアのお掃除なんだから、参加費とか参加する条件なんかなにもないわけだ(受け付けがあって、ボランティア保険の申し込みだけしている。念のために)。もしかしたら、もっと気軽に「ぼくにも手伝わせてちょうだい」といえる雰囲気を作る必要が、本部側にもあるのかもしれない。
ともかく、春の一斉清掃は無事に終わった。河川敷の入り口には大量のゴミが一時保管された。このゴミは、後日行政が持っていってくれることになっている。
「ゴミを拾うから、拾ったゴミを持っていってください」と行政にお願いするのも、一筋縄ではない。どこの馬の骨だかわからない連中の申し出に、いちいち対応していたら、行政も忙しくてかなわない。この一斉清掃は、もう4年目になる。実績がものをいう。なにごとも、口ばっかりでは進まないということだ。
こうやってゴミを拾っても、しばらくすると、またゴミが出ている。これはイタチごっこだ。少なくとも、1年や2年でゴミがなくなるような、簡単なものじゃない。
「せっかくきれいにしてもすぐに汚くなるから、やりがいがない」という人もいる。そうかもしれませんが、でもぼくらはこのエリアに対して、なにも提供していない。走らせてもらうだけだ。せめて年に1度か2度、ゴミを拾ったって損はないではないか。それに、ほうっておくとすぐに汚くなるといっても、自分の家は掃除するわけだ。河川敷も、自分の家だと思って掃除するわけにはいかないか。
オートバイを買っただけではトライアルはできない。ガソリンも入れないといけないし、壊れたらなおさないといけない。それはみんな承知している。なのに、走るエリアについては、走りっぱなしで不思議を感じない人が少なからずいるのはどうしてだろう。走る場所の問題は、こういうライダー一人一人の心の中にあるんじゃないだろうか。ちょっとえらそうなことを言ってみたけど、言いたいのは、次に一斉清掃がある時には、トライアルライダーがズラリと揃ってお掃除して、他のジャンルの仲間に「どうだ!」と胸を張ってみたい。
投稿者 nishimaki : 18:56 | コメント (1) | トラックバック
2007年04月18日
阿部孝夫さん、ありがとう
4月12日のことになるけれども、阿部孝夫さんが亡くなった。トライアルぞっこんの人や若い人は、阿部さんの存在を知らないかもしれないけど、とってもすごい人だった。そして熱い人だった。
本日は、昔話を思い出しながら、阿部さんの思い出話をつらつら書いてみます。長いけど、ごめんなさい。
阿部さんはホンダのファクトリーライダーをやっていたけれど、ホンダから離れると、営んでいたショップのある浜松で、漁師を始めた。もともと北海道の人だから漁師なのか、釣りが趣味だったのかはわかんないけど、結局現役時代は走るのに忙しくて、現役を退いたら釣るのに忙しくて、ショップはもっぱら奥さんが仕切っていたらしい。
現役を離れてからは、ライディングスポーツ誌で小気味よいインプレッションを書いていたから、これを知っている人はいるかもしれない。走っている姿は、ちょっとも速そうじゃない。だって、でぶなんだもの。でも、たぶん世界一速いでぶだった。
高校の教室で、授業中に食い入るように見ていた、先輩たちが読み古したオートバイの雑誌には、阿部孝夫はスズキのTR500で登場していた。それから、阿部さんはカワサキにチームを変えた。カワサキでは、のちにチャンピオンマシンとなるKR250/350の開発を始めていて、阿部さんはその重要な開発スタッフだった。
ぼくがはじめてカメラを持ってサーキットにいったとき、阿部さんは大けがからの病み上がりで、KR250に乗っていた。和田将宏(当時は正宏)清原明彦といった荒法師らとともに、カワサキのチームは個性化ぞろいだった。強烈な個性が、レーシングマシンとしてはおとなしいライムグリーン一色に包まれて、これまた弾丸のように突っ走るコントラストがおもしろかった。
その翌年から、阿部さんはホンダのライダーとなった。最初は、市販車のCB900Fで耐久レースに出ることになった。阿部さんは、とにかくライディングポジションにうるさかったという。タンクにスポンジを貼って、上半身のホールドをできるようにしてくれれば、タイムを2秒縮めてやると大口を叩いたりしていた。なにかを主張するときの阿部さんは、ちょっと口がとんがる。
20歳そこそこ、ぺーぺーの新米カメラマンにとって、阿部さんはおっかない存在で、声なんかかけられなかった。ようやく話ができるようになったのは、ライディングスポーツを創刊することになって、おっかなくても無理やり話を聞かなければいけなくなってからだった。
