2011年06月22日
ひまわり
ひまわりを植える村長と村人
ひまわりを植えるというイベントがあった。
ひまわりは、放射性物質を吸収するという性格があるらしい。一説によると、20日で95パーセントの放射性物質を吸収するんだそうだ。ほんとなら、こりゃすばらしい。でも、ほんまかいな?
今、川内村の役場は、村からクルマで1時間ほどのところにある、郡山のビックパレットふくしまにある。村の中にある役場は、原則空っぽだ。
これまで、村から住民への連絡は、防災無線という便利なキカイが機能していた。火事ですよー、津波ですよー(津波なんかないですけどね、山の中だから)と放送がある。それ以外にも、あしたはお祭りですよーなんてほのぼのした連絡もある。
ところが地震以来、村機能が引っ越してしまって、防災無線もとんと黙っちゃったままだ。どうやら防災無線を流すには、村にある役場へ出かけていって、そこのマイクでしゃべらないといけないらしいのだね。郡山から遠隔操作できればいいのになぁ。
そんなこんなで、とんと黙ってしまった防災無線が、突然しゃべり始めた。それが「ひまわりを植えるイベントやりますから、みんなでやりましょう。お弁当用意します」ってものだった。
ひまわりを植える村人。ガチ棒引っ張ってライン引くのはむずかしい
このところ、近隣のニュースで、ひまわりを植えたというのはよく聞く。事故直後に苗を育て始めて、ある程度育った苗を植えたところもある。素早いアクションは感心だ。
川内村は、去年なかなか壮観なひまわり畑をつくった(デ・ナシオンについて書いた日記に、なぜか写真あり→その日記はこちら)。
あんな勢いでひまわりを植えたら放射性物質もなくなってくれそうだけど、だからといって、事故直後にすぐアクションに移れるかどうかは別問題なのですね。むずかしい。ともあれしかし、動き出すことが大事なのだと思う。
村では、これをテストケースにして、どれくらい土壌が浄化されるかを確かめて、今後の方針を決めたいということらしい。ということは、その結果が反映されるのは来年ってことだ。土壌が浄化されるのがわかったから、村のすべての畑と田んぼにひまわりを植えましょうとなるのは来年で、お米やトマトやナスが植えられるのは再来年? まぁそれでも、何億年も待っているよりはいいんだけれど。
今、村では畑や田んぼの大半が、手をつけられないまま放置されている。お国の指示だから従わなきゃいけない、という思いの人は多い(お米は作付け禁止の指示が出た。罰則規定はないようだ)。安全でないものは作れないという良識で判断するひともいる。作ったって売れないから作るだけ損だとそろばんをはじくひともいる。それでも、草ぼうぼうになった田畑を放置はしていられないらしく、稲の植わっていない田んぼが、少しずつ草刈りなどされている。
村がどう進んでいくのか、今はまだ、さっぱりわからない。
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09:23
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2011年06月09日
かわうちトライアルの被爆リスク
川内村と富岡町が役場五と避難している郡山のビックパレットにて。南米からの応援メッセージ。ブラジルと書いてあるけど、国旗はメキシコ。
かわうちトライアルミーティングは、原発25kmの緊急時避難準備区域で開催します。原発事故の影響が絶対にないとはいえませんので、放射能について、おさらいします。
川内村は、東京電力福島第一原発のほぼ真西にあって、距離、一番近いところで11kmくらい。会場となる草地は22kmくらいのところにあります。20km圏内のエリアは避難区域になっていて、現在立ち入りができません。その外側のエリアは、緊急時避難準備区域になっています。緊急時避難準備区域とは、緊急時(原発が大爆発を起こすなど?)にすぐに避難するか、屋内に退避できるよう準備をしておけ、というエリアです。外での活動などは制限されていませんが、その観点から、一人で逃げられない子どもやからだに障碍がある人などは安全な場所に避難するように推奨されています。
ここまでは、お国が定めたところです。ここから先は、現地で生活することに決めちゃった、ニシマキがこれまでにお勉強したことです。
ニシマキの解説なんて聞いたってしょうがないという人も多いかと思います。でもね、この3ヶ月間、いろんな学者先生が、原発と放射能について安全だ、危険だというのを聞いてきました。これがまぁ、みなさんいろんなことをおっしゃる。福島県に近づいただけで死んじゃうんじゃないかという説から、福島市に来て裸で日光浴をしていれば、放射能を吸って元気になれる、なんてのまである。いんちきなトライアル雑誌の意見ではなく、大学の教授あたりがいうんだから、いよいよさっぱりわけがわからない。
きっとそれぞれ、誰かからお金をもらってて、それで言うことがちがうんだろうと思ったけど、どうやらそれだけでなくて、放射線被害については、まだまだ未解明のことが多いんですね。つまりどの大学の先生の言うことも、本当かもしれないし、うそかもしれない。ガリレオの時代には、太陽が地球のまわりを回っていると偉い学者の先生が信じていたわけだから、そうであってもしかたありません。
ということで、事故以来、必要に迫られて勉強してしまったニシマキの一応の結論としては、誰の言うことも信じません、信じられるのは、自分だけ、ということでした。なのでみなさんも、ご自分を信じて、川内トライアルミーティングに来るかどうかを、決めてください。いえ、川内に来るかどうかだけじゃなくて、きっとこれから、日本に住み続けるということは、程度の差こそあれ、こういうことを考えていかなければいけないんじゃないかと思うのです。
■放射線は、すべからく危険だ
放射線には、安全なものなどないと思ってます。安全な放射線など、ひとつもない。ラドン温泉やレントゲンは人の役に立っているかもしれないけど、それが安全の証明ではないと思います。
たとえばぼくらが好きなオートバイは、とても楽しいものだし人生を豊かにしてくれるけど、まちがいなくあぶない。命を落とすことになるのか体中あざだらけになるのか、それはそれぞれだけど、絶対安全といえないものであることは確かです。若い頃は、オートバイは楽しいし、ちゃんと乗ってれば安全、というように思ってましたけど、今、もうちょっとジジイになって思うには、オートバイはしっかり危ないというのを告知した上で、だからちゃんと乗ろう、と伝えていくべきだと思っています。トライアルが安全だとも思いません。小さなケガが絶えないのは、みなさんもご存知ですものね。
放射能もおんなじ。場合によってはレントゲンとかで人の役に立つこともあるけど、だからといって、安全ということはありません。この安全に、数字がいくつ以下だったら安全とか、いくつ以上は危険とかいうこともありません。50ccだって1000ccだってあぶないときはあぶないし、レース中に200km/hから転んでぴんぴんしているひともいるし、逆のケースだって見聞きしてきました。「年間何ミリシーベルトなら安全なのか」と問いただしたくなる気持ちは分かるし、ぼくもそこに答えがあれば安心するけど、そんなものはないんだと思います。ちょっとでもあぶないんだから。
■年間1ミリシーベルト?
