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ニシマキ日記

2008年08月27日

てっぺーの、ノリック

てっぺーノリック写真集

 いろんなことが、若く青かった日々のことが、この1冊につまっている。もしかしたら、世の多くのノリックファンにとっては、この写真集は期待するものではないかもしれない。でもノリックと彼のやってきたことをもうちょっとほんとうに知ろうと思ったら、ここにつまった甘酸っぱい思い出をじっくり見つめてほしいと思う。

「お父さんとかはノリックとは呼ばずに、ノリって呼ぶんだ」
 阿部典史のことを、てっぺーはこんなふうに説明してくれた。当時すでに、てっぺーとともにアメリカに渡っていたノリックは、オートバイの世界に携わる仲間のうちでは、名の知れた存在だった。確かノリックという愛称は、アメリカの人たちが呼びやすいように、てっぺーがつけたものだったと思った。てっぺーは、そういうセンスに長けている。
 てっぺーは、日常的に会えば、野放図ですけべなちびでぶだけど、その引き出しの多さと奔放な行動力にはいつも感心させられる。今日も、とある街のデニーズで話をしたけれど、そのデニーズには朝から晩まで原稿を書くためにいすわっているので、店員さんとはすっかりお友だちになっていて、なじみの定食屋さんや居酒屋さんの女将と話をしているような関係を築いてしまっている。この人のなつっこさというかずうずうしさは、しかし近所のデニーズだけではなくて、世界中どこにでも通用する。特にアメリカは、てっぺーにはお似合いのフィールドだ。
 ノリックのお父さんの阿部光雄さんはオートレースのトップレーサーで、ライディングに関しての造詣はつとに高い。そのお父さんが息子典史くんをトップレーサーに育てようと思ったとき、修行の舞台として選んだのが、アメリカのダートトラックだった。自分のレースに忙しい阿部さんは、典史くんの将来をてっぺーに託した。てっぺーはアメリカが好きで、何年かのアメリカ暮らしも経験していた。滞在の段取りやマシンの調達、そしてレース活動まで、ノリのために大喜びで動き回るアメリカでのてっぺーの日々が始まった。
 この写真集は、てっぺーとノリの、アメリカでの毎日がおさめられている。そして写真集は、ノリが日本に帰ってきてロードレーサーとして本格的にデビューし、世界に羽ばたくところでページを終わる。ノリックが、多くのファンの心をつかむようになるのは、この写真集の次の時代になる。記録に刻まれた偉業には、それを生む背景がある。この写真集をめくれば、新たな才能が育まれていく様子に、元気を授けられる。
 この写真集でてっぺーが語りかけてくるものは、追悼ではない。20年前、やがて世界に羽ばたく才能の、生き生きした胎動だ。

版型:A4横オールカラー 全92ページ 中尾省吾(てっぺー)による解説付
価格:3,675円

*写真集の購入はむう企画03-3436-6632までお問い合わせを。代引き送料込み4,515円

てっぺーとノリックについては、ヤマハ発動機のノリックメモリアルにもいいお話がのっていた。

投稿者 nishimaki : 13:09 | コメント (1) | トラックバック

2008年07月27日

FIM委員の顔ぶれ

08FIMのマニュアル類

 FIMは、毎年関係者(選手権に参加するエントラントも含む)にいろんな冊子を配布している。MFJも、ライセンスホルダー(ライセンスフィーを払った資格のある人)に競技規則書などを配布しているけど、当然というかなぜかというか、FIMのほうが気合いが入っている。世界選手権の開幕戦にでかけると、ほれとばかりにばさばさと冊子を渡される。去年のFIM年鑑(全カテゴリーのランキングなどが一覧されている)、レギュレーション総則、トライアル細則、環境問題についてなどなど。
 意地悪な見方をすれば、開幕戦で規則書をもらったって遅いじゃないかって気もするけど(その点、MFJの規則書はシーズンオフの間に作られて、新年度のライセンスの発行とともに送られてくる。立派)FIMは世界選手権の現場で、世界中のみなさんにタダでお配りしちゃうんだから、太っ腹ではある(世界選手権にきている人というのは、MFJの全会員なんかよりはるかに少ないわけだけど)。
 といっても、いつもはぱらぱらとめくって本棚にしまいこんでしまうのだけ(捨てるのは、かろうじて思いとどまっている)。ちょっと眺めてみると……。

 年鑑には、役員名簿ってのもある。ふつうの人にはとんとご縁がないとは思うけど、この9年、もてぎで世界選手権をやるようになって、オフィシャルの人たちはFIMのお偉いさんとの接触も頻繁になった。FIMにはトライアル委員会というのがあって、これに世界中の人が参加している。今のオヤブンはクルミエールさんといって、フランスの人。英語を器用に話すけど、英語でお話するのは恥ずかしがる。前のオヤブンはベルネダさん。スペイン人。もともとスペイン協会の仕事をしていて、スペインの若いライダーを引き連れて世界選手権を転戦などしたことがある。当時の目玉ライダーはアンドリュー・コディナとかで、なぜか杉谷真がその転戦に乗っかっていたりしたこともあった。
 副委員長はノルウェーのミンケンさんとルクセンブルクのヴァン・ディックさん。ディックさんとぼくらは、藤波が世界チャンピオンをとる前日、トライアル仲間のカート耐久レースでチームを組んだことがある。金曜日の夜、突然、近所のカートコースに出かけるぞということになって、みんなでぞろぞろでかけていった。トップライダーは「そんなお遊びにつきあっていられるか」という感じだったけど、世界選手権1年生(当時はユースだった)のオリベラスやジベールなど、スペインの若手はこぞって参加してきた(参加させられた)。ぼくらのチームはスペインベルネダ、ヴァン・ディック、杉谷、ニシマキというデコボコカルテットで、ピカイチに速かったマンサノに何ラップもされてしまった。
 そんな話がしたかったわけじゃない。トライアル委員には、その他イギリスのウイロビーさんをはじめ8人がいらっしゃる。国名を挙げると、ポルトガル、イタリア、サンマリノ、ベルギー、ドイツ、チェコ、スペイン、イギリスの方々だ。残念ながら、日本の人はひとりもいない。トライアルのみならず、委員会の名簿を最初から最後まで見ても、日本の人はロードレース委員会に杉本五十洋さんひとりしか発見できなかった。
 トライアル委員会の人は、それぞれ世界選手権が比較的盛んな国の人だけど(サンマリノでの開催は、最近はないなぁ)他の委員会を見てみると、クロアチアとかチェコとかペルーとか、あんまりモータースポーツが盛んでなさそうな国の人も、どんどん名前が並んでいる。日本にはでっかいメーカーが4つもあって、世界選手権も開催されていて、ロード、モトクロス、トライアルの各クラスでチャンピオンがでているというのに、たったひとりですぜ、たったひとり。
 よく、ヨーロッパの連中は日本人が強くなると、都合がいいように規則を変えやがる、という不満を聞くことがある。欧州勢のわがままは、ぼくも感じることがある。でも、そこで「そりゃ、あんたたちのわがままでしょ」という人がいなけりゃ、それはわがままではない。
 日本のライダーよ、もっと世界へ出て行きましょう、と無責任に言い続けているけど、世界へ出て行かなければいけないのは、選手だけじゃない。ぼくらジャーナリストもそうだし(たった10年の自然山通信なんかより、長年にわたって世界の舞台を取材し続けている藤田秀二さんには、とんと脱帽する)、こういう大会を運営する側の人にも、それはいえることだ。
 工業アドバイザーなんてグループもあるんだけど、そこにはハスクバーナやドゥカティ、ヤワ、アプリリアの人々が並んでいる。日本のメーカーはというと、ホンダヨーロッパ、ヤマハヨーロッパ、ダンロップタイヤから委員が出ているけれど、それぞれイタリア人、オランダ人、イギリス人だった。ここにも、日本の人はひとりもいない。
 女性とモーターサイクル委員会みたいな組織もある。なんとそこには、2007年女子世界チャンピオン、イリス・クラマーの名前がある。彼女、10代の頃からトライアル委員会のおやじを相手に自説を主張する気が強いところを見せていたが、彼女ならこういう役柄もぴったりだ。ドイツのライダーねーちゃんがFIMの役員をしているというのに、日本人は壊滅状態。ほんとうになさけない限りなのである。
 以前、MFJの人とお酒飲んでいるとき(割り勘)、FIMから役員を出せと言う要望がくるんだけど、誰かいませんかね、という話になった。モンテッサのM社長はどうかな、ヤマハのKさんはどうかな、なんてこれまた無責任なことを言ってみたものの、まぁいろいろむずかしいわけだ。なんたって、MFJからギャラが出せるわけでもない。「杉谷さんでもいいんですけどねー」とも言われて、杉谷を年に3回くらいヨーロッパの会議に飛ばしてみるのもおもしろいかとは思ってみたけど、現実、おもしろいばっかりでもなさそうだ。昔々、キャラバンを引っ張って世界選手権まわりをしていた頃なら、ついでに会議に出席するのもよかっただろうけど、今や杉谷さんは、FIMの会議に出席するより、海に出るのが忙しい。いざ、自分に振られると「えー、むずかいなぁ」と答えてしまうのだから、日本の役員さんよ、世界へ出ましょう、なんて言うばっかりなのも、無責任きわまりない。
 しかしいずれにしろ、会議に日本人が並んでいなくて、日本の主張なんか通るわけがないのだった。