1983年の鈴鹿8時間耐久レース、ぼくららはその解説を、その前年に引退したヤマハの名ライダー金谷秀雄さんにお願いした。金谷さんに自由にレースを観てもらって、好き勝手を語ってもらおうという企画だ。当日は、ぼくは金谷さんの付き人みたいにいっしょについて回った。金谷さんのプレスクレデンシャルを取得するのはちょっとたいへんだったのだけど(いくら世界チャンピオンに匹敵するライダーでも取材は素人ですから、素人並のクレデンシャルしか出せませんという鈴鹿サーキットとの押し問答)それは阿部さんとは関係ない。
阿部さんが烈火のごとく怒ったのは、金谷さんのその記事だ。もちろん、金谷さんから話を聞いて、文章にしたのはぼくだ。
「ニシマキー、おまえが書いたのか」
その号が出た次のレースで、阿部さんはくってかかってきた。
「もうおまえなんかとは口をきかんぞ」
横で、東海の暴れん坊と異名をとった水谷勝が「まぁまぁアベちゃんもそう怒らんと。まだ駆け出しだもんな」ととりもってくれた。ふだんのキャラクターは、温厚な阿部さんに対して水谷さんがきついキャラを持っている。ここではそれぞれのキャラが逆転しておもしろかったのだけど、阿部さんが怒りまくっているので、ぼくはそれどころではない。
なにを書いたかというと「ホンダの監督はレースを知らない」と書いたのだ。徳野政樹さんというその後8耐で優勝することになるライダーがいたんだけど、レース中いろいろあって、この人はリヤブレーキなしの状態で走ることになった。リヤブレーキが直らないまま、レースに復帰させた、その采配を金谷さんは責めるのだけど、その監督さんというのは、ホンダがマン島で勝利したときにメカニックとして参加していた秋鹿(あいか)行彦さんで、これまた名だたる人だ。
「秋鹿さんがそんなことをするわけがない」
阿部さんはホンダの看板を背負って、駆け出しのニシマキに文句を言っていた。取材拒否するとか、そういう現代的な言い方ではなくて「おまえとは口きいてやらない」という子どもみたいな怒り方が、今でもきのうのことのように思い出される。
仲直りをしたかどうかは覚えていない。でも、ぼくは阿部さんが好きだったから、ことあるごとによっていった。
阿部さんはでぶだったけど、あるシーズンは125ccでレースに出た。ライバルは体重40kg台の江崎正(神戸でショップをやってる)。ふつう、勝負にならない。でも阿部さんは、登りのきつい鈴鹿のS字で、江崎さんとデッドヒートした。
「おれが飛ぶか江崎が飛ぶかどっちかだなぁと思って走ってた」
S字から帰ってきた阿部さんは、にこにこしながらつなぎを脱いだ。そう、飛んだのは阿部さんだった。レースには負けたけど、体重差が倍もあるようなふたりが軽量級クラスで熱戦をした事実は、なんだか夢を見ているみたいだった。
ホンダのライダーが思うように走れないという打ち上げをすると、阿部さんが走って見せる感じ。コーナーの小さな筑波サーキットでも阿部さんは125ccに乗った。でもあれは、素人目にも遅かったなぁ。最終コーナーでは、なりふり構わず飛び込んでくる地元の若手ライダーに対して、阿部さんは周到にラインを考え、ターンインしてくる。その間に、血の気の多い若者は、先へ行ってしまう。
「みんな、どうやって走ってるぅ?」
タイムのでない阿部さんは、ぼくごとき素人に状況を聞いてくる。どんな情報でも仕入れて、自分の糧にするといえばかっこはいいけど、その時の阿部さんは、まさにワラにもすがる感じだった。そういうなさけない阿部さんも、また阿部さんだ。
ぼくがはじめて海外のレースに出かけたら、そこに阿部さんがいた。ケニー・ロバーツ(もちろん親父のほう)の走りを見て
「そりゃーもう、とにかく開けっぷりがいいわ〜」
と感心していた。開けっぷりがいいということは、開けられる態勢に持っていっていることで、開けられるラインに乗せているということだ。マシンのセッティングも、相応のものになっているはず。そういういろんなことを観察しながら「開けっぷりがいいぞ」と楽しそうに講評するところが、阿部さんらしい。
そのときの阿部さんは、その直前のレースで大転倒して肺挫傷かなんかになってしまった清原明彦のことが心配そうだった。すでにホンダとカワサキでチームも別々だったが、かつてのチームメイト。阿部さんはキヨさんのことをキヨ兄と呼んで慕っていた。人のことを心底慕える人は、また慕える人でもある。
阿部さんは、フレディ・スペンサーが世界チャンピオンとなったNS500の開発などにも尽力したけど、阿部さんもそのマシンに乗った。ホンダの大排気量マシンはそれまで鈴鹿サーキットでしかレースをしていなかったけど、いよいよ全日本選手権を全戦回るってんで、見る方もわくわくだった。エースライダーは木山賢吾。阿部さんは脇役だった。