日本では、1ミリシーベルトを安全な被曝量としてきて、それを原発事故の後、20ミリシーベルトに引き上げました。こんな泥縄なことをやるから、みんなが不安になったりするわけだけど、放射線がすべからくあぶないという点からすると、1ミリでもあぶないということになります。しかし、そんなことをいっていると、地球で生きていけない。どこかであきらめちゃうしかないわけです。まず、自然界から受ける放射線があって、これが世界平均で年間2.4ミリシーベルト、日本はもう少し低くて、福島県では1ミリシーベルトもあるんだそうな。それじゃ1ミリなんてはなから越えてるじゃんかと思うけど、1ミリというのはその2.4ミリなり1ミリを除いて考えるんだそうで。いやー、めんどくさい。
川内村の年間被曝量は(今この瞬間の状況が1年間続くとして)4ミリシーベルトちょっとになります。1ミリと1ミリ足して、その倍ほど被爆することになります。1ミリの数字は、原発が事故など起こすわけがないという前提でつくられた基準値だから、今の川内村は、わりと低い線量でがまんしているといえます。川内村でも、10kmちょっと山の上のあたりでは年間被曝量で10ミリ近くになります。風向きや地形によって、距離が同じでもいろいろ、今、川内村は比較的低いなんて書いちゃったけど、川内でもいろいろあるわけです。ほんとうは、お家一軒一軒調べないと、ほんとうのところはわかりません。
■自然放射線と人工放射線
先の、世界平均で年間2.4ミリシーベルトというのは、自然放射線被曝量です。岩に含まれたり食べ物から摂取したり、今までも被曝量はまるでゼロだということはありません。そもそも自然界にウランなんてものがあったから、原子力利用ができるようになったわけで、放射線自体は自然の産物でもあります。なんでもイランでは平均で年間10ミリシーベルトの自然放射線量の出てる地域もあるんだそうで。すごいですねー。これでふつうに生活している人がいるってんだから、今の放射線量なんてどーってことない、という意見もなるほどと思ってしまいます。
でもね、自然放射線というのはもともと自然界にあったものなんで、あぶないものながら、人間も本能的にその危険性を知っているらしく、体内にため込まないようにできてるらしい。ところが人工放射線ってのは、この60年くらいで出てきたものが多いから、人間の体も対処方法を知らない。
最初に原発から飛び散ったヨウ素131にしても、自然界にあるほうのヨウ素は体に必須の元素で、消毒液などの材料にもなっている。そのくせに自分では作り出せないので、人間は大事に体内にためこもうとする習性がある。でも原発から飛んできたヨウ素131は核分裂でできた放射線を出すヨウ素の皮をかぶった狼で、これが人間には自然界のヨウ素と見分けがつかないもんだから同じようにため込んでよろしくないことになる。一口に放射線といっても、自然のものと人間が作ったものをいっしょにしちゃいけないんじゃないかと思うんだけど、学者先生もはっきりしたこと言わないんで、よくわかんないというのが結論です。
■大人と子ども
ひとつだけはっきりしていること。放射線被害は、子どものほうが圧倒的に被害が甚大ということです。新陳代謝がよくて、まだまだ細胞分裂を盛んにやってるからなのか、どうしてかはわかんないけど、チェルノブイリの事故の時も、悲しい目にあったのは子どもたちだった。
だいたい40歳をすぎて、45歳以上になると、残念ながら放射性物質による被害はどかんと少なくなるらしいです。だいたい、20年後、30年後になにか被害が出たとしても、その頃には別の理由で死んじゃってたりしますから、わかんない。実は被害がないのではなくて、統計に現れていないだけかもしれないんだけど、わかんないも結果なしも、同じことのようです。結果を出せなかったのとゼロ点がぜんぜん同じでないトライアル界から見ると、不思議ですねー。
というわけで、かわうちトライアルミーティングは、原則45歳以上の子作りの予定のない方に来てもらいたい。将来を担う(子孫を増やしてくれる)若者や、特に子どもは、今は呼ぶべきではないと思います。線量は低いけど、それが安全だという確証は、まだまだもてていませんから。
■放射線量の計測
最近、福島県のひとは、ガイガーカウンターを購入して、家のまわりを計測するのがふつうになってきています。よけいな出費とよけいな手間ですが、毎日続けているのは楽しくないでもない。調べた数値を見て、近所のひとが自分の生活の目安にしてもらえたら、人の役に立っている気にもなれる。
計測については、正しい計測方法とか、いろいろ勉強もしました。シーベルトという単位で放射線量を示す場合は、ガンマ線だけ計測してベータ線は測っちゃいけないってのもその一説。ベータ線だって出てるんだから、出てるものを測らないのはおかしいだろうと思ったけど、夏の気温を測るのにエアコンの吹きだし口に温度計を持っていってはいけないのと同じ(たとえが悪い?)。ベータ線を測るときには、それはまた別のやり方をするんだそうです。
空気線量を測るのに、地面に近づけたりするのも反則。子どもの視線に立って、一度低いところの線量を測ってみるのはデータになるだろうけど、地面に近けりゃ数値が高いのは当然なんで、そんな数字をそのエリアのデータだと言われても困ってしまいます。
政府発表はガンマ線だけを発表してベータ線のデータを隠しているとおっしゃる方もいる(どこかの携帯電話会社に社長さんもそう。そうそう。会場ではSoftBankは通じません。アンテナ建ててくれないから。携帯事業より放射線被害の方が急務ですか。そうですか)。政府の意図はわかんないけど、みんながガンマ線だけ測っているなら、それで統一しないと比較にならないと思うから、とりあえずガンマ線だけ測っています。
高い数字を示して人をびびらせるのは簡単で、ぼくんちのそばでも、雨水がぼたぼた落ちてたまっているあたりでは、そのへんの空気線量の30倍もの数値を出したところがあります(その後、ずいぶんましになった)。放射線を除去するツボでも売ってる商売をしてるなら、そういうところを測って「おたくは呪われている」と口説いてツボを売りつければいいのだと気がついたのですが、みんなもそんな商売には引っかからないでね。
ぼくらは今、3万円から10万円くらいの線量計を使ってますが、県や文科省なんかが測ってるのは、何千万円もする機械らしい。安いのでいいかげんな数字を測ってもしょうがないとも思われるかもしれないけど、人を説得する材料にはならなくても、毎日計測して変化を見ていると、それぞれの目安にはなってきます。なので、原発とつきあい続けていく限り、計測は続けたいと思います。
■ということで
目に見えない放射能。おっかないし、気持ち悪いから、できたら近寄りたくないという思いもあります。でももう、第一原発は爆発しちゃったんだし、あらためて思えば、日本のどこでもがこういう被害を被る可能性はある。狭い日本で、しかも地震の多発地帯で、こんなにたくさん原発作っちゃったんだから、その責任は負わなきゃいけないのだと思います。ぼくは原発を作った覚えも推進した覚えもないけど、止めようとしたこともなかった。選挙権のある日本人としての責任で、原発や放射能と接し、受け入れていかなければいけないのだと思っています。
もちろんだからといって、みんな川内村に来いとは言いません。川内村の放射線リスクを知っていただいて、それで納得いただいた方だけいらしていただいて、いっしょに遊びたいと思っています。
みなさんがどんな顔をして川内村に集まっていただけるのか、ちょっと楽しみにしながら、毎日8マイクロシーベルトくらいずつ浴びながらお待ちしています。
こちらはタイから送られてきたメッセージ。一生懸命日本語を書いてくれているのがうれしい