投稿者 nishimaki : 06:10 | コメント (4) | トラックバック

2008年03月31日

心神喪失

 ある日の産経新聞の記事(ただしWEB)を読んで、つらつら考えてみる。
 人を殺した人が“殺害時”に心身衰弱で、“死体損壊時”は心神喪失だったという鑑定が出たって話だ。科学的な事実はどうなのかわかんないけど、殺人を平常心でやる人なんているのかね。仮に、思わずかっとなって人をあやめてしまったとして、そのあと平常心で黙々とお片づけができる人なんているだろうか。どちらも平常心とはほど遠い気がする。そういう人のほうが、人としてふつうだと思う。なので、ふつうの人は、精神鑑定で「人を殺したときだけおかしな人になっていたから、殺人と死体損壊に対しての責任能力はない」と判断してもらえるってことになる。これなら、人を殺すのが怖くない。おっかない世の中だなぁ。
 引用元をURLで示しておこうと思ったけど、WEBのニュースは消えてなくなっていることが多いので、プリントアウトをPDFにしておきました。こういうのは無断転載になるんだろうか、よくわかんないけど。

 さてこの日記は、トライアル情報誌の自然山通信の名の元に書いてるから、一応トライアルに即してこのニュースを考えてみる。今トライアルでは(特に全日本とかでは)参加選手のマナーの問題が問われている。セクションをライダーやマインダーが加工してしまう悪さ、見えないところで燃料補給をしていたり、メカニック以外の人がマシン整備の手伝いをしているんじゃないかという疑惑、5点といわれて頭に血が上って執拗な抗議をするなどなど。
 人を殺すのが「そのときだけ自分を失っていたから責任能力がない」のだったら、こういうのだって責任能力があるかどうか、疑わしい。「勝ちたい、クリーンしたいと思って、難所の地面を見ていたら、無意識に斜面を足で崩していた」「ライダーを勝たせたいという一心で、気がついたら大岩の前にきっかけ石を運んでいた」。くだらねーこと言うなと笑われてしまうだろうけど、日本の裁判所で同様の鑑定が殺人事件に影響を与えようとしているんだから、トライアルもそれにしたがった方がいいんじゃねぇか? もちろん逆説的なお話ですけどね、念のため。
 最近は、セクション加工を防止するため、マインダー(マインダーとは広義の意味と解釈してます。試合のときはマインダーはメカニックという名称でライダーについて参加している)のセクション立ち入りは一律禁止となった。あぶないところでお助けをするときだけ、オブザーバーに許可を求めて立ち入りができる。規則は規則だから、トップライダーのマインダーは、そうとなればそれに従う。これまでマナーがなってないと言われちゃってけど、ルールは守る。競技だから。
 ところがトップライダーでない、全日本のような大きな大会への参加に慣れてないライダーのお父さんたちの中には、ルールが守れない人たちもいる。第一セクションで目撃したことだから、その人もセクションをこなしていくうちにマインダーの心得を学習したかもしれないけど、息子のトライアルが心配で、テープの外でおとなしくしているなんてできない。マインダーのセクション立ち入りを禁止した規則は、きっとそもそもはセクションの加工(破壊と示されることが多いけど)の防止だったにせよ、今となっては立ち入りそのものが禁止行為だ。お父さん(お父さんかどうか、実はよくわからない。目撃したことだけど、ここでは一般論としてお父さんで話を進めます)はセクションに入って、ラインに悩む息子の相談相手になっているだけだから、いわゆる加工や破壊行為はしていない。でもだめはだめだ。
 なぜお父さんはそんなことをしてしまうのかというと「全日本では(本当はトライアルでは、なのだけど)セクションにマインダーが立ち入ったらいけないんだよ」と教えてもらわなかったのかもしれない。全日本のそういうルールに不慣れなのかもしれない。でもその時のお父さんときたら、息子を思う気持ちがめいっぱいで、テープの存在に気がつかず、オブザーバーの「メカニックは外に出て」の指示も聞こえず、何度怒られても息子の元に駆け寄ってしまったのではないかと思う。まぁ、心神喪失、みたいなもんではないかと。
 件のお父さんに責任能力がなかったかどうかは、この文脈で言うと裁判所の判断になるんだと思うけど、日本には古来からしつけという美しい風習がある。何度もオブザーバーに注意を受けるお父さんには、ばっさりイエローカードをつきだして5点を与えるべきじゃないかなと、ぼくはその時思った。
 申しわけない。ぼくは常々、オブザーバーは取り締まり官ではなく、選手のパフォーマンスを見守る立会人なのだから、おいこらお巡りみたいになってはいけないと思っていた。だからイエローカードなんて制度は、トライアルにはなじまないのではないかなぁと思っていた。
 実は今もそう思っている。思っているけど、イエローカードの存在が、オブザーバーが「イエローカードを出すよ」と選手をおどかす材料になるのだとしたら、反則があったときに有無を言わさずイエローカードを行使することで、お父さんにも薬になるし、ルールの理解も早いんじゃないか。たぶんお父さんの大事な息子さんは、ここで5点をもらってももらわなくても、まだ優勝するとかポイントを獲得するとかという段階にはいないから、勉強するなら早いうちがいい。早いうちに学習をしないで、優勝戦線に加わった頃にイエローカードをもらうと、痛手も大きい。
「このやろー、ぶっころしてやろうか」と思ってしまうことが、万一あったとして、そんなときに心神耗弱になってしまうような人ってのは、仮に責任能力がなかったとしても、二度と人前に姿を現さないでほしい。そんな人が町中をうろうろしてると思うと、おっかなくて歩いていられないからね。

(トップライダーのマインダーは、経験豊富だから、気が動転するなんてことは、まずない。彼らもときにイエローカードぎりぎりに思えることをやったりするけど、それはオブザーバーの裁量とルールを見切っているからできることだ。このアンパイアは外角低めが甘いなと思ったピッチャーが、そこに放り込んでストライクをとりにいくみたいなもんだ。人のいいオブザーバーはつけこまれることになりかねないけど、観戦していて気持ちがいいのは、にこやかながらてきぱきとした採点をしてくれるオブザーバーのいるセクションで、なんだか気がめいってくるのは、オイコラ型のオブザーバーのいるセクションだ。これは日本に限らず、世界中のセクションで共通する感想です)

投稿者 nishimaki : 14:41 | コメント (0) | トラックバック

2007年07月24日

旧友より沙汰あり

07森の葉っぱ

 奥村裕(敬称略)から、電話がかかってきた。阿部さんについて書いた日記を読んでくれたらしい。
 奥村は、その昔々、今は亡き高井幾次郎率いる名古屋のプレイメイトレーシングの秘蔵っ子で、幾さんに育てられた世代の中では末っ子の部類に属する。そして、オクが走り始めた頃、サーキットに通いはじめたぺーぺーカメラマンが、ぼくだった。撮影するほうと走るほうと、お互いに駆け出しだった。

 その頃のぼくは少しマメだったから、ライダーにパネルをあげたりしていたのだけど、先輩ライダーがそんなパネルをもらうのを見て「いつかおれももらってやる」と思ったという話は、ずいぶんあとになってから聞いた。うかうかしている間に写真を撮らせることがお仕事のプロフェショナルライダーになっちゃったけど、一時期、そういうふうに思ってくれたというのは、感慨深い。人は、どこでなんの役に立っているか、わかんないね。
 電話の主な内容は「おまえはいったいどこでなにをしておるのだ」という近況についての事情聴取と「近々遊びに来い、飲みにこい、モトクロスもやろう」というお誘いと、そうそう、この前ので耐の話だった。ぼくらは土曜日のレースに出向き、日曜日にオクが出場することになっていたから、パドックで探したんだけど発見できなかった。そしたら彼はドタキャンしていたのだった。「世界チャンピオン原田哲也がわざわざモナコからこのレースのために飛んできたというのに、誘ってもらいながらドタキャンになっちゃった」と恐縮していたけど、ぼくには恐縮される義理はなかった。
 で、阿部さんの話。オクは、お棺の阿部さんに会ってきたそうだ。
 オクの周囲では、というかレース界では、これまでいろんなひとが亡くなっている。師匠の高井さんをはじめ、オクは、事故で亡くなった人をこれまでたくさん見送ってきた。でもそういう人たちは、顔を見ると最後にサーキットを走っていたままで、みんな今にも起きてきそうだったという。さっきまで笑顔でパドックを歩いていた人が、突然向こうの世界に行ってしまうのが、事故というものだ。
 阿部さんはちがった。予定通りというか、結末が見えていたし、やっぱりやつれていて、パドックを闊歩していた当時の阿部さんとはちがっていたから、阿部さんの死をきっちり納得できた、明るいお別れだったよと、オクは電話の向こうで語ってくれた。その裏には、納得できない仲間の事故死への思いがあったんじゃないか。これまで何人もの友人たちを見送ったくやしさが、そこにこめられている気がした。

0707森の幹

 オクは、大事なレースで転倒して骨を折ったりすることがよくあった。たいてい名古屋の病院に入院したから、鈴鹿のレースの帰りに煮干しと牛乳を持って見舞いにいったことがあったっけ。骨折、多すぎるんじゃないか、なにかまちがってるんじゃないかと詰問したら、あんなスピードでひっくり返ってガードレールにぶつかったら、骨だって折れるさと反論された。あんなスピードで走れない素人は、黙るしかない。
 オクは、レーシングライダーを引退したあと、しばらくホンダのワークスマシンを借り受けて、レーシングチームを運営していた。でも、プライベートチームがメーカーのチームの向こうを張って好成績を出し、なおかつチームを経済的に運用していくのは、たいへんにむずかしい。その過程で、彼はサスペンションチューニングの事業をはじめた。最初はレース屋さん向けだったけど、今はツーリングライダーがお客さんだ。ふつうのライダーだって、いいサスペンション、自分に合ったサスペンションで、気持ちよく走りたい。気持ちよく走れれば、オートバイはもっとおもしろい。
 今、オクは実業家としてもなかなか成功しているのだけど、レーシングライダーとして苦労しながら一時代を築いた人は、みんな自らの運命を切り開くパワーを秘めいるのだと思う。と同時に、レースで得たノウハウを、レース界の中だけにとどめず、広い世界に向けて発信した機転は素晴らしかった。こんなときだけ、友人として誇りに思わせてちょうだい。ふがいない友人より……。