ところが木山さんは壊れたり転んだり、ついてない。阿部さんは2位や3位に入り続けて、3戦くらい走ったところでランキングトップに立った。
「このままやったらアベちゃん、チャンピオンやね」
本当なら自分がチャンピオンになるはずだった木山さんが、最後のレースとなった菅生で言った。
「わしはもう、はよう鈴鹿に帰りたいわ」
ランキングトップの阿部さんを、ぼくらは、インタビュー記事でとりあげることにした。写真をそろえて、あとは阿部さんの話を聞くだけになった。で、レースの週末の土曜日に話を聞くことになって出かけようとした矢先、木山さんの訃報が届いた。練習中に、事故死されたのだ。インタビューどころではなくなった。ぼくは鈴鹿への出張をやめて、阿部さんのインタビュー記事のかわりに、木山さんの追悼記事を書いた。
阿部さんのページを作るためのレイアウト用紙は、ずいぶん長いこと、ぼくの引き出しにしまったままになっていた。あのページに並んだ阿部さんの顔は、本当に楽しそうにレースをしている感じのものばっかりだった。ページにならなかったのは、残念だった。
それからしばらく、記憶に強烈なのは、また怒っている阿部さんだ。NS500レプリカと称してホンダが作ったのは250cc3気筒。今となっては、すっかり失敗作ということになっている。舞台は、これの発表試乗会となった鈴鹿。雑誌界の大御所が、ぼてぼてっと、何人か続けて転んで「フロントの接地感がどうも…………」なんて感想を語ったのだね、たぶん。阿部さんは切れました。
「おれはこのマシンの操縦性に自信を持ってるんだよ。5コーナーで転ぶなんてのは、4コーナーの入り方がへたくそに決まってるんだ。どこの素人がテストしてんだよ」
大御所の先生は、誰と誰だったかは忘れた。おひとりは、今でも大御所をやってらっしゃる。そして、ときどき転んでいるらしい。
メーカーにとっては、雑誌屋さんはお客さんである。いい記事を書いてもらって、オートバイがいっぱい売れるとうれしい。転倒したと聞けば、まずお見舞いに駆けつけ、転倒理由を聞き出し、その原因を分析し、転倒がライダーのせいでもなく、もちろんマシンのせいでもないという結論を導く。「ちょっと飛ばしすぎちゃいましたね、だってこのマシン、気持ちがいいんだもん」と言ってもらえれば、丸くおさまる。阿部さんが「おれが乗り方を教えてやる」なんて出ていくのは、賢くない。ぼくが目撃したのは、怒っている阿部さんを、開発陣が一生懸命止めているところだった。
その頃だったと思うけど、鈴鹿の飲み屋で、阿部さんが木山賢吾の思い出話をしつつ、一ノ瀬憲明について語った。一ノ瀬は125ccのチャンピオンで、かの山本昌也とはHRC入りが同期だった(チーム入りしたときはRSCだった)。しかし当時の一ノ瀬はケガと将来について悩んでいた。
「イチは、ひたむきなんだよなぁ。木山を見ているみたいだよ」
このときの阿部さんは怒ってはいなかったけど、怒っているときと同じように、熱かった。それからしばらくして、一ノ瀬は新幹線に飛び込んで、自殺してしまう。ライダーとして以外に生きる道を見失い、ライダーとしても将来に不安があった。でも死ぬことはないじゃないか。
それからしばらくして、阿部さんはチームHRCを去って、浜松で漁師になった。ホンダとけんかしたという説が一般的になっているけど、ああいう人だから、けんかはしょっちゅうだったはずだ。ただ、研究所の現役研究者に阿部さんのことを聞くと、あんまり高い評価はないみたいで、やっぱりけんかしちゃったのかなぁと納得したりする。
それからは、1年に1度ほど、耐久レースに出てくるくらいになった。年に1度のレースで、昔とおんなじ走りができるってのがすごい。その頃はぼくもまだサーキットに顔を出していたから、そんなふうな問いかけを阿部さんにしてみたことがある。
「これといっしょよ」
と、阿部さんはやっぱりくすくすっと楽しそうに笑う。“これ”ってのは、女性とまぐわうアクションである。パドックの真ん中で、そんなジェスチャーをしながら、阿部さんはレースを語ってくれた。
何年か前に、阿部さんはガンの手術をした。それからまた復帰して、漁師と、ライディングスポーツのインプレッションライダーを務めていた。でも最近、また体調を崩されていたようだ。
24年前にはたせなかった阿部さんのインタビューは、ついに実現しないままになってしまった。漁船に乗せてもらう約束も果たせなかった。
レースを教えてくれて、ありがとうございました。いつか、ちがう世界で会うことがあったら、またしかりつけてください。