*今現在、ニシマキが住んでいるところは村役場より少し線量が高くて、毎時0.4マイクロシーベルトほど。かわうちトライアルのパドックとなるエリアは、標高が高いのと見晴らしがいいのが影響してか、さらに少し高めの毎時0.7マイクロシーベルトとなっています。放射線量については、定期的にお知らせしていきます。
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14:48
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2011年06月03日
蒲生さん逝く
炭窯越しに見る桜。今年は避難中で、桜は見られなかった
蒲生喜好さんが亡くなった。
蒲生さんは、87歳になる炭焼き職人だった。炭焼き一筋、最後の最後まで、炭を焼いていた。90歳まで炭を焼くと言っていた蒲生さんだったが、その願いは、わずかに届かなかった。でも炭焼き職人らしい、大往生だった。
その日蒲生さんは、もう何十年もやっていたように、窯から炭を出していたのだという。炭窯は、炭を焼いているときには1000度にもなっているという。火がおさまったところを見極めて扉を開け、できあがった墨を窯から出してくる。扉を開けるのが早すぎると、扉を開けて空気を吸い込んだ瞬間に再び火が起きて、炭は勢いよく燃えてしまう。じっくり時間を置いてからが確実だが、それでも生産性が落ちるから、いいタイミングを見極めるのが、職人技だ。
蒲生さんは、最後にタイミングを誤ってしまったのか、それとも、そのとき蒲生さんになにかが起きたのか、それはもうわからない。蒲生さんは発見されたとき、炭窯の中に倒れていて、すっかり燃えてしまっていた。一酸化炭素中毒で倒れたあとに火がついたのではないかと見る人が多いけれど、真相はやっぱりわからない。わかっているのは、蒲生さんは長年いっしょに仕事をしていた炭窯で、自らを火葬して生涯を終えたということだ。
ここをクルマで通り過ぎると、車内にもかすかに炭の香りが入ってきた。
311のあの日も、蒲生さんは炭を焼いていた。ところが土でできた昔ながらの炭窯は、あの揺れに耐えられなかった。窯は崩れ、炭に火がついて、お窯はすっかり燃えてしまった。こういう事件もままあることだ。
それから数日後、全村避難となって、蒲生さんも息子さんとビックパレットに避難した。80歳を越えても、自分で木を切り、窯まで木を運び、窯の中にきれいに並べ、火をつけて炭を焼くという仕事を続けてきた蒲生さんである。ビックパレットの避難所で、寝ているだけの生活はずいぶんと苦しかったようだ。息子を相手に、よく言い争いをしていたという。蒲生さんは燃え落ちた窯が気になっていたのだ。早く帰って窯を作り直さないといけない。それで気がせいていて、息子さんと言い争いをする。蒲生さんはそうとうに耳が遠いから、言い争いができる人も何人もいないのだった。
炭焼き仕事をする、在りし日の蒲生さん。耳は遠かったけど、仕事は確かだった。
避難解除にはならなかったけど、蒲生さんはやがて窯に帰ってきた。そしてすぐに窯の再生にとりかかった。世間が放射能の安全や危険を取りざたしてけんけんがくがくのとき、蒲生さんはひたすら窯を作っていた。それが、何十年も続けてきた蒲生さんの生き様だったのだろう。
2週間くらいかかっただろうか、窯はできあがった。そして再び、蒲生さんは炭を焼くようになった。久しぶりに蒲生さんの窯から煙が出ていたときは、すぐ横をクルマで走り抜けながら、とってもうれしかった。原発事故はまだまだ解決しないけど、村の暮らしがひとつ帰ってきたという印象だった。
蒲生さんは、新しい窯で、1回炭を出した。そして2回目に火を入れたのが、最後の仕事になった。
電気やその他の新しいエネルギーに主役の座を奪われた炭。その炭を作り続けてきた蒲生さんは、原発事故で自然エネルギーが見直されようとしているこの時期に、炭焼き職人らしく天へ旅立っていった。
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19:51
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2011年06月01日
自動車持ち出しの巻
防護服を着せられてしまったぼく。村長と記念写真撮ってみました
先日、川内村はほかの警戒区域に先がけて住民の一時帰宅が実施されたけど、今回は自動車の引き取りというイベントがあった。で、この前一時帰宅したSセンセイが「おらの代わりに軽トラックさ持ってきてくれないか」というんで、いってきた。なんだかんだと、一日仕事でありました。
朝9時集合。場所は、一時帰宅の時と同じく、川内村の体育館。白いペラペラのタイベック防護服とか手袋を渡されてこれを身につける。白い手袋の上からビニール手袋。その上からごっついビニール手袋の三重。クルマのドアを開けたら、一番上の手袋はビニール袋に入れてそのまま持って帰れとのこと。足下もタイベック足袋をはく。クルマに乗ったら、その上からビニール製の足袋をはく。手元は最初は三重で帰ってくるときは二重。足下は行きは三重、帰りは四重(靴下と靴はもともと履いているから)になる。
ついでに軽食を渡された。パンと水。行きのバスの中で食べちゃって、自分のクルマには持ち込まないようにときっちりしたお達し。
最後に無線機と線量計を渡される。線量計は積算計で、今日の半日でどれだけくらったかを計測するやつ。その都度の空間線量は計測できない。
シートが汚染されないようにびっしりカバーされたバスの中。ほとんど外には出ないんだけどね
村役場の引率車、ぼくらを乗せたマイクロバス、動かないクルマをなんとかするためのJAFと、隊列を組んでクルマのところに向かう。誰かが降りるときには、そのつどまず放射線量を測っている。あんまり高かったら降りられないってことになるんだろうけど、しまった、どれくらいだったら降りられないのかは聞きもらした。最初のおうちの入口は1.15μSv/hとのことだった。ちょっと高め。ぼくらのマイクロバスは、7人が乗っている。7県のお家を順繰りに回ってクルマを引き上げてくる。最初の一軒は、県道から10分くらい上がったところにあるので、ぼくらは少なくとも20分待ち。けっこう気が長いことになった。
3軒目のおうちのクルマは、バッテリーが上がっていた。JAFがすぐにバッテリーをジャンプさせて始動したのだけど、あまりにバッテリーが上がっていて、動かすと止まってしまう。しばらくエンジンをかけままにしておけばいいのかもしれないけど、JAFが対応してくれるのは1台につき10分と決められている。本部にはないしょで(打診すると帰ってこいといわれるから)しばらく待ってあげようってことになったんだけど、それでも動けるようにはならなかった。残念ながら、置いていくことになった。新しいバッテリーを持ってくればよかったのかもしれないけど、あとのまつり。
4台目から7台目は、いたって楽勝だった。すんなりエンジンがかかり、するすると引き上げができた。ぼくの引き上げるクルマもエンジンはすぐかかった。クルマがあった場所の線量は1.5μSv/hくらいだった。ちょっと高めだけど、ここは標高も高いし、見晴らしがいいところで、なんせ第一原発が見えるのだからまぁしょうがないといえばしょうがない。ぼくは原発の写真を撮ろうと思って楽しみにしていたのだけど(それがしたくてこの引き上げ作業を引き受けたようなもんだった)、世の中は晴れた日ばっかりじゃないというのをすっかり忘れていた。曇ってて、今日は原発は見えなかったのだった。残念。