*写真は例によって奥村選手とはまったく関係なく、福島のぼくんちの裏山を散歩していてのスナップ。木漏れ日が気持ちいいなぁと思うと同時に、ここでイノシシに襲われたりして倒れたりしたら、発見されるのはいつになるだろうと心配になったりもして。

投稿者 nishimaki : 09:56 | コメント (0) | トラックバック

2007年07月06日

ハーレーがいっぱい

07年4月ミューズパークにて

 ハーレー・ダビッドソンってオートバイがある。なんてあらたまって言わなくても、たいてい誰だって知っている。ガスガスやベータの名前はしらなくても、インディアンや陸王の存在は知らなくても、ハーレーをご存知の方は多い。本日は、ちょっと昔話になるけど、4月に秩父市(と小鹿野町にまたがる)ミューズパークで行われたハーレーのミーティングイベントをちょっとだけのぞいてきましたというお話。

ずらり並んだハーレーたち

 モータースポーツ屋から見たハーレーというのは、およそ繊細でない旧型のマシン。なんたってひと抱えもあるピストンを積んだOHVエンジンなんだから、速く走ろうってのが無理な話だ。ところが一方では、ダートトラックではいまだにハーレーが圧倒的に速い。くやしいから、ホンダが真剣に打って出たことがあったけど、200km/hオーバーでトラックを横滑りするマイルレースでは、やっぱりハーレーが強い。モータースポーツが機械だけの競争ではなくて、機械と人間の両方の競争だから、数値的にはちっとも速くなかろうと、それだけでははかれないなにかがあるらしい。
 と、ここではそういう、マニアックな話をしたいのではなくて(当時の)ぼくのうちの近所でハーレーがいっぱい集まったというお話をしたかったというそれだけだ。イベントのホームページを見ると、参加費2000円也で土曜・日曜。特に、なにかの起こるわけではなくて、みんながひとところに集まるというのが大きな目的らしい。こういうイベントをヨーロッパの人はラリーとかギャザリングとか呼んでいた気がする。日本じゃラリーと呼ぶと意味がちがっちゃうかもしれないけど。
 実はこのイベントに、仲間のSくんが関わっていた。といっても、屋台で焼きそばを焼いているだけだけど。前の晩に「焼きそば焼いてるからきてくださいよ」と言われたので、言ってみた。駐車場は無料だけど、屋台に近寄るには、2000円払わないといけないらしい。「来てみたんだけど、2000円払わないといけないの?」「どうもそうみたいです。ぼくも知らなくて、すいません」てな会話があって、どうしようかな、2000円払って焼きそば焼いているSくんを見にいくかなと中をのぞき見してみたけど、ハーレーのスペシャルパーツとかを見ても趣味がちがうのであんまり興奮できない。

集まってくるハーレー乗り

 ふと駐車場をみると、あとからあとから、続々とハーレーがやってきている。なんでも、このイベントには2000台からのハーレーが集まるらしい。駐車場を徘徊している分にはお金がかからないので、とりあえずそっちに向かった。
 最初の10分ほど、ぼくは1台1台、どういう意図でマシンを作っているのか、さっぱりわからず、悩んでしまった。チェンジペダルのロッドが鎖でつながっていたりする。これじゃシフトタッチなんかどうなったもんかわかんない。そんなのは序の口で、オートバイを速く快適に走らせようと日夜努力しているモーターサイクルメーカーのみなさんが見たら、頭を抱えてしまうような改造ばっかりだ。
 だけど20台30台とそんなハーレーを見ていると、速くて快適なモーターサイクルの作り方なんて、どうでもいい気がしてきた。彼らにとって、乗りにくくて機能的でなくて、すぐぶっ壊れちゃいそうな、こんな仕様のハーレーがめざす理想のモーターサイクルなんだろう。次々に駐車場に入ってくるハーレーたちは、ちょっとした路面の凹凸でおおげさにバウンドする。リヤクッションのないやつもいるから、その都度、ライダーは飛び上がってしまう勢いだ。それでも彼らは幸せそうで、それはつまり、人の幸せなんて、他人が判定するもんじゃないということだ。山に駆け登ったと思ったら落っこちてきて、それでニコニコ楽しそうなトライアルライダーの幸せが、他人には理解されないのと同じようなもんだと思う。

ハーレーその1
ハーレーその2
ハーレーその3

 さて後日談。そのイベントのあと、土曜・日曜に秩父から東京方面に向かって走っていると、やたらハーレーとすれちがう。どうも秩父は、ハーレーのツーリング先としてメッカになってしまったらしい。2000台からのイベントがひとつ起こると、そこがたいへん心地よい場所に思えてくるんじゃないだろうか。大昔の話だけど、新宿西口広場がフォーク・ゲリラの集会場として定着したのも、そんなことかもしれない。某オートバイ雑誌の編集部が都内の貸しビルを転々としたときには、その都度、そのビルの歩道がオートバイ駐輪場と化したものだった(今なら駐車違反で捕まる)。
 人を呼ぶには、大きなことを一発やるべし、ということなのか。個人的には、大きな声をあげてどどんとでっかいことをやるってやり方はあんまり好きじゃないんだけどね。

投稿者 nishimaki : 14:14 | コメント (0) | トラックバック

2007年06月11日

JMMにて(想定外について他)

子どもクラス

 6月9日、毎年やっているトライアルごっこイベント。もともとは雑誌屋さんの年に1度のオートバイ遊びだったんだけど、最近のオートバイ雑誌屋さんはオートバイに乗らない人が増えたりして(!)、今では参加条件をとっぱらって、人づてにいろんな人が集まってくるようになった。オートバイはセクションに置いてあるから、ライダーはオートバイに乗るかっこうだけしてやってくればいい。お手軽だ。


 このイベントについては、何度か日記に書いたので、詳細は省略。過去のこのイベントについてはこちらをどうぞ。
2006年07月06日:オートバイのいらないトライアル遊び
2004年06月12日:JMMスーパートレッカー
2001年06月14日:この1ヶ月間のできごといろいろ
 今回はこれ以外に思ったことだけ書いておきます。
 まず、事故はいつも想定外のところで発生するけれど、それはほんとは想定外ではなくて、こちらが想定するのをさぼったところで発生するということ。
 事故っていっても、あぶないセクションを作ったとか、そういうことじゃない。トライを終わって、平らなところでUターンしようとして、そのまま暴走するというパターン。暴走した先が崖だったりすると、たいへんにあぶない。
 もちろん対策は考えた。マシンにはつけられるものには全部アクセルストッパーをつけた。自然山DVDフロントアップ道場に付属でついているやつだ。さらにアクセルの遊びも増やした。アクセル全開が、アイドリングからほんの少し高いだけ、という仕様になっている。
 セクションにするところは、落ちるようなところは選ばない。仮に暴走していっても、山にぶつかって止まるように設定した。でも登れば降りなきゃいけないし、あんまり安全安全といっていると全部まっすぐの真っ平らになっちゃうし、それで悩むわけだ。なんせ、参加者たちはびっくりするようなことをしてくれる。使ったオートバイを回収しようとしたら、フロントブレーキがすかすかになっているのがあった。どういう壊れ方をしたのかと思ったら、メカの心得のある(と自覚している)人が、ブレーキの遊びを調整しようとしてネジを回したら、オイルが飛びだしてきてブレーキがきかなくなったということだ。ほんとかなぁ。少なくとも、びっくりすることは次々に起こる、ということだ。
 こういうイベントに関わりはじめた最初は「想定外のことが次々に起こるなぁ」とびっくりするばかりだった。でもそのうち、どんな想定外が起こるかはわかんないけど、想定外の事件は必ず起こるので、それはすでに想定外ではないということに気がついた。想定外でないなら、手を打っていないぼくらに非がある。イベントを作っている側としては、こういうふうな考えでいないと、オフロード初心者をトライアルなんかに誘い込めない。
 今回も、一生懸命安全にセクション設定をしながら「まぁここは大丈夫だろう」「こんなところ、落っこちるやつはいないだろう」と高をくくったところが何ヶ所かあった。手を抜いたのかもしれないし、条件的に最善を尽くしたけど、どうしてもリスクが残ったところもあった。実際に事件が起きたのは、そういう場所じゃなくて、まったくリスクに気がつかなかったところだった。ぼくらの見落としってやつだ。そんなところで事件が起きるなんてまったく想定外だったのだけど、そういうところが、実は一倍あぶない。
 現実的には、いったいどうやって対策すりゃいいのさと大悩みしてしまうんだけれど、悩みながら、より安全をめざして、それでもいくつかの“想定外”の事件にびっくりしながら、また来年もこのイベントはやっていくことになるんだろうな。