*昔の写真は、全部ライディングスポーツが持っていて、ぼくのところにはほとんど残ってない。それにインターネットの世の中、フィルムを引っ張り出してくるのはたいへん手間になってしまった。いつか、懐かしい写真を公開したいのだけどごめんなさい。写真は、ぼくのお気に入り、ぼくんちから歩いて1分の散歩道。
投稿者 nishimaki : 09:48 | コメント (4) | トラックバック
2007年04月12日
キーボードを買った
衝動買いで、キーボードを買いました。前からほしかったんだけど、今のキーボードが壊れてるわけじゃないし、ほしくてしょうがないという感じにはなってなかったんだけど、気分を変えたくなって、注文してみました。
キーボードとかオートバイのグリップとかフットペグとかは、直接人間が操作する部分だから、これが変わると大きな変化だ。もっと早く買えばよかったなぁ。
このキーボード、6000円くらいだからけっして高くないけど、アップルの純正キーボードが3000円台で買えちゃうから、やっぱり高いものなんだろう。
ただ、ぼくが買ったのはマニアの間ではニセモノとされているやつで、これのホンモノは25000円もする。25000円はさすがに高かったのと、その25000円だと、ぼくにはどうしても困ることがあるんだ。
商品は株式会社PFUのハッピーハッキングキーボードという。東大の和田さんって教授がPFUと共同開発して作ったキーボードなんだそうだ。ホンモノはHHKBプロフェショナルと称されていて、ぼくの買ったニセモノはHHKB Lite2という。
Liteってlightの米語綴りなんだってね。そういえば、富士通が作ったワープロ専用機にOASYS Liteってのがあって、ぼくはあれでキーボードを覚えたんだった。
ぼくとキーボードの出会いは富士通のマシンだったけど、当時富士通は親指シフトという奇っ怪な入力方法を提唱していた。こんなのにそまっちゃったら、他の機械が使えなくなるなぁと親指シフトを敬遠したのを覚えている。だからぼくは、OASYSを使っていたときには、親指シフトを使ってない。
その後、鈴木阿久里がCMに出てきた東芝ダイナブック初期型を買ったとき、半分興味本位で親指シフトのソフトをインストールしてみた。それから、ぼくは親指シフトを愛用している。ダイナブック用親指シフトのソフトはアスキーの当時編集長遠藤諭さん(今調べたら、アスキーの取締役になってた)の製作によるもので親指ぴゅんという名前だった。その頃は「ここはこういう仕様のほうがいいんじゃないか」なんてよくメールを送ったもんだった。遠藤さんとはついぞお会いするチャンスはなかったけど、なかなか愛せる人のようで、半年ばかり連絡がなかったと思ったら「久しぶりに親指ぴゅんのソースをいじろうかと思ったら、仕様を忘れてしまった。ここはどういうふうにしていたんでけたっけ?」なんてメールが届いたりした。もしかしたら、親指ぴゅんのユーザって、ぼくひとりだったのかしらん。そんなこたぁないよな。
それから何台かのMS-DOSマシンを経てWindowsは使うことなく、マッキントッシュを使いはじめたけど、これも最初から親指シフトをで入力している。OSのバージョンがあがるたびに、親指シフトが使えなくなって大慌てするけど、世の中の仲間がなんとかしてくれるわけだ。親指シフトの輪は頼もしい。
で、親指シフトキーボードでないキーボードで親指シフトをするには、Nの下のキーとVあたりの下のキーは分離していないといけない。これをそれぞれ、右親指キー、左親指キーとして使うからだ。
これが親指シフトキーボード。空白キーの下に、ふたつの親指キーが並んでいる。でも、こんなキーボードは、ふつうには売ってない。だから親指シフトを使い続けたい愛好者は、スペースバーの長いふつうのキーボードでなんとか親指シフト入力する方法は編み出した。これがNICOLA配列っていって、今は、たぶんほんものの親指シフトよりたくさんの人に使われている。これをさらに発展させて、日本語キーボードを使えば、右親指キーと左親指キーを疑似的に使い分けられるではないかというのが、今、ほとんどの親指シフト愛好家が使っている仕様だと思う。これを使うには、スペースバーが長いキーボードじゃだめなんですよね。
話が長いなぁ。
だもんで、ぼくは日本のJISキーボードしか使えない。かな入力用のキートップはいらないんだけど、英文字しか刻印してないキーボードはみんなスペースバーが長いんだ。ところがこのHKKBは、JISキーボードのくせして、キートップにアルファベットしか刻印してないのがあるのよ。これはかっこいい。