そんなわけで、6台の車が引き上げられて、引率者、マイクロバスに続いて隊列を作ってスクリーニングに向かう。スクリーニング会場は楢葉の道の駅だ。どうやっていくのかなと思ったら、まっすぐ富岡に向かった。えーと、このへんの地理に詳しくないひと向けに説明すると、要するにいったん原発に向かって、そこから6号線を通ってスクリーニング会場に向かうルート。ずっと20km圏内を走っていくということになるんだが、わざわざ原発6kmのところまでいっちゃうんだから、ちょっとびっくり。もっともそれ以外のルートといえば、まちがったら谷底に落っこっちゃう3桁国道から大回りするルートしかない。自動車の運転的に安全を選ぶとこのルートになっちゃうのかな、やっぱし。
というわけで、夜ノ森の桜並木(もちろんもう散っている)、第一原発6km地点、地震で崩れた商店が並ぶ6号線(復旧手つかず)、富岡警察の隣を流れる河原に置き去りになっている軽トラック、第二原発のあたりで6号線が崩れていてさらに第二原発方面へ迂回と、めったにいけないところに寄り道できてうれしゅうございました。
到着したのは道の駅ならは。ここはお風呂の施設とかあるんだけど、すぐ隣のJビレッジが原発作業をする人の拠点となっていて、それどこすではなくて営業はしてない。作業員をお風呂にいれてあげたらいいのにね。
隊列を組んで引き上げてきたクルマを、一気にスクリーニングしてもらっている
到着して、人間とクルマのスクリーニング。もう何度もやってもらった作業だけど、計測人員がずらりと並んでいるのは圧巻だった。誰も除染の必要はなし。まぁよかったよかったというところ。そのあと体育館に移動してタイベックを脱がされて無線機を返して線量計を返して、朝もらったような菓子パンと水をもらっておしまい。線量計は積算2μSvになっていた。数字自体はぜんぜん驚くもんじゃないけど、富岡を回ってなかったら、もっと少なかったんじゃないのかなと不思議な気分。
携行してった積算線量計。だいたい、このあたりではどこにいてもこのくらいの数字にはなる
それ以前に、福島市や郡山市内とどっこいか、それより低いくらいの線量のところにクルマをとりに行くのに、なんでこんなに仰々しい儀式をとりおこなわなきゃいけないのかなぁ。安全のために、というのはいいお題目だけど、おんなじくらいの数値のところに住んでいる子どもたちはこんなにしてもらってないわけだし、タイベック防護服を着せられたって、いったいなにを防護してるんだか。鉛の服を着るんだったらいざしらず、ガンマ線なんかはガラスでもなんでも通ってくるんだから、なにを着ていたって入ってくる。放射性物質がくっついたのを、脱いだだけでふるい落とせるという「汚れた人を受け入れる側の安全」のためのもんで、ほんとに警戒区域にはいる人の安全を考えてくれているのかどうかは、どう考えても疑問なのでありました。
ま、ぼく自身は放射線の健康被害についてそんなに深刻に考えていないのでいいんだけどね(放射線がぼくの健康を害して寿命を縮める前に、ぼくの寿命はつきているはず)。
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18:01
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2011年05月31日
風評被害
2011年、軒先の、春
今、日本中が元気がない。みんなが被災地のことを考えてくれているのはたいへんうれしいけれど、日本中の元気がなくなってくれるのは、誰の本意でもないと思うんだけど、元気があれば「元気を出そう」なんてコマーシャルを流す必要はありませんね。あんなんで元気が出たら苦労はない。むだだからやめたほうがいいと思う。
と、そういう話をしたいんじゃない。ぼくの周囲では、どっちかというと、あんまり被害のない人たちが元気がない。これ、風評被害でやられているからだ。風評被害、困ったもんです。でも今日は、風評被害に悩む人たちに怒られちゃうようなことを書いてみる。
お気の毒なのは、会津地方だ。ぼくも福島県の住民になる前は、福島という土地に、ほぼなんのイメージもなかった。東京から東北へ向かうときに、そういえば途中通過するエリアがあるなと、そんな印象です。こんなこと書いたら、また怒られるなぁ。でもほんとなんだもの。
しかし会津に対しては、ちょっとちがった。白虎隊とか会津藩の存在感も強いし会津若松は観光地だし、ツーリングトライアルがあって訪れたこともある。福島には印象はないけど、会津は知ってる、という人は少なくないんじゃないかな?
なんとなく聞いていたけど、福島のエリアの区分け、浜通り、中通り、会津という3つは、単純に位置の問題じゃなくて、地域性がずいぶんちがう。今回新たにわかったのは、福島の浜通りの原発がとんでもないことになっても、会津はいたって安全だってことだった。
原発がまき散らした放射能は、風の吹くまま福島市やら郡山市やら、はては茨城とか千葉とか東京とか、いろんなところに飛散していったけど、会津のほうへはほとんど飛んでいかなかった。だからこの地方は、地震の被害は少しはあったにしても、津波はあり得ないし原発も関係ないで、今まで通りの活動がじゃんじゃんできるはずだった。
だけど会津は福島県だから、原発がこわい人たちは観光には行かなくなるし、福島で生産された農作物も買われなくなる。風評被害で、お気の毒。
最近、福島のものを食べよう、消費しようという動きがけっこう活発で、ありがたいなぁと思うのだけど、ほんとに大丈夫と? ただのお祭り騒ぎで福島の野菜を食べようと騒いでるだけだったら、ちょっと考えたほうがいいんじゃないのかと心配になる、というのが今回のお話なのでありました。
本日の特売は白河産。ブロッコリーとパプリカとアスパラガスはどんぶりの福島産でした。
スーパーの野菜売り場へ行くと、福島県の野菜がずらりと並んでいる。福島に住む我々が福島の野菜を食べなくてどうするんだという気概も感じられる。しかし福島は広いのだ。ほとんど新潟県みたいな会津地方もあり、茨城県みたいないわき方面もあり、津波と原発でぐそぐそになってしまった浜通りもあり、東北道とか新幹線に沿って、意外に風の通り道のある中通りとか、うちの村みたいに、浜通りのくせに山の中というところもある。
これ、全部いっしょくたにして福島県産とくくられるのが今の産地表示だ。中にはどこそこ町の誰それさんの、なんて表示をしているものもあるけど、そういうのは数少ない。これだけ広いと、福島が安全かあぶないか、なんて判定が消費者にできるわけもない。気分で買うことになる。福島って安全そうだなぁ、あぶなそうだなぁって、これが風評被害ってやつですね。なんだ、身から出たサビではないか。
そんなあぶないところによく住んでいられるねといわれながら川内村に住んでいるけど、ぼくはできたら、いまのまんま、福島県産の農作物は食べたくない。出荷制限解除のニュースとかも流れてきて、それはそれで福島県人としてはうれしいことだけど、そのつど、ほんとに大丈夫なのかと疑ってしまう。
うちの村は、今は緊急避難区域になっていて、農作をするひとはいないからここから農作物が出荷されることはないんだけど、たとえばうちの村の場合、こんなに低くていいのか、隣村にもうしわけない、というくらい数値が低いところもあれば、やっぱり原発30kmだから、このくらいの数値が出ても不思議じゃないなぁというところもある。この前、川内村の原木椎茸の出荷制限が解除された。ぼくは原木椎茸屋さんがどこでやっているのかを知っているから、その安全度もわかる。でももっと線量の高いところの椎茸だって、出荷できてしまうんだよね。