07JMM

 もうひとつ、ぼくはここでオフロードなんかはしったことがないという初めての人のクラスを担当している。このクラスのコンセプトとしては、初めての人なりにトライアル競技をしてみようってことなんだけど、そんなのはほとんど無理なので、競技というよりお勉強会になる。それなりにみんなお勉強して帰っていくからこれでいいんだと思ってはいる。
 だけど、ここんところ、他のスタッフから「もっとオートバイを走らせないとつまらないのではないか」という声がどんどん届くようになった。ぼくがやっているのは、確かにオートバイがあんまり走らない。でも走らせるとあぶない人たちに、安全にトライアルをおもしろがったもらおうと最大公約数で考えるとこんなふうにおちつくという結論だった。
 今回、外野の声に合わせて、ちょっとメニューを変えてみた。少し急いで先に進んだ。さて、どうだったろう? 参加者にもゆっくり感想を聞いてみなきゃいけないけど、トライアルマシンに乗る時間は増えたけど、確実に技術を持ち帰ってもらうという点では、あせらずに一歩ずつしっかりやったほうがいい。どっちがいいかわかんないけど、少なくともぼくにはちょっと中途半端だという思いが残ったから、次からは雑音が聞こえてきても、自分の思ったように勧めようと思ったのだった。

*写真は、素晴らしい先生である柳沢克吉くんと生徒の子どもたち。克吉は子どもたちに礼儀作法もちゃんと教えるので、かなわない。
もう1枚は、自転車で2度交通事故を起こして死にかけた経験の持ち主であるうちの娘と、25回パリダカに参加した(世界一の記録だそうだ)菅原義正さんと、その昔、ユーミンにテーマソングを作らせて(笑)パリダカに参加したことがある浅賀敏則さんと、その他のお二人のみなさんの記念写真。後ろから顔を出しているのは、雑誌業界の大先輩のA氏。

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2007年06月06日

持ち時間の不思議

雷雨の新宿

 持ち時間5時間30分というのは、一体何秒のことなのか、という禅問答みたいな論争(というほどのこともなく、ただの雑談だけど)を、山本昌也さんとしました。

 全日本選手権近畿大会、そのゴール地点にいて、1ラップ目の持ち時間ぎりぎりの各ライダーのゴールを待っていたときのこと、田中太一選手だけが、持ち時間を20秒すぎてチェックポイントに入ってきました。1ラップ目の持ち時間は3時間。田中選手のスタートは○時○分だから、○時○分がタイムオーバーとなるべき時刻田中選手がはいってきたのは○時○分○秒でした。
「1分オーバーです」と告げられた田中選手は「59秒まではオンタイムなんじゃないの?」と質問していましたが「いいえ、ダメです」といわれてちょん。一般論として、ライダーは判定についてはダメ元で聞いてみるのが習慣化していますから、この田中選手の場合もそうかもしれない。
 でもぼくは昔々のことを思い出します。そのときぼくは、たまたま板取村の自転車世界選手権の本部席に座っていて、スペイン選手から「タイムオーバーの計算の仕方がおかしい」とさんざんごねられて、四苦八苦しながら対応したのを思い出し、それからヨーロッパの世界選手権に出かけるようになって、時間の数え方についても日本とヨーロッパではちがうんだなぁと思い知ったのでした。
 田中選手のいう、59秒まではオンタイムという考え方は、田中選手がヨーロッパで戦っていたときになじんでいた数え方です。今回の場合なら○時○分をすぎて、○時○分○秒までは減点ゼロ。○時○分となったらはじめて減点1点が課せられるというしくみです。
「そんなの、どう考えてもおかしいやん」
 と、昌也さんは言います。ぼくも、少し違和感があります。でもヨーロッパに通ってるうちに、なんとなくそういうものかと思ってしまうようになった。習慣の問題ですから、なんでと言われても答えようがない。無理やり理由をつけるとすれば、分以下の単位を切り捨てると考えれば、ヨーロッパ的時間の数え方も、納得できます。秒針がなくて、00秒になった瞬間に分針が1分進む時計を公式時計にしていたとしたら、秒単位のタイムオーバーはとりようがない。○時○分までオンタイムということは実質○時○分○秒までオンタイムということになります。
 たとえば、これはフランスGPの結果表。13位のクリストフ・ブリオンは5時間33分15秒かかってゴールしてます。持ち時間は5時間半だから、3分15秒タイムオーバー。日本だったら、4点の減点。でもFIMのリザルトでは、タイムオーバー減点は3点ってなってます。
 ぼくも日本人だから、石原慎太郎と同じく、フランス人の数字の数え方はへんてこだよなぁとは思います(でも、フランス人の数字の数え方のほうが、オブジェクト指向ではないかと思いこそすれ数字を数えられないとは思わない)。だけど彼らの数え方を否定するには、フランス人の育つ環境や教育やひょっとしたら宗教など、いろんなことを研究しないと結論が出ないと思われる。ブッシュがやったみたいに、アメリカの論理でイスラム圏を統治しようとすると無理がでる。時間の数え方も、もしかするとこんなのに通じるんじゃないかと思うわけです。
 と、これがいつものニシマキへ理屈です。昌也さんは、瞬時にする直感的な判断が適確でステキ。でなければ、5年も続けて全日本チャンピオンにはなれない。へ理屈並べるニシマキに、昌也さんはこう言いました。
「じゃ、ヨーロッパじゃ、セクションの持ち時間は、たとえば1分だったら1分59秒までいいわけ?」

 ごもっともです。ヨーロッパのセクションの持ち時間は1分30秒だけど、セクションの持ち時間については、1分30秒になったとたんにピーッと笛を吹かれるわけだから、ヨーロッパの時間の数え方が宗教上の理由だという(?)ぼくのへ理屈は破綻しました。
 往々にして、トライアルにはヨーロッパの古い習慣が残っています。古いかどうかわかんないけど、日本人には不思議な習慣がいっぱいある。最近になって少しずつそれに気がついたのか、たとえば免許のないライダーは公道を走らせないようにしよう(当然だ!)とか、だれでも彼でもがライダーのヘルプをするのはやめようとか、日本人にとってはどうしてそんなのが改革になるんだというような見直しがおこなわれています。
 ニシマキの記憶の範囲では、たとえば停止1点というルールが使われたとき、日本GPでは厳格に停止を1点と採点しました。ルールブックに停止1点と書いてあるんだから、止まったら1点とられるのがあたりまえ。あと、ゲートマーカーの中を走れと書いてあるから、ゲートマーカーにタイヤが触れたら中を走ったことにはならないんで5点減点。これもごく当然の判定です。
 そのどちらも、ヨーロッパの連中に言わせると、ありえない判定ってことになる(ヨーロッパの連中というくくりの中には、藤波貴久や黒山健一ら、ヨーロッパを走っている日本人も含まれる)。とあるセクションでラガがこれにぜんぜん納得できなくて「あとで抗議するからちゃんと覚えててくれ」とオブザーバーに言いたいんだけど通じない(ラガが日本語が話せればよかったんだけどね)。そこにいたニシマキを見つけて通訳させられたってことがありました。試合が終わってから「あの判定はどうした?」とラガに聞いたら「今日の成績はあそこの判定がひっくり返っても関係ないレベルだから、もういいの」という答だった。その判定次第で優勝が手に入るようだったら、きちんと抗議をするつもりだったのかもしれません。
 ラガの話じゃないんだ。かように、ものの判断については日本人とヨーロッパ人と、いろいろ基準がちがいます。一口にヨーロッパ人というけど、イギリス人とスペイン人が同じ価値観を持っているとも思えないんで、彼ら同士でもいろいろあるにちがいない。
 でも判定については、最初は「日本人はへんてこな判定をしやがる」という反応だったけど、そのうち「どうやら日本人の判定のほうが正しいんじゃないか」ということになって、そしたら停止1点なんてルールはトライアルをつまらなくするから、やめちゃおう」ということになった(と、流れを見ていてニシマキは強く感じる)。日本人は思うのである。「ほれ見ろ、日本人の判断は正確なのだ。最初から日本人の言うことを聞いておればよいのだ」と。
 でも、不幸にしてトライアルの中心地は、やっぱりヨーロッパにある。そしてヨーロッパに出向いていかなければ、どんなにすぐれたトライアル選手も世界チャンピオンに慣れないように、正しい価値判断もまな板に乗らない。昌也さんのいうことはたいへん説得力があると思うけど、猪名川サーキットで言っていても世界は変わらない。ジュネーブだかブラッセルだかで開催されるFIMのトライアル委員会に、日本からも委員が出席しなければ、日本の存在はいつまでたってもお客さまで、正しかろうが正しくなかろうが、日本がやることは異端児のやることとして受け止められる。
 今、世界の舞台に存在する日本人は、藤波貴久と小川毅士しかいない。藤田秀二さんやぼくらもときどき取材に出かけるけど、年に数回じゃ、出席率が悪すぎる。ヨーロッパの人たちは、毎週のように試合の現場で顔を合わせて、いろんなことを話している。そういう中から、トライアルの未来も形成されている。正しい判断も、主張すべきところにいて主張をしないことには、なんにも変わりゃしないのだ。

(セクションの持ち時間は90秒で切り捨て、試合の持ち時間は330分で切り捨てという規則なら、91秒と331分でタイムアウトという解釈もありですね。日本人的には違和感もあるけど、世界にはいろんな考え方のいろんな人種があるということを、島国の人にはもっと知ってほしいけど、報道の中でもそこんところが一番むずかしい)

トップの写真は、大雨が降る直前に首都高を見上げて。最近、東京のこういう光景が珍しく見えるようになった。

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2007年05月17日

ネジは古いのか

お気に入りの散歩道

 ペンタックスが、HOYAとのTOBを受け入れて子会社になったらしい。ペンタックスは、カメラ事業へのこだわりが大きかったらしい。ぼくにとっても、ペンタックスはカメラだ。生まれて初めて使った35ミリ一眼レフは、アサヒペンタックスKという1958年型だった。今でもポケットカメラはペンタックスの防水を使っている。
 でも本日は、日本経済やカメラ史について語りたいわけじゃないんだ。ネジを締めるという古典的なアクションについて考えてみたというお話。