ちなみに、ぼくはダイナブックで親指シフトを覚えたんで、キートップに文字が書いてなくてもまるで問題ない。ワープロを最初に使いはじめたときにはキートップを見ながら入力してたんだけど、バッテリーで駆動できるようになって、液晶にバックライトがついて、クルマの移動中でも原稿が書けるぞと大喜びで持ち込んだら、日が暮れて暗くなったらキートップが見えなくて入力ができなくなった。それで奮起してブラインドタッチ(最近はタッチタイピングというのがお行儀)を覚えたのだった。
HKKBそのものは、親指シフトについてはなんらの配慮もされてないみたいだけど、PFUってのは富士通の子会社で、富士通といえば親指シフトを世に出した会社だから、なんとなく通じるところはあるのかもしれません。
このキーボード、和田先生の主張をみるとわかるけど、キータッチとか、なかなか素晴らしい。ほんもののほうはもっと素晴らしいキータッチなんだろうけど、ニセモノでも充分素晴らしい。そのかわり、よけいなファンクションキーとかは使いにくくなっている。ほんもののほうには、矢印キーさえないらしい。すごい思いきりだ。
キーボードは、入力が快適にできてなんぼだと、ずっと思ってた。初期型のダイナブックは、なかなか素晴らしいキーボードを持っていた。ところがその後、キーボードはどんどん安物になって、ミスタッチは多いわ、キートップは吹っ飛んでいくわ、ろくなもんじゃない製品が多くなった。きっと、コンピュータを作っている人は、コンピュータが文字を入力する用途に使われるなんて思っちゃいないんでしょうね。
一方、プログラマの人たちは、キーボードでコマンドを打ち続けるのが商売だから、キーボードにはうるさい。このキーボードは、そういう本職中の本職のマニア心をうならせるものだ。
人間が触れるものは、気持ちよくありたい。最近じゃ、インターネットで日記やブログを書いてる人は多いから、昔より、文章を書く人は多くなったんじゃないかと思う。そういう人は、ぜひキーボードを変えてみるといいと思います。タコなキーボードでつっかえつっかえ書いているより、ずっといい文章が書けますから。
おっと、こんなこと書くと、だったらもっとちゃんとしたものを書けよ、というつっこみが聞こえてきそうだ。いいキーボードは実力を最大限に引きだすことはできますが、実力以上のものは引きだせません。これ、オートバイをはじめとする道具に、みな共通することですね。
ということで、キーボードにはもっとこだわるべきだと思う。中には、キーボードを輪島塗で作っちゃうなんてこだわりもあるみたいだけど、さすがに50万円のキーボードは病気だと思います。
http://www.pfu.fujitsu.com/topics/new061012.html
◆参考文献など
株式会社PFU Happy Hacking Keyboard
http://www.pfu.fujitsu.com/hhkeyboard/
個人用小型キーボードへの長い道
和田 英一
http://member.wide.ad.jp/~wada/bit.hhkbd/hhkbd.html
投稿者 nishimaki : 17:00
2007年04月10日
スペインの、飯
おいしいものを食べるのだったら、とにかくイタリア。イタリアでレストランに入れば、まぁまずはずすことはない。
イタリアに比べるとちょっと格下のイメージがあるけど、スペインの飯屋もなかなか負けていない。うまい。そしてスペインならではのうま味は、よそじゃなかなか食べられないものを食べさせてくれるってことだ。今回も、ふらりと入ったレストランで、そんなものに出会った。
真っ白いテーブルクロスが敷かれているようなレストランはたいてい敬遠するのだけど、今回は杉谷が風邪をひいていて、禁煙のテーブルがいいとわがままを言うんで、高そうなテーブル席に座ってみた。
スペイン語のメニューはあいかわらずさっぱりわからないから、てきとうにメニュー(定食)をお願いする。なにが出てくるか、開けてびっくりのご夕食です。
最初はパンとトマトとニンニク。こっちの人は、パンにトマトをすりつぶしたものをつけて食する。味付けはオリーブオイル。
生のニンニクを食べてみて口の中を燃やしていると(それはパンにこすりつけて食べるのだと、杉谷に笑われた)やってきたのはなぞのベジタブル。
「食べ方、わかる?」
ネクタイ締めたお上品なウェイターが聞いてくる。スペイン語で聞かれたけど、たぶんそんなことを言っているにちがいない。いいや、わかんない。
