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藤波貴久の日本GP

最終15セクションを走り終えた藤波は、セクションをアウトしたところで、しばらく動けなかった。2位。しかしこの日は、順位よりも日本GPを走り終えた、その事実が大きかった。やがてお客さんに手を上げると、アウトで待ち受けていたマインダーのカルロスと抱き合い、パンチとタイムチェックの待つ地上まで降りてきた。下で待っていたジョセップらと抱きあいながら、笑顔はまだ見られない。今日の戦いが、どれほど苦しいものだったかを、それは象徴しているように見えた。
2011年。藤波はシーズン序盤からアクシデントが多かった。インドアトライアルでは、まずチーフマインダーのジョセップが腕を骨折した。さらに次は藤波自身が、頭からセクションにつっこんで首を傷めた。2月にして事件続きで、この先はもうそうそう事件もないはずだとポジティブに考えて迎えた3月。日本が地震に襲われた。
シーズンを戦いながら、藤波はトライアルのパドックにおいては日本のスポークスマンの役割も担った。日本は大丈夫なのか、放射能の健康被害はないのか、藤波はライダーの質問攻めにあっていた。そんな中、アルベルト・カベスタニーだけは、早くから「日本には行かない」宣言をした。カベスタニーは開幕戦で2位に入り、なかなか好調を維持していたというのにだ。カベスタニーは、こういうアクションをすることが多い人だ。カベスタニーのこの宣言で、ライダーの気持ちも揺れ動いていたから、藤波は忙しかった。
原発の事故については、日本でも報道が混乱しているが、海外ではそれに輪をかけている。というより、日本では安全、危険と諸説紛々でどの意見が正しいのかさっぱりわからないのだが、海外には安全だという情報はほとんどない。ニュースを見ていると、日本全土が放射能汚染にさらされているような感じになってくる。もてぎはぶっこわれた原発から100km以上の距離にあるが、海外から見れば、その距離はあってないに等しい。
去年、藤波は土曜、日曜の2日間にわたって、4位にとどまっている。久々に日本での優勝も果たしたいが、まず表彰台に乗らないとはじまらない。イギリスGPを3位で終えた藤波は、みんなよりひと足早く日本へ向かった。マシンはイギリスで使ったものをきっちり整備してから日本に送られる。なので早めに日本へいっても、特に練習ができるわけではない。それでも、みんなより早く日本に帰ってきて時差ボケを解消し、日本の蒸し暑い夏に体をならしておくのは、勝負を優位に運ぶ大事なことだった。
そのとおり、木曜日までのもてぎは、たいへんに暑かった。これまで、8月に日本でグランプリをやったことなど、一度もない。2002年に、最終戦として9月に開催されたことがあったが、そのときでさえけっこうな暑さだった。通常なら、8月はバカンス月間で、トライアルはお休みだ。今年は震災がゆえにいろんなことがいつもとちがう。
木曜日まで、ちらちらとセクションを見ると(セクションに立ち入っての正しい下見は金曜日の指定された時間に限られているから、お客さんエリアからということだ)、簡単すぎが懸念される設定だった。ところが金曜日の下見中に天気が一変。激しい雨が降ってきて、コンディションを泥々に変えてくれた。ハイヒールで観戦させたい主催者は悲鳴、トップライダーはこれでようやく一安心だ。ただし前回イギリスで優勝しているアダム・ラガにはつらい雨だ。ラインのない泥沼につっこんでいくトップバッターの辛さは、去年藤波が味わされた苦境だった。
土曜日の天気予報は曇りのち雨。早めにセクションをこなしていったほうがいいかもしれない。しかし藤波には、懸案があった。エンジンのセッティングについてだ。藤波は、マシンを自分の感覚にぴったりと合わせて乗るライダーだ。エンジンのフィーリングは、そのもっとも大事な要素になる。今回、そのエンジンセッティングをしてくれるチーフメカが来日していない。モンテッサチーム全体を見ても、まずボウのメインマインダーさえいない。みな、日本に来るのを敬遠してしまった。そして行きたくないという個人の意志が大事にされる環境なのも、ヨーロッパという土地柄かもしれない。藤波の二人のマインダー、ジョセップとカルロスは、そろって日本にやってきている。
「彼らも日本に来るのはこわかったと思います。彼らが日本に来たのは、ぼくのために、だと思います」
ともあれ、エンジンの性格を作るキーマン不在のグランプリ。セッティング方法を教わってきたマネージャーと、インジェクショントライアルマシンの開発に携わった研究所の技術者とで、藤波号のセッティングを練り上げた。開発が佳境だった頃には、レプソル・モンテッサのパドックには研究所の技術者が勢ぞろいしていたものだが、今は開発は一段落している。パドックに詰めているのは、モンテッサのスタッフだけだ。それでも他のチームよりメンバーは多いのだが、今年は最盛期の半分くらいのスタッフで切り盛りしているのではなかったか。