福島県全部で、日本全国でこういう産地表示がされているのだとしたら、産地表示なんてあっても意味がないんじゃないかいな。会津のものなら安心して食べられるけど、どこそこあたりのものはちょっとこわい、でもスーパーは会津のものとどこそこのものとをごっちゃにして、福島県産として売っている(これはスーパーのせいじゃなくて、農水省だかの政策なんだろうけど)。おいしいカレーが食べられるかもしれないけどウンコかもしれないというんだったら、おいしくなくてもいいから、ふつうのカレーのほうがいい。これを風評被害というのは、ことばを正しく知らない方々の陰謀だと、ぼくは思います。
ぼく個人は、今年出てきたタラノメを、おっかなびっくり食べてみた。放射能の味はわかんないから、とりあえず天然のタラノメの味を、おいしくいただきました。去年、ちょっと秦家を借りて野菜を作って楽しかったので、今年もやってみるつもり。県では、土壌調査などをやっているというけど、うちの畑、というピンポイントではやってくれない(そんなことをしていたらきりがないですね)。だから、まぁだいじょうぶだろう、というなんとなく判断で農作をして出荷する。そのとき出荷制限がかかっていなかったら、安全ということになる。
村の南端の獏原人村のマサイさんは、平飼いのニワトリの卵の出荷を再開した。東京で買ってくれたお客さんが、その卵を検査機関に出してくれたそうだ。検査もそんなに安くないんだけどね。そしたら、残留セシウムとかは問題なかった(ゼロではなかったらしいけど、基準値を大幅に下回っていた)。ほんとは農作物ひとつひとつ、こうやって測ってくれればいいんだけど、測っている間に農作物は悪くなるから、それも現実的ではない。
福島県産は安全です、じゃなくて、これは福島県どこそこの誰それが作りました。畑の空気線量はこれこれです、土壌はかくかくです。作物のサンプルからはなんベクレルが出ました。それでいいなら、食べてください、おいしいですよと、ぼくは、こういうふうに売っていただきたいんだけど、それじゃ売れなくなっちゃうと思っている人は多いし、買ってくれない人も多いんでしょうね。
なんでも悪いのはお国と東電なんだけど、なんでも十把一からげに話をまとめるクセが、風評被害と呼ばれている悲劇を生んでるんじゃないだろうか。福島県じゃなくて川内村でけっこう。会津は会津。福島のぼくらは、九州は九州、四国は四国とひとくくりでかんがえるけど、もしも川内発電所(かわうちじゃなくてセンダイと読むんですね。仙台じゃない)が爆発したら、九州の反対側の別府あたりも風評被害で観光客は激減するだろうし、伊方発電所が爆発したら、徳島の阿波踊りにもきっとお客さんはこなくなる。福島だ、四国だといっているすきに、日本だというだけで外国からのお客さんは来なくなっちゃったものね。
日本を道州制にしようという動きもあったらしいけど、単位を大きくすると、風評被害もでっかい。風評被害を完全に払拭するのは無理だと思うから、そのためにもすべての単位が小さいほうがいい。今風評による被害を受けてるんじゃなくて、国策習慣病をくらってるんだと思う。
少々極論を言ってしまえば、グローバル化よくそくらえ、なのだ。日本がひとつになったら、たいへんなことになる。
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2011年05月11日
一時帰宅と一時上京
原発20km圏内に住む人たちの一時帰宅が始まった。先陣を切ったのが我が川内村の住民たちだった。ぼくが住み続けているのは原発25km地点で、立ち入り禁止にはなっていない。でも20kmラインをはさんで、すぐ向こうにも家はあるのに、その境目がどうやって引かれているのかはよくわからない。わからないことだらけで、なにが疑問なのかもわからなくなっている。
とりあえず、久しくお会いしていない先生が一時帰宅に参加しているのを知って、お迎えにいってきた。一時帰宅の前線基地となった体育館には、村史上はじめてではないかと思われる取材陣が押し寄せていた。中継車がこんなに並ぶなんて、盆踊りだって満月祭だって、かわうちトライアルだってなかったことだ。ぜひ、平和なイベントの時にも、取材に来ていただきたいものでありますが。
トライアル仲間の井出さんちは、実家が20km圏内にある。今日はお母さんとおじさんが家に帰る。もうひとり、ぼくが村に来てからずっとお世話になったり遊んだりしてもらっている佐藤先生は、今は名古屋に仮住まいしている。きのう名古屋から郡山のビッグパレットまでやってきて、久々に川内村にやってきた。
井出さんも佐藤先生も、自宅に帰るのは初めてではない。実はけっこうみんな、自宅に帰っている。井出さんは、このエリアが立ち入り禁止になる前日におうちにはいった。立ち入り禁止になるまでは、20kmラインにお巡りさんがいて、家の荷物をとりに行きたいんだけど、と申告すると「ご自由にどうぞ、とは言えないけど、気をつけて」と通してくれた。20km圏内エリアの防犯のために身分証明書の提示を求められるという話もあったけど、たとえばぼくが入ったときにはそういう儀式はなかった。
あと、20km圏に入る道は何本かあるから、お巡りさんがいない道を選ぶと、検問なしで中に入れてしまうということもあった。正面からでも入れるのに、お巡りさんとやりとりするのが苦手な人は多いようで、最初から抜け道経由で入る人は少なくなかった。
でも立ち入り禁止が徹底した4月22日以降は、規制もずっと厳しくなった。で、今回の一時帰宅に至ることになる。真っ白な防護服に無線と線量計を持たされた面々は、たった70cm四方のビニール袋にはいるだけの荷物を持って帰ってきた。荷物と人間のスクリーニングを受けて出てくると「久しぶりのわが家はいかがでしたか?」「なにを持ってきましたか?」「2時間という滞在時間は充分でしたか?」と報道陣の質問が飛んで、つい立ち止まってしまうと囲まれてしまって人気者になってしまう。
実際、なにを持ってきたかというと、もはやたいしたものは持ち出していないような気がする。何度か入った人は、すでに大事なものはもう持ち出し済みで、今回はわが家の無事を確認するのが第一の目的となっている感じ。お気に入りの空間で大の字になって昼寝したり、風呂を沸かして入ってみたりという2時間の過ごし方をしてもいいような気がするけど、そういうのは報道陣には許してもらえないかもしれない。風呂に入りました、なんて報告したら、放射線量をチェックする人も困ってしまうだろうね。
20km圏内でも、いろんな環境があって、放射線の濃いところ、それほどでもないところがある。佐藤先生によると、先生のところの線量は、以前にぼくが入ったときより、数値が下がっているようだった。つまり数値だけで言えば、なんとか住めないこともない。でも先生のベランダからは、無残な姿をさらけ出している第一原発が見える。不気味だ。上の写真は、線量計を持って先生の留守宅におじゃましたときに撮ったもの。iPhoneしか持ってなくてこんなちゃちな写真しかないけど、建屋がぼろぼろになっているのが、なんとなくわかる。
井出さんちは、あっさり荷物検査とスクリーニングを終えて、自分のクルマで帰っていった。いっぽう佐藤先生は、持ち帰り品のことで係員ともめている。波風を立てないという単語が辞書に載ってない人だから、いつもはっきり主張して、こんなふうになる。ご健在ぶりを見て、安心したりもした。
立ち入りを希望する人は、自己責任で立ち入る旨の誓約書みたいなのを書かされたらしい。自己責任で立ち入るなら、4月22日以前に戻してもらえば、いくらでも自己責任で立ち入れた。そのリスクを冒したくない人が多かったから、立ち入り禁止にして一時帰宅というシステムを敷いたのではなかったか。防護服や線量計を渡してスクリーニングもするんだから、安全性にはまずまちがいないと思うんだけど、お国もケツの穴が小さい。
安心しろ、まかせておけと言われても、ぼくなんかは信じない。自分で確かめなければ納得できない。こういうへそ曲がりには、一時帰宅の制度はまるでなじめない。自己責任で勝手に入らせていただくのが性に合っている。でも世の中には安心しろ、まかせておけと言ってほしい人がいっぱいいるんですね。