「真ん中を引き抜く、ソースに浸けて食べる。先っちょの炭の部分は食べない。いい?」
食べ方はシンプル。ただし、なにを食べさせられるんだかは、わかんない。食べてみると、どうもねぎのようだ。ねぎをまるごと炭で焼いている。そのねぎを、ソースで食べる。うまい。うまいけど、手が炭だらけになる。そういえば、テーブルクロスの上に紙が敷かれて、エプロンといっしょにキッチン手袋が渡された。でもビニールごしに食べちゃ申しわけない気がするので、手を炭だらけにしながら、素手で食べた。
粗野な料理というか、素材そのままというか、なんだかとっても贅沢なお料理でした。お食事というのは、エネルギーを摂取したり調理の腕を味わったりするだけじゃなく、楽しい時間をすごせてなんぼなのだなと、あらためて思わせるようなねぎ料理だった。
手はすっかり真っ黒になっちゃったけど、こっちの人がレストランで食事をするのは、生きるためというより人生楽しむためのものだから、手を真っ黒にして、悪戦苦闘しながらねぎを食べるなんてのは、一夜のエンターテインメントとしてはなかなか乙なもんなんでしょうね。日本じゃ、なかなかはやりそうにない。
そのあと、ちゃんとセカンドが出てきたはずなんだけど、最初の皿のインパクトが強すぎて、次がなんだったのか、思い出せない。最後は、カタルニア地方(バルセロナを首府とするスペイン南東部。地元人はスペイン人である以前にカタルニア人であるという意識が強い)に来たらこれを食べなきゃ終わらないという、クレマ・カタラナを食べる。たぶんカタルニアのクリームってことでしょうね。父親はプリンで、カスタードクリームの血がたっぷり混ざっていて、さっき焼きました、みたいな痕跡が残っている。
投稿者 nishimaki : 12:07 | コメント (0) | トラックバック
2007年04月08日
携帯ストラップとSIM
ちょっと前に、清水隆夫さんからクルーセルのストラップをプレゼントしていただいた。清水さんは携帯電話とかスマートフォンとかといったハンドヘルド端末の専門家であり、日本ではクルーセルの普及推進運動中だ。
クルーセルはスウェーデンのアクセサリーメーカーで、携帯電話用のケースにすぐれたものがある。残念ながら、日本の携帯電話用のケースはない。ワールドワイドのメーカーは、日本専用の端末のことなんか相手にしていられない。こういう世情は、携帯電話だけじゃなくて、トライアルの世界でも、はたまた政治の世界でも同じような気がする。日本人の皆さんよ、つまんない内輪もめをしていると、ほんとに世界から置いていかれちゃうよ。
とまぁ、日本の現状を嘆くのがテーマではなくて、清水さんからいただいたクルーセルのストラップだ。一見するとふつうのストラップだけど、少ししかけがある。ストラップの一番上の部分が、緊急時にははずれるようになっている。首にかけたストラップがなにかにひっかかったりして強い力がかかると、ここからパコンとはずれる。人間は首がちぎれることなく、助かるという構造だ。
でも逆に、あんまり簡単にはずれても困るなぁと思ってた。山の中を駆け回っていて、ふと気がついたらいつの間にか緊急事態が発生して、電話が転げ落ちていたりすると悲しい。
でもまぁ、一度使ってみないとわかんないというわけで、使ってみました。自然山通信の携帯サイトの速報は、こんなふうに、現場から携帯電話で原稿を書いて送ってます。メールを受けたすぐさまサイトにアップロードしてくれるスタッフがいればいいんだけど、そんなものいないので、送ったそばからサイトにアップロードされるようになってます。だから書き損じをまちがえて送ってしまっても、そのままサイトに反映されるという素晴らしいリアルタイム速報です。
写真を撮りながら、山に登り谷を下りしながらの作業だから、電話をきちんとポケットにしまっているひまがないことが多くて、たいていの場合、ストラップ頼りになります。携帯ストラップなど、よくもらえるものだけど、ちぎれたりはずれたり、信頼性に欠けるものが多い。このクルーセルのストラップは、さすがに一流どころの製品だけあって、安心だった。緊急時にはずれるタイプのストラップも、実は以前にもらったことがあったのだけど、そいつの緊急は日常茶飯事で、ストラップとして機能しないに等しかった。やっぱり、携帯のストラップも信頼性がほしかったら、ちゃんといいものを選べ、ですね。
清水さん、ありがとうございました。また、いいものを紹介してください。
で、ここからは別のお話。携帯からの原稿は、今はソフトバンクの電波を使って送っている。ソフトバンクは海外のローミングがとっても強いので、たいていどこへいっても電波が通じる。ドコモもローミングしているけど、経験上ソフトバンクの比ではない。日本ではソフトバンクはもっとも電波が通じない電話会社だけど、海外では逆パターンなのだ。