それでも、土曜日の藤波の出足は、悪くないように見えた。小川友幸が大クラッシュした第1セクションはきっちりとクリーンしたし、第3、第4と5点となってしまっても、トップには6点ほどの点差でくらいついていた。挽回のチャンスはいくらでもある。
しかし藤波は、どうにも波に乗れないまま試合を進めてしまっていた。エンジンの感覚に違和感があった。藤波のマシンは、イギリスGPを終えて整備を受けた後、日本に空輸されてきたものだ。以前はマシンを2台用意して、遠征時には別のマシンを使ったこともあったのだが、マシンが変わるとどうしても違和感が出る。それで1台のマシンを切り盛りするようになった。2台のマシンを運用すれば、マシンが遠征に出ている間もトレーニングができるが、本番でちがうマシンに乗るくらいならトレーニングがないほうがいい、というのが結論のようだ。マシンとの一体感をなにより大事にする藤波らしい。
だから、日本に届いたマシンは、藤波的には万全のはずだった。ただし、ガソリンがちがった。マシンはアルミの箱にコンパクトにおさめて空輸ができるけれど、ガソリンはそうはいかない。陸路で移動していけるヨーロッパでの世界選手権と、飛行機で移動する別の大陸での世界選手権がちがうところだ。
この、日本で用意したガソリンが、藤波の調子を崩させることになった。品質に問題があったわけではない。いつもとちがうというその一点が問題だ。
藤波のペースが上向きになることはなかった。たとえ成績が悪くても、自分のライディングができていれば、藤波の機嫌はいい。そして機嫌がよければ、成績は少しずつでも上向いてくる。ところがこの日は、改善のきざしがない。明るくオープンな性格がひとの心を惹きつける藤波だが、マシンについては実に細かな神経を使って仕上げている。いったんそのコンビネーションが狂うと、藤波のフジガススピリットも翳りをつくる。
1ラップ目、14セクションを出たところで、藤波はシレラ監督に「どう?」と聞いている。答えは、あんまりよくない。藤波自身も感じていたことだから、いまさら驚かない。ところが2ラップ目、第1セクションでいきなり5点となった。藤波が選んだラインのすぐ隣には、より安全なラインがあったのだが、1ラップ目に問題のなかった藤波は、迷わず同じラインでトライして、登りきれなかった。
2ラップ目、藤波のライバルはファハルドだった。オッサが全日本や世界選手権の場で日本を走るのは、これがはじめて。フューエルインジェクション、後傾したシリンダーと、意欲的なマシンプロフィールは写真などでも伝わってくるが、いかにもトルクフルなエンジン音や、大岩への飛びつきの走破力の高さなど、アドバンテージを見せつける場面も少なくなかった。1ラップ目の終わりに12点あった藤波とファハルドの点差は、2ラップ目が始まるや10点を切り、第7セクションで藤波が5点になると、ついに藤波はファハルドに3位の座を奪われることになった。
12セクション、ハローウッズの庭の滝セクション。ここはしばしば、藤波の鬼門として伝えられる。1ラップ目はクリーンしているこのセクションだが、しかし2ラップ目に、藤波は登りきれなかった。濁った水の中に、1ラップ目とはちがう石があった。藤波のトライを見たボウは、別のラインを選択してクリーンしている。
最終セクションに着いたとき、藤波はファハルドに4点差をつけられていた。とにかく最終セクションはクリーンしろ、というのが監督からの指示だった。4点差を知っている者からすれば、こちらはクリーンして、あとは運命に身をまかせるしかない。
藤波は、その通りクリーン。そしてしばしのちにやってきたファハルドは、ここを登りきれなかった。5点。藤波は、たった1点差で、3位表彰台を得た。2位のラガとは、ちょうどダブルスコアの点差が開いていた。

土曜日のあと、藤波はエンジンのプロフィールをがらりと変えた。土曜日の戦いは納得がいかなかった。クリーンにしろ5点にしろ、自分の思うような走りをして、それで出た結果はしかたがない。土曜日の藤波は、5点となってもクリーンとなっても不本意だった。
朝、エンジンに焼き込まれたインジェクションのマッピングは、どのような結果をもたらすのか。セクションは、全体にやや簡単に設定されなおされていた。土曜日はなんとか雨は降らなかったが、日曜日は朝からしとしとと降っている。8月だというのに、気温はごく低い。いつも6月の日本GPで、梅雨の時期だから雨が降ると納得していた海外選手にとって、とんでもなく湿気が高くてとんでもなく暑いと聞いていた日本の8月が、肌寒いほどの雨模様だなんて、だまされたようなものだ。
日曜日の藤波のエンジンは、土曜日とは打って変わって、藤波の手足となって動いていた。第2セクションで1点をついた後、ボウ、ラガが5点となる中、藤波は3点。さらに岩盤の第4セクションを1点で抜けて、藤波はボウとラガには序盤にして6点差をつけていた。藤波と同点トップにつけたのはイギリスの若手のブラウンで、それを追うのが黒山というオーダーだ。藤波のリードは、第9セクションまで続いた。