帰ってきたみんなには、村長が一人一人声をかけていた。外野のぼくにも声をかけてもらったけど「高田島で快適に暮らしてます」と話したら、いいなぁと。村長も家に帰りたいだろうし、帰ったっていいのだろうけど、立場ってものがあるんでしょう。村長は、ビッグパレットでみんなといっしょに雑魚寝生活を続けているはず。もうしわけない。
次に見かけたときは、村長はテレビカメラに囲まれて涙を流していた。話の内容は聞こえなかったけど、あとでテレビを見ると、村長は、帰宅した2時間、自分の家をビデオに撮りながら泣いていたという一時帰宅者のことばを紹介して、こらえられなくなっていた。「くやしい」という村長のことばは、ぼくらみんなの声でもある。中でも、20km圏内のみんなのくやしさは、ひとしおにちがいない。
帰ってから、渡辺商店の健ちゃんに自然山通信を届けに行く。渡辺商店は酒屋さんだけど、地震以来、仕入れルートがなくなったのとお客さんがいないので、お店はやっていない。健ちゃんは郵便局にお勤めだったけど、その郵便局は計画的避難区域にある。それ以前に、浜通りの郵便局は津波と原発でほとんど壊滅している。健ちゃんも、ようやく郵便業務が復活して、避難先から帰ってきてお仕事を始めたところだった。
健ちゃんちには犬がいる。避難したとき、どこでもするようにくさりを外していったので、ラッキーというその犬は、その界隈で自由気ままに暮らしていたが、健ちゃんが帰ってきたときには姿がなくなっていた。近所のひとの、最近まで見かけたよという証言はあるものの、見つからない。息子が必死で検索したところ、保護されているラッキーが発見されたという。
おうちから30kmばかり離れたところで猫を追いかけていたところを保護されたという。保護されたのが自分の村ではないから、無事見つかったのはラッキーだった。そしてラッキーは、東京にいたのだった。また福島に来る便があるということで、ラッキーは無事に東京から川内村に帰ってきた。そしてまた、鎖につながれたペット犬に戻った。
東京で保護されていたラッキーは、ていねいにブラッシングされて、見ちがえるような男前になっていたという。ちなみにあちらではチョコと呼ばれていたらしいが、ラッキーと呼ばれて、自分の名前を思い出したようだ。ただし、健ちゃんには対しては、こころなしか知らん顔をするという。どういう理由があるのかは、わからない。
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11:41
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2011年05月01日
モンペリ再開
先週から、モンペリがお店を開けている。モンペリは、かわうちの湯の前のコンビニ。うちの村にはコンビニが2軒しかないから、モンペリの再開は大ニュースだ。ただ、本格的再開には、まだまだ前途多難なのだった。でも動き始めれば、必ず道は開けていくだろう。
まずは、お店の片づけから始めているだという。在庫も、311以前にあるものばかり。ふと雑誌棚を見るとこんな感じ。いまどき、村の外の本屋さんには、どこの店にも地震の特集号が並んでいる。ここの雑誌は、地震のことをひとつも報じていない。そりゃそうだ。ここは311で時間が止まっているのだから。なのに、なんとなく新鮮。
雑誌もテレビも地震一色。どうでもいいバラエティ番組を見ていても、がんばろう日本なんてしらじらしいキャンペーンをやっている。それに比べるとこの雑誌棚は、正真正銘の、いつもどおりの日本があった。
あの日、お店の中はがちゃがちゃになった。そこまでは、この際なんということはない。ガラスがひとつも割れなかったのが不幸中の幸いだった。危険度も高いし、ガラスは高いから。
余震が続くから、ビン類などちゃんと並べなおさないで、床に並べておいてお店を片づけている頃、富岡町を中心とした浜の町から避難してきた人が川内村にやってきた。
このあたりには、かわうちの湯をはじめ、小学校とかコミュニティセンターとか、大規模の避難所が多い。炊き出しの食事では間に合わない。着の身着のまま町を出てこなければいけなかったみんなは、モンペリに殺到した。ものはあっという間になくなった。トイレに立つ間もなくレジを打ち続けていたという。ふと気がつけば、自分の身も危なくなっていた。小学生の子どもがいるから、あちこちを転々としながら、最終的には埼玉県に逃げた。子どもたちは向こうの学校に通い始めて、一段落したのを見計らって、村に帰ってお店を開けてみたという。
仕入れが来てくれるかどうかはわからない。30km圏内は汚染された地域として、配達が来ない可能性だってある。とりあえず、お店にはすぐに食べられるものは名にもなかった。麺つゆとかカレールーとかはあるけど、こういうのは避難してきた人には縁がないものばかりだ。
ただ、村では郵便が復活していて、宅配便も復活し始めている。きっともう少しで、モンペリも完全復活するにちがいない。原発に時間を止められてしまったこの村は、地震や津波の被害はないから復旧の必要はほとんどないんだが、復興はいま、ようやく始まったばかりだ。
ちなみに、この2枚の写真は、どちらも311から1ヶ月半以上たった4月25日に撮ったものです。念のため。
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12:00
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2011年04月29日
川内村から中間報告
4台並んだ放射線測定器
知らない間に、世の中はゴールデンウィークになってしまった。お天気はいい。今日は海からの風が吹いているから、あんまり外に出たい気分ではないけれど、基本的に、村に残っている人たちは、原発被害について神経質ではない。もう老後にさしかかっている人ばかりだから、いまさら少々放射線を浴びたからといって、直ちに健康に害が出るとは思えないから。
本日は、放射線のお話。
川内村の放射線値はざっくりいって、高くありません。でももちろん場所によって変化がある。福島の地方新聞には毎日放射線値が発表されていますが、そういうのに出ているのは役場の横(村長室の前)で、ここはかなり低い。海からの風が山にさえぎられているからじゃないかと想像するのだけど、うちのあたりの半分くらい。数値で言うと、0.2〜0.3μSv/hくらいで、ぼくんちは0.5〜0.6μSv/hあたりをうろうろします。ぼくんちは役場のあたりよりだいぶ標高が高い。理屈はわからないけど、標高が高いと数値は高い。飛行機に乗るとそこそこ多量の放射線を浴びるというのと同じことかもしれないけど、よくわかんない。
一方、今はもう入れなくなっちゃっているけど、役場より海側では、距離が近くなるのと標高が高いところが多いというのもあって、ずいぶんと数値は高い。4.0μSv/hとか6.0μSv/hとか出ていた。このあたりは20km圏内だから、早い段階で避難指示が出たところだ。村の中にも、こうやって温度差ならぬ放射線値差がある。村は全域が30km圏内に入っているから(正確には、大滝根山の山頂付近とか、誰も住んでいないところで一部圏外がある)、その点では村の中での避難格差は最小限だったのかもしれない。
村の人たちは、日本中あちこちに逃げていってるけど、役場があるのは郡山市のビックパレット福島だ。ここの線量はそんなに高くないということだけど、子どもたちが通っている小学校のあたりは、もう少し高い。場合によると、1μSv/hくらいあるという。郡山市は原発からは距離にして60kmほどだから、距離で安全危険を推し量るのはまちがっているというのがわかる。