ただし、海外ローミングでメールを送ると、1通100円ほどかかる。安くない。もっと安くメールを送る方法があるんじゃないかと思って、海外の携帯電話のコレクションをはじめた。ヨーロッパでは、プリペイドで電話のSIMを買えるから、お金さえ払えばいくらでもSIMが手に入る。日本じゃプリペイド電話が犯罪に使われるってんで悪者にされているけど、プリペイドSIMを買うときにはパスポートの提示を求められる。これまた、プリペイドが悪者なんじゃなくて、日本の売り方が悪いだけなんだと思う。
今持っているのはこれだけ。左のふたつがスペインのモビスター(上)とボーダフォン。真ん中がフランスSFR(上)ポルトガルtmn(中)イギリス(下)の各国のSIM、右の3つが日本の。ドコモとauとソフトバンク(ボーダフォンの頃に手に入れたSIMだからこんな色をしている。FOMAのSIMはぼくのじゃなくて杉谷の)。
イギリスのSIMは、使った分だけ請求がくる。だけどイギリスのものなんで、ヨーロッパ本土で使うととても高い。日本のSIMで電話しても変わらんぞ、くらいのお値段なので、最近使わなくなった。ランニングコストはかからないので、イギリスに行く日のために持っている。
フランスとポルトガルのSIMはもう期限切れで抹消されているはず。プリペイドは、長いこと使わなくてチャージもしないと、番号が消されてしまうシステムだ。SFRは、買うときに「MMS(日本でいう携帯メール)も使えるよね」と念を押して買ってきたものだけど、使えなかった。フランス語の説明書を読んでもらったら、プリペイドではメールは送れないシステムらしい。だまされた。
モビスターのSIMは、SIMを買うなら電話ごと買ったほうが安いと言われて電話ごと買ったんだけど、電話機のほうはどこかに埋もれている。これは、メールの送信もできた。ところがそのメールをモビスターの携帯電話以外で受けると、モビスターのロゴがいっしょに入りこんでしまうという仕様であることがわかった。このSIMを送って速報を送ると、自然山モバイル速報にはすべからくモビスターのロゴが入ってしまう。そんなのやなこった。
で、今回はボーダフォンのSIMを買ってみた。24ユーロ。約3000円。これでメールがちゃんと送れるかどうかは、これから調査します。我ながらちょっとアホみたいだけど、自分に一番使いやすいのはどんなものか、自分で探していかないといけないのでありました。研究と称してあんまり散財するんだったら、すなおに1通100円の割高メールを送っていたほうがいいのかもしれないけど、なんだかくやしいじゃないですか。こういうことを、他にもやっている人がいるといいんだけどね。
投稿者 nishimaki : 20:03 | コメント (0) | トラックバック
2007年04月07日
エレベーターにて
今回は、ぼくも杉谷も、バルセロナ空港で生まれて初めてバゲージが届かない体験をしたのだけど、はじめてはそれだけじゃなかった。ソロモト(スペインのオートバイ雑誌。邦訳するとしたら「オートバイばっかり」。同じ出版社で、ソロオート、自転車のソロビシ、その他、スキーだのなんだのかんだの、山ほどのソロなんとかがある)編集部をたずねて、ペップとチリと飯を食い、帰ってきて7階へ向かおうとエレベーターに乗ったわけだ。
ぼくら4人がエレベーターに乗って動き出そうというとき、3人のお姉さまがたが乗ってきた。30歳、40歳、50歳くらいのお三方。40歳の方は100kg級(ないしょ)。
動き出した1.5秒後、がたんと音がしてエレベータが止まった。5秒間の沈黙。それから、ふたりのスペイン人男性と3人のスペイン人女性が、けたけた笑いながら事後の相談をはじめた。初体験の二人のポンニチは「これってあんまり笑いごとではないのではないか」と蒼くなったのだけど、スペイン人感覚では、これは楽しいイベントらしい。
100kg級が携帯電話で誰かに電話をしている。スペイン語だから詳細は不明なれど、想像するにこんな感じ。
「閉じこめられちゃったのよ。エレベータに。そうそう。だからオフィスに帰るのはちょっとあとになるわよ。ごめんあそばせ」
ペップたちと彼女らは知り合いなのか赤の他人なのか、よくわからない。同じ会社の人みたいに思えるほど、仲がいい。