 今はもうちがうけど、ペンタックスといえば(正確にはアサヒペンタックスと称してました)、M42プラクチカスクリューマウントだ。アサヒペンタックスは日本で最初に一眼レフを市販した会社で、世界で初めてクィックリターンミラーを一眼レフに取り入れた会社でもある。クィックリターンじゃない一眼レフというのは、いまでもハッセルブラッド(女の子のヌードとか撮るときにはこういうカメラが幅を利かせる)とかはそうなんだけど、写真を1枚撮ると、ファインダーから像が消えてしまう。悲しい。画像を見るには、巻き上げをして、シャッターをチャージしてミラーを元の位置に戻さないといけなかったんだ。クィックリターンミラーが開発されたあとも、レンズの絞りは自分でセットしなければいけなかった。今みたいに、いつでもレンズの最大口径でプレビューが見られて、写真を撮るときにだけ絞りが絞られるシステムは、またもうちょっとあとのことだった。調べたら、自動絞りを製品化したのもペンタックスだった。ペンタックスえらい。
 あれ? すっかりカメラ史になってる。もうちょっと続けちゃおう。
 で、この古きよき時代のペンタックスが採用していたスクリューマウントってのは、レンズを交換するとき、レンズをぐるぐる回してねじ込みでボディに固定するってやり方だった。キヤノンKissとかニコンD40とか使っている人は、ためしにレンズをはずしてみてください(ほこりのないところでやってね)。ボタンひとつ、レンズをくぃっと1/4回転ほど回すと、レンズとボディがばらばらになるはずです。それに対してスクリューマウントは、ぐるぐるぐるぐる。何回回すのかは、調べがつかなかった。ぼくの昔のカメラは、あるとき大事に使ってくれそうな人に無期限に貸してしまったから、今手元になくて検証ができない。残念。
 中学校のときに、当時ペンタックス最上級機種のSPってのを買った。その時説明書にこんなことが書いてあった。スクリューマウントについての記述だ(もちろんうろ覚えにつき、正確ではない)。
「スクリューマウントはネジが摩耗してもさらにぐるぐる締め込めば規定位置にセットできるので、常にきれいな写真が撮れます。機構が摩耗するとなにが写るかわかんないバヨネットマウントとかより優秀です」
 これは負け犬の遠吠えなんじゃないかなぁと思ったんだけど、確かに、バヨネットマウント(ニコンなどが採用。ニコンは一眼レフ開発当時から今にいたるまで、基本マウントを変えない唯一の会社になった)とかスピゴットマウント(キヤノンFDのマウント。ぼくはこのマウントと、この時代のキヤノンが好きだ)では、ガタがでるとレンズそのものがガタガタしてくるリスクがある。スピゴットはそれでもレンズを締めつけるメカがあるからいいんだけど、キヤノンもバヨネットに未練があったらしく、FD後期型ではスピゴットをバヨネット風に改変してしまい、EOSになって完全にバヨネットにしてしまった。いや、バヨネットがいけないわけじゃないんだけどね。

 だからカメラ史ではないといっているのにだ。実は今日インスタントコーヒーを飲もうと思って、ふと気がついたわけです。この前まで飲んでいたのは、フタをくるくる回して開け閉めしていた。今飲んでるのは、フタを1/4ほど回すと開け閉めできる。バヨネットなんだね。
 ただ、なんだか頼りないの。ほんとに締まったのかな、不意に開いてしまわないのかなって。いっしょに使っているクリームのビンはスクリューマウントだから、ぐるぐるぐるぐる。でも確実だし、軽くクルクルっと回せば、あっという間に開け閉めできる。
 スクリューマウントがバヨネットマウントに取って代わったのは脱着が簡単で確実だったからなんだけど、ほんとに締まってるのかなと何度か確認するより、ネジを一発で確実に締めたほうが早いんじゃないかって、コーヒー飲みながら(今もそのコーヒーを飲んでいる)考えたわけだ。
 そういえば、レンズのフードがあるでしょ。レンズの前につけるよけいな光線を遮るやつ。あれも、昔はネジで締まっていたんだけど、最近のはほとんど全部バヨネットだ。最近のは丸くないから、ぐるぐる回して方向がちがっちゃうと困るという技術的理由もあるんだろうけど、でもぼくはバヨネットのフードがきらいだ。だって、すぐに落っことすんだもの。
 バヨネットだから、少しきつく締まっているとはいえ、1/4回転もするとはずれてしまう。山を駆け回ったりしていると、ぜんぜん気がつかない。これがねじ込みだったら、ネジが完全に外れるまで、ぐるぐるぐる、くらいはしないといけないので、発見するまでに猶予がある。バヨネットフタのコーヒー瓶をひっくり返してコーヒーをこぼしたことはまだないけど、レンズのフードはもういくつもなくした。
 1秒コンマ1秒を争うレースの世界では、車輪の脱着にクィックリリースってのを使っている。耐久レースでクィックリリースが登場してきたときには革命だったなぁ。でも、車輪の脱着をバヨネットにしているレース屋さんはない。どう考えてもあぶない。
 そういえば、トライアルマシンの燃料キャップは、いまだにぐるぐる回すやつが多いですね。簡単に開くということは、開いてほしくないときにも簡単に開くということだ。トライアルメーカーは、とことんユーザにやさしくないから、ワンタッチでガソリンキャップが開くようにしようなんて、これから先もそうそう考えないにちがいない。
 簡単にくっつくというのは、簡単にはずれることである。ネジの起源は、確かな記録が残っていないらしい。昔の人が大事に育てた技術は、やっぱり大事にしていかないといけないなぁと思った初夏の物思いなのでした。

 写真は、お気に入りの散歩道。この先、いい感じで湿っていて、ほとんど人が通らないから、あっという間にコケがびっしり。オートバイなんかで走ったらあっという間に壊れてしまう微妙な自然だけど、オートバイならずとも、人間ひとりが歩くのも、なかなか気をつかう散歩道なのだった。

投稿者 nishimaki : 16:35 | コメント (4) | トラックバック

2007年05月09日

三宅島はどこへいく?



両神のお隣

 石原慎太郎都知事が、三宅島を舞台にマン島TT(ツーリストトロフィー)みたいなことをやろうとしているのはすでに世の中の常識的ニュースだけど、これを三宅島が断念しかけているというニュースが、ちょっと前にあった。石原さん、三宅島、レース界、メーカー、いろんなところの思惑がからみあっていて、外野から見たらおもしろい。
 三宅島でモータースポーツ、という動きについては、ざっと1年前に書いたことがある。そのニシマキ日記はこちら
 でも、案の定というか、今は話が大きくしまって、出て行くにくい状況ではある。

 三宅島1周レース断念のニュースは、朝日新聞などに出ていた。今検索してみたら、件の記事は消えていたので、キャッシュサービスのリンクを紹介しておきます。

三宅島1周レース断念 都、滑走路の利用など検討
2007年04月27日03時23分

 要約すると、11月に石原慎太郎の肝いりでぶち上げた三宅島1周30kmをつかったオートバイのレースは、二輪メーカー各社の安全面での懸念が強く、代替案を検討することになったというものだ。1周3km程度の短いコース、閉鎖中の三宅島空港の滑走路を使う、島の斜面でのオフロード競技、ツーリングイベント、などがまな板に登っているという。都としては、レースの開催に二輪メーカーの協力は不可欠として検討を重ねていたが、メーカーの協力が得られないため、代替案の検討にはいったという。