村には、今子どもたちはいない。子どもは放射線の影響が大人より大きいから逃げるべきだと思うけど、それ以前に、村には今学校がないから、子どもたちが住める環境にないわけだ。子どもを学校に通わせるというのは親にとっては一大使命のようで、学校があれば、少々放射線値が高くても、子を持つ家庭はそこに住んでしまう。お気の毒だと思うけど、そういうものらしい。
放射線値は、いつもいつも調べていると憂鬱になってくる。ぴーぴー音を出す設定にしておくと、精神衛生上著しくよくない。黙って放射能かぶってたほうが気が楽になる。でも気温とちがって、計測しないと体感ではわかんない相手だから、計測するのは意味がある。大事なのは、そのエリアのだいたいの数値がわかることと、ずっと計測することで日々の傾向が明らかになることなんじゃないかと思う。
きのうは、村に住み残っている移住者が集まって会議を開いた。結局予定通り飲み会三昧となったのだが、そこで4台の放射線測定器が集まった。ためしに全機スイッチオンしてみたら、ほぼみんなが同じ値を示した。チェルノブイリ事故の当時に買った測定器も最近買った測定器も、そろって同じくらいの値を示し、それぞれの測定器が県や政府が発表する放射線値と、これまたほぼ同じ値を示していることも分かっている。放射線値の数字については、政府発表などを信じても大丈夫。でも、都合の悪い数値は発表しないという工作は可能だから、数値が発表されていないところは要注意。要注意というのは、あぶないという意味ではなくて、危ないのか安全なのか、わからないということだ。経験上、すぐ隣でも数値がちがうところはあるもんだ。
インターネットには、安全だ、からあぶないから海外へ逃げろというヒステリー気味な悲鳴まで、いろいろな意見がある。最近じゃ、インターネットに流れているのはデマやあやしい論調が多いから、ちゃんとした情報以外は削除できるようになったとかなんだとかという恐ろしい話もある。
デマについては、関東大震災の時には、朝鮮人が攻めてくるというデマが流れて混乱したという。このデマを流した張本人が、讀売新聞を作り、のちに原子力の父と呼ばれた正力松太郎氏であるというのはおもしろい話であります。
いわゆるデマの中には、東京に降っている黄色い粉は放射能である、みたいなまるっきりのうそでたらめもあるけど、原子炉がメルトダウンした、とか放射能がばらまかれている、なんてのは、その時点では確たる証拠がないものだったかもしれないけど、結局ほとんど真実だった。むしろ、政府や東電が発表していることに、うそっぽいことが多い。彼らは答弁のプロだから、めったにボロをつかまれるようなことは言わない。警察のほうからきましたと警報器を売りつける詐欺がいるらしい。警察官だとは言ってないから、うそはついてない。信じるほうがお気の毒なだけだ。でも、釈然としない話である。
川内村に住んでいるぼくらは、原子力立地給付金なるお金を、東京電力よりいただいている。断ることもできるらしいが、めんどくさいからそのままいただいている。年間で数千円。どうやら、東北電力から電気をいっぱい買った人は、給付金もいっぱいもらえるらしい。年間何千円が、いったいどういうわいろだったのかわからないが、それが法律だというのだから、しょうがない。でも、東北電力と電気の契約をしていない人は、1円ももらえない。これも、釈然としない。
原子力以前、このあたりの村は、ほんとうに貧乏だったらしい。原子力がなかったら、とうにつぶれていたというひとも少なくない。実際のところ、原発の周辺で働いている人はとても多い。農業と林業しかない寒村は、郵便や役場などの公的職業につくか、原発で働くのが、生活の安定につながったのだと思う。彼らが、原発の恩恵にこうむった人なのかどうか、ぼくにはよくわからないけど、ものごころついた頃からそこにある施設に労働力を提供してお金をもらうという行為は、私腹を肥やしたりというのとはちがう話だと思う。
20kmぎりぎりの診療所にある高そうな線量計。換算すると、0.6μSv/hくらい。
311の以前、この地域の放射線値がどのくらいだったのかは、ほとんどデータがなくてわからない。ただ、中に3軒だけ、原発に対する警戒心が強い人たちがいて、チェルノブイリ事故の頃に線量計を買って持っていた。彼らによると、311以前は0.08μSv/hほどだったようだ。ゼロではないのが、原発からの風で運ばれてきたものか、チェルノブイリからきたものか、1960年代の水爆実験でまかれたものか、それとも自然界にもともとあるものなのかは、さっぱりわからない。でも、まったく安全だと思っていた頃に比べると、今は5倍くらいの放射線値があって、それでもまだ隣の隣の村よりは何倍も低い放射線値を示しているということだ。
放射線値はいくつだったら安全なのかと、みんなよく聞く。京大原子炉実験所の小出裕章先生によると、放射線なんてものは、微量でも危ないものだから、いくつなら安全などという基準はないという。そのうえで、そこに住む人はそれぞれの土地の汚染を受け入れて住むべきなのだとおっしゃる。
今、村に住んでいるみんなは、この村の汚染を受け入れて、このくらいだったら死にゃしない(自分の残り人生の間に、まず健康には影響がないだろうと確信する)と思って暮らしている。まぁ、この先、また東のほうでどかんとキノコ雲でもあがったら、あわてて逃げていくことになるんだろうけど、今のところはそんな感じです。
東京まできたついでにと、わざわざぼくんちまでやってきてくれた三好レイコさん。放牧されている犬と戯れながら電話中の図
遊びに来たい人は、どうぞ遊びにきてください。直ちに健康に影響をおよぼすことはありません。でも自信がないから(地震はあるかもしれない)、これから妊娠する予定の人とか妊婦さんとか、幼いお子さんは来ないほうがいいと思います。せめて45歳をすぎた妙齢の紳士淑女のみなさんと、この村で再びお会いできる日を、ぼくは心待ちにしています。
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11:01
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2011年04月23日
かわうちかえる
計画的避難区域とか緊急時避難準備区域とか、原発がとんでもないことになっている福島県からは遠く離れて東京のど真ん中の机の上で決められた制度が適用になって、またまたご心配をおかけしたみたいだけど、ぼくが住んでいるのは原発から25km地点の、政府が言うところの緊急時避難準備区域です。へっちゃらで生活してます。ばくぜんとした不安以外は、おそらくみなさんが住んでいるところより快適ではないかと思います。なので、とりあえずご安心ください。いや、その漠然とした不安というのが、たまんないわけなんですが。
ということで、頼りにならない日本政府と本拠地である東京から、先日うれしい贈り物が届きました。川内村でDoor of Adventureというオフロードイベントを企画した山原さんが、デザイナーの富樫さんと制作したステッカーです。山原さんと富樫さんの思いにおされて、ナショナルマークの松下さんが出血大サービスで印刷してくれました。
シンプルだけど、強い気持ちが表現されていて、今の川内村にぴったりだったと思います。ありがとうございました。いや、ぼくがもらったんではないんですけど、ぼくも郡山の役場まで出かけていって、山原さんたちがお渡しする儀式(というほどのものではないですが。なんせ災害中ですから)に立ち会わせてもらいました。