30歳、よく笑うねーちゃんが「トライアルっていえば、スペインチャンピオンがいたわよね。タレスじゃなくて、ラガじゃなくてボウじゃなくて、その間にチャンピオンとった人よ」。ペップとチリとぼくと杉谷4人で考えるも、名前が出てこない。ランプキンや藤波の名前も出してみるけど、ちがうらしい(藤波はスペインチャンピオンにはなっていない)。結局ねーちゃんは、携帯電話でそれが誰かをオーディエンスに聞くことになった。彼女の電話はエレベータの中では電波が届かないらしかった。100kg級が電話を差し出し、通話ができた。どうやらエレベータの中では、モビスターが電波が届く。ボーダフォンはいまいちみたいだ。携帯電話は、閉じこめられたエレベータから助けを求めるのにも使えるけど、赤の他人と話をはずませるためにも、使える。
正解は「アモス・ビルバオ」だった。トライアル畑の4人は、あー、アモスだったか。アモスも一度スペインチャンピオンになってるんだ。忘れてたなーと額を打つ。なんでねーちゃんがアモスの話を出してきたのかはわからない。年代的に、アモスが大活躍していた頃にトライアルを見にいってファンになったか、もしかしたらナンパされたりもしていたのかもしれない。
大人7人が入ったエレベータの中は、だんだん熱気がこもってきた。金属の壁が、びっしり汗をかいている。チリが「ぼくが帰らなかったらPSPは妹に譲る」と汗をかいた壁に書きつづった。それをみて、3人のおねーさまがたが大笑いする。まったく、よく笑う人たちだ。
やがて、インターフォンから声が発せられた。「はーい、ご機嫌いかが?」「閉じこめられちゃったんですか?」「突然止まっちゃったのね?」なんて聞かれてるんだろう。そのたび、5人のスペイン人は声をそろえて「シー(Yes)」といいお返事。様子を伺っている限りは、格別対策を教えてくれたりはしていないようだ。
「ぼくたち、明日の朝の飛行機で日本に帰るんだけどな」と一応ペップに伝えておく。ペップがレストランからの帰りがけにフルーツをいっぱい買っていたので、これで食いつなげば7人で1日くらいは生き延びられると思ったけど、杉谷はうんちやおしっこの心配をしている。ごもっとも。
それにしてもスペイン人たちはよく笑う。熱くなって、みんな上着を脱ぎはじめた。さらに暑いので、扉をこじ開けようということになった。思いきり押し広げると、3cmくらいのすき間ができた。新鮮な空気が入ってきて一安心。見ると、ぼくらのエレベータは、床より10cmばかりさがったところに停まっている。
近ごろの日本でこんなことがあったら大騒ぎだけど、30歳大笑いねーちゃんが「これね、ほとんど毎日なのよ」と教えてくれた。日常茶飯事の事件にこんなに笑えるなんて、その国民性がうらやましい。
10cmのすきまから、いろんな人が顔を出してくる。ペップの先輩で、杉谷もお世話になったイグナシオ・ベルトラン(イグナシオでナッチョと呼ばれている)も顔をのぞかせる。でも、だからといってぼくらが助け出されるわけじゃない。
インターホンからは、ときどき女の人が話しかけてくる。ビルの管理会社からなのかエレベータの管理会社からなのか、どっちにしても、こっちはだいぶお仕事モードのはずなんだけど、彼女もこっち側のしゃべりかけに対して、大笑いをしている。日本だったら不謹慎だとつるしあげをくらうところだ。
「彼女はね、日本人のおふたりは笑ってるかって心配してるわ」
心配してるような口ぶりじゃなかったけど、心配してもらってありがとう。
「日本人は、明日の朝飛行機に乗らないといけないから、よろしく頼むよ」
ペップがインターホンに向かって声をかけると、インターホンの向こう側とこっち側で、また大爆笑だ。
結局たっぷり30分後、エレベータのメインテナンス要員とおぼしき兄さんたちがやってきて、ぼくらは救出された。ぼくらは1階で乗り込んだのに、降りたのは地下1階だった。ただ止まっただけではなくて、1階から地下1階まで、ブレーキがきかずに落下したらしい。屋上から乗らなくてよかった。
心中しかけた男女は、これでお別れ。ぼくたちは7階、彼女たちは5階。別れ際「おれはソロモトのペップだ」と自己紹介していたから、二人の男と3人の女は初対面だったらしい。事務所に帰ったら、編集局長が「すまんことをしたなぁ」と出迎えてくれた。いつも言われているように「ノープロブレム」と返しておいた。
教訓:人生が幸福か不幸かは不幸な事件に巻き込まれたか否かではなく、その場でいかにして笑うか否かにかかっている。
写真は地下1階で扉をこじ開けようとしている100kg級とペップ(地上の人の手も見えている)と、地下1階で止まったままになっているトラブったエレベータ(よく見ると段差があるのがわかる)
投稿者 nishimaki : 12:43 | コメント (1)