ハローウッズの森の中に設けられた10セクション。ここでアクシデントが起こる。最後の岩に飛びついた藤波は、岩の上でバランスを崩して、左に落ちていった。これで藤波のリードはなくなり、追い上げてきたラガに3点差でトップを奪われることになるのだが、問題はそんなことではなかった。藤波が落ちた先はセクションの外だったのだが、そこには別の岩があった。マシンと岩にはさまれた藤波の左足は、そのままぐにゃりとひねられた状態で動きを止めた。
万事休す。遠く離れたピットにはリタイヤするかもしれないという観測と、担架が要請されたという情報が寄せられた。藤波が痛みでうなっている間に、後続のライダーは次々に11セクションに向かった。
痛みは極限だった。もちろん、歩けない。うなりながら、藤波は自分の足をチェックしていた。骨が折れているのか、足は動くのか。痛いのはどんなことをしたときなのか(この時点では、何をしても痛いわけだが)。しばらくのち、藤波は「乗れる」と判断した。もとよりリタイヤするという選択肢は藤波にはない。どうやって試合の残りを走りきるか、藤波の懸案はそこにつきた。

11セクションを走る藤波。アウトまでは、もう少し
30分もたったろうか。藤波はみんなからはるか遅れて、11セクションに向かった。11セクションは、ジュニアクラスと共通の、比較的やさしいとされるセクションとなる。しかしぬるぬるの泥の中、5点にはならないまでも不用意な足つきを誘うセクションだ。集中をじゃまされやすい、痛みを引きずる藤波には不利なセクションともいえる。ボウも、ここで1点を取っている。
マインダーに肩を借りてセクションの下見を試みるも、すぐにあきらめた。歩ける状況ではない。とりあえずこのセクションは、下見をしなくてもなんとかなりそうなセクションでもあった。
歩くのも容易ならざるライダーが、はたしてどんなライディングを見せるのか。応援とも、不安ともつかない声援が送られる。ところがマシンにまたがった藤波は、そんな不安を吹き飛ばすように、11セクションをクリーンした。ここでのクリーン自体は、それほど驚くべきスコアではないが、負傷したばかりの藤波がクリーンしたという事実は、やはり驚異。しかし。

セクションアウトした藤波は、しばらく動けなかった。パンチカードも差し出せない。痛む左足をフットレストから投げ出し、マシンに上でうずくまる藤波。実は藤波は、このとき泣いていたのだという。11セクションはクリーンしたものの、足は痛み、力は入らず、それはそれでたいへんだった。トップを走りながらのアクシデント。優勝のチャンスを失うのもくやしいが、それよりもこんな状況でこの1戦を走りきれるのか、それすら皆目先が見えない。くやしかった。くやしくて不安で、涙が出た。藤波がスコアカードをオブザーバーに差し出したのは、しばらくたってからのことだった。
ところが藤波は、次の12セクションもクリーンしてしまった。ここは、土曜日の2ラップ目には攻略できずに5点となってしまっていたところだ。それなのに、足を引きずりながらクリーンした。藤波貴久というライダーは、いったいどうなっているのだろう?
こういう疑問は、試合が終わってから、藤波の周囲からも投げかけられたという。なんで5点になったセクションを、ケガをしてからクリーンできるんだ?
あとに藤波は「5点になって転んだら痛いじゃないか、クリーンしないとたいへんじゃないか」と、冗談めかして語っている。結局藤波は、11セクション以降15セクションまで、3点ひとつで走り抜いた。その間、気功の心得のある人に足をさわってもらったり、マインダーのジョセップの膝サポーターを借り受けたりした(ジョセップは膝の具合が悪く、最近ではお助けなどの危険業務はサブマインダーだったカルロスがやっている)。それでも、負傷した足がもとどおりになるわけではない。
1ラップを終えて、トップのラガとは2点差。挽回は、充分可能だ。藤波とラガは、2ラップ目も一歩も譲らず6セクションまでは同減点で進んでいた。2点差のまま。しかしその後、ラガは10セクションで5点、14セクションで3点をとっただけで、ほかはすべてクリーン。対して藤波は、ほかにも細かい減点があったほか、7セクションで5点となった。13セクションを終えた時点で残りセクションは二つ。ラガと藤波の点差は10点。藤波とラガの点差もまた10点。ほぼ勝負はついてしまっていた。
最終セクション。ラガの勝利が決まったあとに、藤波がトライ。ここをパスしてゴールしても藤波の成績はすでに決まっているのだが、しかし藤波は走る。ポイントをひとつひとつていねいにクリアして、そしてクリーン。
セクションをアウトして、再び藤波はしばし身動きを止めた。空を仰ぎ、大きく息を吐いて、それからみんなの待つ地面に降りてきた。トップから10点差。勝てなかったけど、優勝にも匹敵する2位となった。
思えば2000年。はじめて世界選手権が開催された年、藤波はドギー・ランプキンとトップを争いながら、足を裂傷する負傷を負った。脚をしばって完走した藤波の雄姿は、今でも強烈な印象を残している。藤波によれば、あのときと同じくらい、痛かった、つらいレースだった、と語っている。