役場は、郡山市のビックパレットふくしまという施設にあります。最初はそこの事務所を借りていたんだけど、この前、プレハブの庁舎ができました。ちょっと役場らしい雰囲気も復活してます。すぐ隣に富岡町役場があるというのが不思議ですが。
山原さんたちには、避難所の様子を見てもらいました。避難所は、この前雨が降ったときに、ノロウィルスがはやっちゃって、たいへんだったそうです。今でも隔離病棟があるらしい。巨大な雑居生活ですから、病気が発生したらイチコロです。病気のほうは一段落したようなので、少しだけ安心ですが。
ひととおり避難所を巡って、役場に戻ってみたら、むずかしい顔をした村長がいた。原子力保安員が来訪していたんですね。こりゃ、にこにこしていられません。彼らが帰るのを待って、村長にもステッカーをお渡ししました。村長、さっそく胸に貼ってくれた。
念のため。かえるは川内村にはなくてはならない存在です。川内村にある平伏沼は、国の天然記念物となっています。モリアオガエルは、卵を沼や湖沿いの木の枝に産み付けます。卵がかえると、ぽとりと水に落ちます。水中の天敵から卵を守るための、生物の知恵です。村は長年にわたって、モリアオガエルを守るために、環境整備などをしてきました。
そしてこのモリアオガエルをたずねてやってきたのが、詩人の草野心平さん。無理やり招待されてやってきたものの、やってきたとたんに川内村が気に入ってしまって、心平さんが亡くなるまで、村との蜜月は続いたのでした。
かわうちのかえるは、そういう意味があります。もちろん、必ず帰る、という村人の総意でもあります。
ありがとう。
どこかのテレビ局の一場面と、福島民友に掲載されたかえるかわうち
その翌日、菅直人が福島県を訪れました。テレビや新聞には、胸にこのステッカーを貼った村長と菅直人の姿が登場しました。胸の緑は、このステッカーだったのでした。
(原発から25kmって、原発のどこからだ? というつっこみがありました。どこからなんでしょうね。原発の敷地も広いですから)
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18:26
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2011年04月13日
花見
左側、クルマが停まっているのが温泉施設のりふれ。もちろん温泉にはいっているわけじゃない。
花見をしてきた。ものすごくくたびれた花見だった。来年、この桜をのんびりとした気持ちで眺めたいと思うのだが、はたしてかなえられるのか。
夜ノ森という、なんとも響きのいい名前のこのあたりは、桜の名所だ。
今日、あいかわらず電話もネットも通じないし、携帯電話が通じる山のてっぺんまで出て仕事の連絡をとろうと思っていたら、隣の遠藤さんが帰ってきたのが見えた。弟の遠藤さんが夜ノ森で自動車屋さんをやっていて、お客さんのクルマとかが放置されているんで、とりにいくという。話をしているうちに、運転手として連れていってくれと立候補していた。夜ノ森の様子を見にいってみたいけど、なんの用もないのにでかける勇気がないという、なさけない雑誌屋でありました。
4人でクルマに乗って、夜ノ森を目指す。我が村は、一部が原発20km圏内に入っていて、避難指示区域にはいっている。でも20km圏内に入ってもトンネルには電気がついているし、道の亀裂もそんなに大きくはない。地震は、たいしたことはなかったのだ。海の側から逃げてきた人たちも、トンネルに電気がついているのを見て、希望を見いだした人が多かったという。今日は、その逆の道をたどる。
よく見えないと思うけど、落ち着いて望遠レンズを構えたくなし。にらんでいただければ、テレビでよく見る形が並んでいるはず
夜ノ森の手前に、いくつかトンネルが続く。すべて、電気が消えている。最後のトンネルにはいる直前、左を見ると福島第一原発が見える。福島第一原発がのことは、イチエフ(1F。Fukushima 1ですね)というんだそうだ。地元のひとにはそれで通るらしい。ぼくは、今回はじめてそれを知った。今は、世界中の人が知ってるんじゃないだろうか。
「原発がなければ、なんということはなかったのになぁ」
弟のほうの遠藤さんが、ぽつりとつぶやく。遠藤さんは、腕の確かな板金塗装屋さんだった。色合わせは職人技だという。ぼくのクルマは傷や凹みはご愛嬌だと思っているけど、いつか修理に出せるようなクルマを持たないといけないなぁと思っていた。
夜ノ森の町には、クルマがけっこう停まっている。温泉施設には、ずいぶんたくさん。温泉を楽しんでいるんではなく、避難所となったときにやってきて、なにかの理由で乗り捨ててったものだ。
遠藤さんの店は、1Fから8kmくらい。出かけてくるときには海からの風が吹いていたけど、今は山からの風が強い。外から見る限りはとりたてて被害はなかった。中では棚が倒れたりたいへんだったけど、それでもこのへんは大きな被害はない。富岡まで行くと6号線も波打っているそうだが、このへんは6号線も平らに見える。
お客さんのクルマ、自分のクルマを表に出して、バッテリーが上がっていたクルマのエンジンをかけ、疎開先で仕事を再開すべく、工具などを運び出し、引き返してくる。書いてみると簡単な作業で、きっと実際にも簡単な作業だったのだと思う。でも、あちこちががちゃがちゃに崩れているので、作業が進まない。手伝おうにも、作業の段取りなどがわかんないので、効率が悪い。もちろん段取りなんか考えていなくて当然なのだが、なかなか作業が進まない。
地割れもない、平和な景色。電気がついてないのと、クルマが走っていないのが、異常。
もうひとつ、たぶんこっちのほうが大きな理由なのだけど、やっぱり原発8kmというプレッシャーは大きかった。このところ、流出している放射線値は安定していて、直ちに健康に影響のあるものではない。それに、もう50をすぎたおっさんだから、今から少々健康に影響があっても、結果が出るよりも先に寿命が終わるほうが確率が高い。心配しても始まらないのはわかっているんだけど、気持ちが揺れっぱなしみたいな気がする。
そのうち、鼻がちくちくしてきた。被曝したからといって、すぐに鼻がおかしくなったらたまらないんだが、どんどん落ち着かなくなる。周囲の空気が、てんでふつうなのが、さらに気味が悪い。そのうち、鼻がちくちくするのは、放射能じゃなくて、板金屋さんのシンナーのせいじゃないかと気がついた。
実は、ガイガーカウンターを貸してくれた人がいて、持ってこようかと思ったのだけど、そのときはたまたま別の人が使っていて、とりにいくとまた時間がかかりそうなので、手ぶらで来てしまった。でもカウンターが高い数値を示すと、これまた平常心でいられないのがわかっている(村内の調査に出かけて、体験済みだった)。情報は多いほうが正しい判断ができると信じてはいるけど、知らないほうが幸せなこともある。
こうして、作業時間3時間ばかりの、出かけていって、お片づけを手伝って、クルマに乗って帰ってくるという、それだけのボランティアは終わった。お仕事的には、たいしたことはない。帰ってくる前にクルマを洗って、着ていたカッパやジャケットを捨てたりビニール袋にしまったりして、手を洗い、顔を洗い、風呂に入った。
でも、どよーんと疲れた。気疲れなんだろうと思う。被曝するとだるいらしいから、そうかもしれない(きっとそういう突っ込みをする人がいると思うから、先に書いておく。まだまだこのあたりでは、そんな量の放射線が漂っているわけはない)。それでまた、原発に水をかけに行ったレスキュー隊のみんなの想像を絶する消耗度とか、今この瞬間にも燃料棒と格闘しているみんなのことを思った。
どうかどうか、よろしくお願いします。いろんなことは、そのあとだ。
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