 反応はふたつある。「ロードレースなんてあぶないもんをやるなんて、無理に決まってるじゃないの。断念は賢明だよ」という大人の意見と「せっかく石原さんが英断を下したのだから、二輪界は総出でこのイベントを盛り上げるべきだ、なんで協力できないのだ」というもの。どっちもごもっともだと思う。
 この件について、畑がちがうからあんまり聞き回ることもしなかったんだけど、この前ふととあるメーカーでモータースポーツの普及に従事している方とお話ができた。三宅島の件については、やっばりそうだよなぁ、というお話が聞けたから、かいつまんでご紹介しておきます。
 まず、今回のニュースは三宅島公道レース断念ではなくて、当初案について修正動議がかかったというとらえ方だ。三宅島でのオートバイイベント自体は歓迎すべきことであり、メーカーも応援をしていくという姿勢らしい。
 ただし、応援するといっても無条件というわけにはいかない。まずはやっぱり安全性だ。石原さんがマン島に視察にいったときに、不幸にも前田淳選手が事故に遭って、のちに亡くなった。ふつうなら「こりゃあぶないからやっぱりやめよう」ということになりそうなんだが、石原さんはモータースポーツはけっして安全なものではないということをよく理解しておられる。前田選手の事故死も、石原さんの信念を変えることはなかった。前田選手の遺志を考えても、よかったと思う。
 でも、世の中の声はどうなのか。前田選手の事故の報道は比較的ひっそりしていて、三宅島でのイベントと直接関連づけているものはなかった。いざ三宅島でレースをやって事故が起こったときに「こんなあぶないことをやりやがって」と叩かれるのがオチではないかというのが、メーカーのたいへんもっともな心配だ。
 三宅島にはフェリーがつけられない。人とオートバイ、レース機材をどうやって運ぶのかについても解決ができていない。スタッフだっていない。都はマン島の例を出して、コースオフィシャルは島民に、と提案してきたことがあるらしいけど、マン島の島民は、生まれたときからコースオフィシャルをやっている。今日本でコースオフィシャルをやっているどんなベテランよりも、経験豊富な人たちだということを忘れてはいけない。
 そもそもマン島自体が、世界のレース界から一線を引かれているイベントだ。かつてイギリスGPといえばマン島だったけど、今はモトGPが開催されるなんて話はついぞない。だからといって、マン島の魅力は絶大なものがあるんだけど、それはやっぱり100年の歴史(1907年に始まっているけど戦争で中断があるから100回はやっていないはず)の賜で、今からマン島をコピーするのは不可能なんじゃないかと思う。
 と、こんなふうに懸念はいっぱいあって、だから懸念を解消していって、地元のためになるようなモーターサイクルイベントを構築しましょうというのがメーカー側の提案らしい。これに対して、都や三宅島は、どうやら石原慎太郎さんの提案が大事なようで、島一周のロードレースにこだわっちゃっていたみたいなのだ。
 レースの開催には二輪メーカーの協力が不可欠という考え方も、日本独特だ。もちろんマン島だってスポンサーはいろいろ受けているけど、日本で開催されるレースのように、日本のメーカーが全面的にバックアップをしているということはない。100年の歴史を誇るマン島を手本にするといいながら、お金の出所だけは日本のレースの常識を踏襲するのは、ずるいと思っちゃったりする。マン島TT、SSDT、伝統的イベントは、メーカーにお金の無心なんかせず(多少はしてると思うけど)開催している。だってメーカーよりも、ずっと息長く続けているイベントなのだ。イベントが、高性能なオートバイを作ったという自負だってあるだろう。メーカーがなければ開催できないなんて思うわけがない。マン島とSSDTがなければ今の二輪メーカーはなかったと思っているイギリス人は少なくないはずだ。
 100年のマン島の向こうを張ろうと思わず、その歴史30年のイーハトーブトライアルあたりからノウハウを学んでいったら、もう少し軟着陸ができたんじゃないかと思うんだけど、石原慎太郎御大の鶴の一声で始まっちゃったから、トライアルなどというわけのわかんないモータースポーツでお茶を濁すことはできないのかもしれない。「村の財政は脆弱なので、メーカーの協力がないと開催できない」と愚痴る平野村長の発言は、なさけないのと同時に、同情に値するものでもある。これについて、件のメーカー氏は「協力するったって、メーカーはそんなにお金を出す気は最初からないですよ」とのこと。当然だよなと思う人、冷たいなと思う人、いろいろいるだろうと思うけど、そういうことらしい。

 文化というものは、よその国から突然輸入してきたり権力あの人の鶴の一声で決まるものではなくて、長い歴史と土地の人々の努力から生まれるものだと思う。
 そういった意味で、日本のトライアルはたかだか40年弱の歴史しかないけれども、40年分の文化を育んでこれたかどうか、三宅島がどんな決着を見せるかはわかんないけれども、他人のフリ見て我が身を正していきたいとは思います。いえ、けっして三宅島がだめって言ってるわけじゃないんだけどね。

*写真は例によって本文とはまったくなんの関係もなくて、今住まわせてもらっている両神の家のお隣。おじいさんみたいだけど、意味もなくこのへんをふらふら散歩するのが、すっかりお気に入りの日課になりました。

投稿者 nishimaki : 16:22 | トラックバック

2007年05月03日

ギャロップを見る

07ギャロップFのスタート

 連休いろいろその2はギャロップの巻。
 福島県双葉郡川内村。前の日にロードレースの舞台に中にいたぼくは、一夜を置いて山深い村にやってきた。福島県といっても、茨城県に近い、東北圏内にあっては、関東地方にもっとも近い位置にあるんだけど、そうはいっても、やっぱり近くはない。
 現地では、ようやく桜が散りはじめた頃だった。

ギャロップX

 川内のエンデューロは、今回で5年目だか6年目。今回やったのは初心者向けのやつで、秋にはうまい人たちが飛んでいく上級者向けのやつもある。
 牧草地の跡地や山林をコースにしていていて、気持ちがいい。たぶん走ったらとても気持ちがいいと思う。でもぼくはまだ、ここを走ったことがない。
 というのも、ここはレース開催日以外は、オートバイの走行を厳禁しているからだ。ふつうの大会だったら、レースの準備かなんかをやるときには、スタッフはオートバイを足に使って、それなりにオートバイ遊びも楽しむもんだけど、ここではオートバイが走っていいとお許しをもらっている日以外はこれっぽっちも走らない。そこまでしなくてもと思わんでもないけれども、けじめというのは破りはじめたらきりがないんだろうなぁ。
 もうひとつ、山をオートバイで走ると、少なからず荒れてしまう。坂の途中でスタックしたりして、脱出にもがけばもがくほど、わだちは深くなる。こういうのを放置しておくと、山の地形ががらりと変わってしまってものすごいことになる。このエンデューロは、イベントが終わったあと、ボランティアを募って、コースの改修をやっている。一部のツーリングトライアルでは、すでに当然のようにやっているし、エンデューロでも今はどこもやっているのかもしれないけど、オートバイ好きが山林に集まって、でもオートバイには乗らずに(改修をする日にはオートバイを走るお許しはもらってませんから)スコップを片手にのしのし歩いている姿は、珍しい光景ではある。
 広いコースは重機がはいれるから作業は簡単なのだが、山の奥は手作業しかできない。人間の手が、まだまだ必要とされている場面は多いのである。

 前置きが長くなっちゃったけど、今回のレースは、初めての人や女の人なんかを集めて、全部で216名の参加があったらしい。最初にちょっと速い初心者、次ぎにふつうの初心者、ミニ、初心者中の初心者、女の人たち(男組に混ざって走る人だってもちろんいる)、今日が初めての人たちといろんなクラスに分かれて、それぞれが一斉にスタートする。
 レース時間は3時間。トライアルは5〜6時間やっているから、それに比べるとあっという間かもしれないけど、ライダーはずっと走っているから、どっちがたいへんなのかは比較の問題ではないんだろう。1周は、今回は10km。速い人で15分。ふつうの人で20分。初めての人とか、途中でへこたれた人は1時間近くかかって回ってくることもある。平和だ。

森の中のコース

 森の中へいくと、10cmばかりの丸太を越えられずに地面を掘り続けている人とか、木の根っこが出てくるたびに転んでいる人とか、ほほ笑ましい人がいっぱいいた。こういう人が、トライアルやモトクロスの底辺を支えているのだと、ぼくはいつも思う。トップライダーばかりでは、世界は成り立たない。トライアルには、本物のライダーが(相対的に)多すぎるんじゃないか。だもんで、トップの数人のライダーを、ランキング10位くらいのライダーが支えるというみたいな、小さな世界になってしまうのではないかしらん。
 と、そんなことを考えながら、森の中でレースを眺める。森の中には、妖精が住んでいる。妖精とお話していると、向こうの方からかすかに排気音が聞こえてきて、そのうち目の前を通過する。さっそうと走り去っているつもりの人、できれば助けてほしい、見たいな顔をしている人、いろいろ。平和だ。
 それでも、このレースはきっちりすべきときころはきっちりしている。レースが終わったら、自分の個別のタイムが発表されたりする。エンデューロやモトクロスでは当然のことかもしれないけど、車検もちゃんとおこなわれる。車検ってのはめんどくさいし、壊れるようなバイクを持ってきてクラッシュしても、それは自己責任なのだけど、競技となると、いらぬ迷惑を他人にかけることになるから、やっぱり必要な儀式なんだろう。草トライアルに車検が必要なのかはともかく、なんとなく最近のトライアルは、けじめがなくなっている気がしないでもない。気のせいかな?

 レースを最後まで見ていたかったけど、夕方遅くなって新潟のパドックに到着するのも具合が悪いなと思い、スタートして1時間ちょっとしたところで現場をあとにする。太平洋側から日本海側までの移動。磐越自動車道はほとんど一車線で、フルコースコーションがでたままのインディレースのようだ。高速道路は追い越しがスムーズにできるからこそ高速道路なのだと思うのだけど、日本の高速道路は、そもそもの設計もおかしいし、そこを走る運転者の常識もおかしいから、なぜか追い越し車線から混んでくる。こんな走り方をしていたらドイツだったら殺されても文句はいえないんだけど、そもそも片側一車線の高速道路を見せたら、ドイツ人はどんな反応を示すだろうか。
 なんて、ぜんぜん関係ないことを思いつつたどりついた、全日本会場の新潟県阿賀野市大日が原も、まだ桜のシーズンだった。

投稿者 nishimaki : 11:37 | コメント (3) | トラックバック

2007年05月02日

連休いろいろその1。DE耐

スタート前の泉田レーシング

 ゴールデンウィークの前半。たまたまなんだけど、土曜日にロードレース、日曜日にエンデューロ、月曜日にトライアルというこれぞまさにモータースポーツ三昧という週末を送った。ロードレースはツインリンクもてぎで開催されたDE耐。エンデューロは福島県川内村で開催されたギャロップF。トライアルは、もちろん全日本トライアル第3戦だ。

 ほんとは、全日本トライアル以外のふたつには、参加しちゃいたいなと思ったんだけど、その時期は自然山通信の締め切りから発送にかかるあたりで、忙しいうえにはずせない。それに、さすがに全日本トライアルの前日にレースに出て遊んでました、というのもパドックで世間体が悪いから(一応世間体を気にしたりすることもあります、これでも)、土曜日と日曜日は見るだけだ。
 DE耐は、小さなバイクで大きなお祭りってキャッチフレーズで、100cc以下の4ストロークのバイクを使った7時間耐久レース。今回は100ccをベースに125ccまでスケールアップしていいクラスができて、これにぼくが今住んでいる小鹿野町の仲間が出場するんで、応援に行ったというわけです。奥ゆかしい仲間たちだから、小鹿野レーシングじゃなくて、自分たちの集落である泉田レーシングを名乗っている。でも、町長からお祭りのハッピを借りてきて、チームメンバーは全員ハッピを着てパドックを徘徊した。ぼくもハッピを着せられた。

ライダー交替

 このレースがおもしろいのは、まず参加ライダーが10人まで登録できるってところだ。7時間走るんだから、ライダーが10人いたら、ひとりあたりの走行は40分1回。効率が悪いと思われるけど、みんなで楽しもうという趣旨のチームは、オートバイ1台に10人のライダーが群がる。
 もうひとつは、これは重要だ。ガソリン補給は、一度に3リットルしか入れられない。しかも一度ガソリン補給をしたら、10分間は再スタートできない。加えて、スタートのときにも3リットルきっかりしかガソリンを入れさせてもらえない。
 コースはツインリンクもてぎのロードコース。MOTO GPを開催するのとおんなじコース。スタートは50台ずつのル・マン式スタートで、スタート順はくじ引きだった。我がチームは101番目を引いたから、最後のグループのポールポジションだった。1コーナーの手前まではトップ(3番目のグループの)を走ったのが、今回のレースの華だった。

DE耐スタート

 ぼくは今のロードレースの、ピットがみんなプロモーションブースになってしまった雰囲気がどうも苦手だ。ぼくがサーキットに行きはじめたとき、パドックでは雑誌で拝見するビッグネームがパンツ一丁で後輩にレースの心得を語ったりしていた。そんな雰囲気が好きです。そしてぼくがトライアルを好きなのは、そういう雰囲気が残っているというのも理由だ(ロードレースみたいに潤沢な資金がないだけじゃないか、というつっこみはなしにしてね)。
 ふとまわりを見れば、けっこう知り合いがいた。ライダーにもピットクルーにも。最近の知り合いもいるし、30年来の知り合いもいる。“駆け出し”時代に阿部さんから怒られた以前の知人もいっぱいいた。みんな、オートバイとレースが好きなんだよね。
 阿部さんといえば、五味淵安彦さんのチームのマシンには、1980年代の阿部さんのステッカーが貼られていた。村井真さんが描いたかわいいイラストだ。たまたま出てきたので、弔い合戦だと思って貼ったんだそうだ。いい話だなぁと思って聞いていたけど、阿部さんだったら「五味淵よー、おまえんちのライダー、だいじょうぶか? おれを貼り付けたままころばねーだろーなー」とずっとぶつぶつ言ってるだろうなとあとで思った。レースが終わってから結果を聞きにいったら、ひとり転んじゃったんだそうだ。転ばず、速く走らず、亀さんみたいに周回数を稼ぐ予定だった五味さんも不満そうだったけど、阿部ちゃんも怒ってるだろうなと、ぼくは内心笑ってしまいました。
 ピットサインを介してのライダーとのやりとりとか、久しぶりにやらせてもらって、楽しかったしなつかしかった。
 このレースがすばらしいのは、マシンのベースがそのへんを走っているふつうのマシンということがひとつ。そういえば、ぼくがサーキット通いをはじめたときにはミニバイクレースが旬で、モンキーとかXE75とかミニトレとかが大きな顔をしてサーキットを走っていた。きっちりしたレーシングマシンは性能的には天下一品だけど、どうしても気軽さがなくなってしまう。天下一品の性能のマシンしか持っていないトライアルから見ると、とってもうらやましい。
 しかも、そのマシンが1台あれば、10人までライダーとして楽しめる。トライアルは、個人競技という性格が強いから、1台のマシンをみんなで乗るという発想はまずない。1台を禍根でみんなで記念撮影って、そういえばトライアルでは見かけないシーンだ。
 もうひとつは、冗長なピットストップだ。こいつのおかげで、うんと速いひととうんと遅いひとの差が目立たなくなる。速いばっかりでガソリンをまき散らしながら走るようだと、結局効率が悪くて勝てもしないわけだ。効率よく、燃費もよろしく、それでいて速く走ったチームが勝つ。
 こういうレースだと、どれくらいのペースでどんな配分で走ったらいいかを、きっちり計算しないといけない。だから走るばっかりのチームじゃまとまらなくて、たいていチームにはひとり博士くんみたいな計算係がいたりする。いろんな能力が力を合わせられるというところもうらやましい。
 エンジョイライセンスを持っていれば参加できるというお気軽さもいい。とはいえ、ヘルメットも革つなぎも公認品でなければいけなくて、ヘルメットをかぶるときにはヘルメットリムーバー(意識不明になったライダーから無理なくヘルメットを外すしかけ)も使わないといけない。車検も厳しい。小さくても、本物のロードレースだ。しっかりするところはしっかりして、気軽な部分は気軽にやる。よく遊べ、よく学べ、ってやつだ。トライアルは、学ぶところを学んで、遊ぶところを遊んでいるだろうか。ちょっと心配になりました。

 DE耐のまねをして、単純にトライアルで耐久レースをやったっておもしろくもないけれど、このレースのエッセンスをトライアルに生かして、みんなでわいわいできる試合はできないもんかなぁ。

 その晩、ぼくはもてぎから福島県川内村に向かった。もてぎから、そのまま新潟に向かうのが正しいんだけど、ぼくら近い将来、川内村にお世話になることになっているけど、そこで開催されている参加者数日本一というエンデューロを、まだ一度も見たことがなかった。で、寄り道をすることにしたのでした。

つづく

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2007年04月18日

阿部孝夫さん、ありがとう

両神の桜

 4月12日のことになるけれども、阿部孝夫さんが亡くなった。トライアルぞっこんの人や若い人は、阿部さんの存在を知らないかもしれないけど、とってもすごい人だった。そして熱い人だった。
 本日は、昔話を思い出しながら、阿部さんの思い出話をつらつら書いてみます。長いけど、ごめんなさい。

 阿部さんはホンダのファクトリーライダーをやっていたけれど、ホンダから離れると、営んでいたショップのある浜松で、漁師を始めた。もともと北海道の人だから漁師なのか、釣りが趣味だったのかはわかんないけど、結局現役時代は走るのに忙しくて、現役を退いたら釣るのに忙しくて、ショップはもっぱら奥さんが仕切っていたらしい。
 現役を離れてからは、ライディングスポーツ誌で小気味よいインプレッションを書いていたから、これを知っている人はいるかもしれない。走っている姿は、ちょっとも速そうじゃない。だって、でぶなんだもの。でも、たぶん世界一速いでぶだった。
 高校の教室で、授業中に食い入るように見ていた、先輩たちが読み古したオートバイの雑誌には、阿部孝夫はスズキのTR500で登場していた。それから、阿部さんはカワサキにチームを変えた。カワサキでは、のちにチャンピオンマシンとなるKR250/350の開発を始めていて、阿部さんはその重要な開発スタッフだった。
 ぼくがはじめてカメラを持ってサーキットにいったとき、阿部さんは大けがからの病み上がりで、KR250に乗っていた。和田将宏(当時は正宏)清原明彦といった荒法師らとともに、カワサキのチームは個性化ぞろいだった。強烈な個性が、レーシングマシンとしてはおとなしいライムグリーン一色に包まれて、これまた弾丸のように突っ走るコントラストがおもしろかった。
 その翌年から、阿部さんはホンダのライダーとなった。最初は、市販車のCB900Fで耐久レースに出ることになった。阿部さんは、とにかくライディングポジションにうるさかったという。タンクにスポンジを貼って、上半身のホールドをできるようにしてくれれば、タイムを2秒縮めてやると大口を叩いたりしていた。なにかを主張するときの阿部さんは、ちょっと口がとんがる。
 20歳そこそこ、ぺーぺーの新米カメラマンにとって、阿部さんはおっかない存在で、声なんかかけられなかった。ようやく話ができるようになったのは、ライディングスポーツを創刊することになって、おっかなくても無理やり話を聞かなければいけなくなってからだった。
 1983年の鈴鹿8時間耐久レース、ぼくららはその解説を、その前年に引退したヤマハの名ライダー金谷秀雄さんにお願いした。金谷さんに自由にレースを観てもらって、好き勝手を語ってもらおうという企画だ。当日は、ぼくは金谷さんの付き人みたいにいっしょについて回った。金谷さんのプレスクレデンシャルを取得するのはちょっとたいへんだったのだけど(いくら世界チャンピオンに匹敵するライダーでも取材は素人ですから、素人並のクレデンシャルしか出せませんという鈴鹿サーキットとの押し問答)それは阿部さんとは関係ない。
 阿部さんが烈火のごとく怒ったのは、金谷さんのその記事だ。もちろん、金谷さんから話を聞いて、文章にしたのはぼくだ。
「ニシマキー、おまえが書いたのか」
 その号が出た次のレースで、阿部さんはくってかかってきた。
「もうおまえなんかとは口をきかんぞ」
 横で、東海の暴れん坊と異名をとった水谷勝が「まぁまぁアベちゃんもそう怒らんと。まだ駆け出しだもんな」ととりもってくれた。ふだんのキャラクターは、温厚な阿部さんに対して水谷さんがきついキャラを持っている。ここではそれぞれのキャラが逆転しておもしろかったのだけど、阿部さんが怒りまくっているので、ぼくはそれどころではない。
 なにを書いたかというと「ホンダの監督はレースを知らない」と書いたのだ。徳野政樹さんというその後8耐で優勝することになるライダーがいたんだけど、レース中いろいろあって、この人はリヤブレーキなしの状態で走ることになった。リヤブレーキが直らないまま、レースに復帰させた、その采配を金谷さんは責めるのだけど、その監督さんというのは、ホンダがマン島で勝利したときにメカニックとして参加していた秋鹿(あいか)行彦さんで、これまた名だたる人だ。
「秋鹿さんがそんなことをするわけがない」
 阿部さんはホンダの看板を背負って、駆け出しのニシマキに文句を言っていた。取材拒否するとか、そういう現代的な言い方ではなくて「おまえとは口きいてやらない」という子どもみたいな怒り方が、今でもきのうのことのように思い出される。
 仲直りをしたかどうかは覚えていない。でも、ぼくは阿部さんが好きだったから、ことあるごとによっていった。
 阿部さんはでぶだったけど、あるシーズンは125ccでレースに出た。ライバルは体重40kg台の江崎正(神戸でショップをやってる)。ふつう、勝負にならない。でも阿部さんは、登りのきつい鈴鹿のS字で、江崎さんとデッドヒートした。
「おれが飛ぶか江崎が飛ぶかどっちかだなぁと思って走ってた」
 S字から帰ってきた阿部さんは、にこにこしながらつなぎを脱いだ。そう、飛んだのは阿部さんだった。レースには負けたけど、体重差が倍もあるようなふたりが軽量級クラスで熱戦をした事実は、なんだか夢を見ているみたいだった。
 ホンダのライダーが思うように走れないという打ち上げをすると、阿部さんが走って見せる感じ。コーナーの小さな筑波サーキットでも阿部さんは125ccに乗った。でもあれは、素人目にも遅かったなぁ。最終コーナーでは、なりふり構わず飛び込んでくる地元の若手ライダーに対して、阿部さんは周到にラインを考え、ターンインしてくる。その間に、血の気の多い若者は、先へ行ってしまう。
「みんな、どうやって走ってるぅ?」
 タイムのでない阿部さんは、ぼくごとき素人に状況を聞いてくる。どんな情報でも仕入れて、自分の糧にするといえばかっこはいいけど、その時の阿部さんは、まさにワラにもすがる感じだった。そういうなさけない阿部さんも、また阿部さんだ。
 ぼくがはじめて海外のレースに出かけたら、そこに阿部さんがいた。ケニー・ロバーツ(もちろん親父のほう)の走りを見て
「そりゃーもう、とにかく開けっぷりがいいわ〜」
 と感心していた。開けっぷりがいいということは、開けられる態勢に持っていっていることで、開けられるラインに乗せているということだ。マシンのセッティングも、相応のものになっているはず。そういういろんなことを観察しながら「開けっぷりがいいぞ」と楽しそうに講評するところが、阿部さんらしい。
 そのときの阿部さんは、その直前のレースで大転倒して肺挫傷かなんかになってしまった清原明彦のことが心配そうだった。すでにホンダとカワサキでチームも別々だったが、かつてのチームメイト。阿部さんはキヨさんのことをキヨ兄と呼んで慕っていた。人のことを心底慕える人は、また慕える人でもある。
 阿部さんは、フレディ・スペンサーが世界チャンピオンとなったNS500の開発などにも尽力したけど、阿部さんもそのマシンに乗った。ホンダの大排気量マシンはそれまで鈴鹿サーキットでしかレースをしていなかったけど、いよいよ全日本選手権を全戦回るってんで、見る方もわくわくだった。エースライダーは木山賢吾。阿部さんは脇役だった。
 ところが木山さんは壊れたり転んだり、ついてない。阿部さんは2位や3位に入り続けて、3戦くらい走ったところでランキングトップに立った。
「このままやったらアベちゃん、チャンピオンやね」
 本当なら自分がチャンピオンになるはずだった木山さんが、最後のレースとなった菅生で言った。
「わしはもう、はよう鈴鹿に帰りたいわ」
 ランキングトップの阿部さんを、ぼくらは、インタビュー記事でとりあげることにした。写真をそろえて、あとは阿部さんの話を聞くだけになった。で、レースの週末の土曜日に話を聞くことになって出かけようとした矢先、木山さんの訃報が届いた。練習中に、事故死されたのだ。インタビューどころではなくなった。ぼくは鈴鹿への出張をやめて、阿部さんのインタビュー記事のかわりに、木山さんの追悼記事を書いた。
 阿部さんのページを作るためのレイアウト用紙は、ずいぶん長いこと、ぼくの引き出しにしまったままになっていた。あのページに並んだ阿部さんの顔は、本当に楽しそうにレースをしている感じのものばっかりだった。ページにならなかったのは、残念だった。
 それからしばらく、記憶に強烈なのは、また怒っている阿部さんだ。NS500レプリカと称してホンダが作ったのは250cc3気筒。今となっては、すっかり失敗作ということになっている。舞台は、これの発表試乗会となった鈴鹿。雑誌界の大御所が、ぼてぼてっと、何人か続けて転んで「フロントの接地感がどうも…………」なんて感想を語ったのだね、たぶん。阿部さんは切れました。
「おれはこのマシンの操縦性に自信を持ってるんだよ。5コーナーで転ぶなんてのは、4コーナーの入り方がへたくそに決まってるんだ。どこの素人がテストしてんだよ」
 大御所の先生は、誰と誰だったかは忘れた。おひとりは、今でも大御所をやってらっしゃる。そして、ときどき転んでいるらしい。
 メーカーにとっては、雑誌屋さんはお客さんである。いい記事を書いてもらって、オートバイがいっぱい売れるとうれしい。転倒したと聞けば、まずお見舞いに駆けつけ、転倒理由を聞き出し、その原因を分析し、転倒がライダーのせいでもなく、もちろんマシンのせいでもないという結論を導く。「ちょっと飛ばしすぎちゃいましたね、だってこのマシン、気持ちがいいんだもん」と言ってもらえれば、丸くおさまる。阿部さんが「おれが乗り方を教えてやる」なんて出ていくのは、賢くない。ぼくが目撃したのは、怒っている阿部さんを、開発陣が一生懸命止めているところだった。
 その頃だったと思うけど、鈴鹿の飲み屋で、阿部さんが木山賢吾の思い出話をしつつ、一ノ瀬憲明について語った。一ノ瀬は125ccのチャンピオンで、かの山本昌也とはHRC入りが同期だった(チーム入りしたときはRSCだった)。しかし当時の一ノ瀬はケガと将来について悩んでいた。
「イチは、ひたむきなんだよなぁ。木山を見ているみたいだよ」
 このときの阿部さんは怒ってはいなかったけど、怒っているときと同じように、熱かった。それからしばらくして、一ノ瀬は新幹線に飛び込んで、自殺してしまう。ライダーとして以外に生きる道を見失い、ライダーとしても将来に不安があった。でも死ぬことはないじゃないか。
 それからしばらくして、阿部さんはチームHRCを去って、浜松で漁師になった。ホンダとけんかしたという説が一般的になっているけど、ああいう人だから、けんかはしょっちゅうだったはずだ。ただ、研究所の現役研究者に阿部さんのことを聞くと、あんまり高い評価はないみたいで、やっぱりけんかしちゃったのかなぁと納得したりする。
 それからは、1年に1度ほど、耐久レースに出てくるくらいになった。年に1度のレースで、昔とおんなじ走りができるってのがすごい。その頃はぼくもまだサーキットに顔を出していたから、そんなふうな問いかけを阿部さんにしてみたことがある。
「これといっしょよ」
 と、阿部さんはやっぱりくすくすっと楽しそうに笑う。“これ”ってのは、女性とまぐわうアクションである。パドックの真ん中で、そんなジェスチャーをしながら、阿部さんはレースを語ってくれた。
 何年か前に、阿部さんはガンの手術をした。それからまた復帰して、漁師と、ライディングスポーツのインプレッションライダーを務めていた。でも最近、また体調を崩されていたようだ。
 24年前にはたせなかった阿部さんのインタビューは、ついに実現しないままになってしまった。漁船に乗せてもらう約束も果たせなかった。
 レースを教えてくれて、ありがとうございました。いつか、ちがう世界で会うことがあったら、またしかりつけてください。

*昔の写真は、全部ライディングスポーツが持っていて、ぼくのところにはほとんど残ってない。それにインターネットの世の中、フィルムを引っ張り出してくるのはたいへん手間になってしまった。いつか、懐かしい写真を公開したいのだけどごめんなさい。写真は、ぼくのお気に入り、ぼくんちから歩いて1分の散歩道。

投稿者 nishimaki : 09:48 | コメント (4) | トラックバック

2007年02月09日

映画を見る浪士たち

 最近、あっちこっちでこの映画のことを書いている人がいる。
 流行りものには拒否反応を示すへそ曲がりのニシマキだけど、あんまりみんながインディアンインディアンとつぶやいているので、つい様子を伺ってみた。やっぱり、おもしろそうなのであるぞ。
 このところ、オートバイネタのおもしろい映画が多い気がする。ひょっとして、オートバイは旬なんじゃないか?

 この「世界最速のインディアン」について書いている人たちはこんな人たち。

小林ゆきさん
「世界最速のインディアン」〜これを観ずして何を見るのか

風間深志さん(OFF1)
オフロード天国「世界最速のインディアン」

 へそ曲がりのニシマキが興味をそそられたのは、この記事を見ちゃったからだ。 

ダートヌポーツ
「本田宗一郎」がここにいる! ホンダOBが駆けつけるある映画

 この人には、いつもだまされてひきこまれてしまう。ちくしょう。またやられた。でも仕返しに、この人はニシマキにだまされて今度両神にやって来ることになっている。お互いさまである。で、紹介されていた記事がこちら。OBを試写会に呼んだのは配給会社の企画だろうけど、これを記事にするところは日経もにくい。

日経ビジネスオンライン
「本田宗一郎」がここにいる! ホンダOBが駆けつけるある映画