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トライアル・デ・ナシオン

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TDN

TDNと日本チームの歴史

トライアル・デ・ナシオンは、1984年から始まっています。会場はポーランドで、優勝はフランス(フィリップ・ベラティエ、ジル・ブルガ、フレッド・ミショー、ティエリー・ミショー。フレッドとティエリーは兄弟、フレッド以外はみんな来日経験があります)でした。

日本がはじめて参加したのは1987年。うろ覚えでは、MFJが率先して参加を実現させました。当時の日本のトライアルは山本昌也の無敵状態から伊藤敦志が覇権を奪おうかという時代で、山本昌也、伊藤敦志、中川義博のランキングトップ3は、全員がメーカーの契約ライダーでした。MFJの依頼で、メーカーが強力にバックアップをして、最初の日本チームのデ・ナシオン出場は実現したのです。

翌年88年は、日本チームは出場していません。その理由はちょっとわかりません。

89年からは3年連続で出場しています。89年からは4人体制による参戦で、89年は伊藤敦志・山本昌也・泉裕郎・中川義博が参戦しました。90年には現地での練習で中川義博が負傷するアクシデントに見舞われましたが、残った3人が成績を出し、10位となりました。このときの代表選手は、伊藤敦志・上福浦明男・三塚政幸と、中川義博でした。

この時代に残念だったことといえば、当事急成長をしていた成田匠を、日本代表として選出できないというお国の事情があります。成田が国際A級チャンピオンになった89年には、「A級1年目のライダーは海外参戦をしてはいけない」というMFJ規則が仇になりました(この規則にも根拠にはあるのですが、トライアルに適用されるのが適当だったかどうかは、疑問の多いところです)。90年は、成田は世界選手権に参戦していたにもかかわらず、代表選手選抜条件である全日本の成績がないため、選考からはずれました。中川が負傷をしたため、代表選手の枠には空席ができたにもかかわらず、成田がデ・ナシオンに出場することはありませんでした。91年、ようやく成田が代表選手となり、伊藤敦志・中川義博・小林直樹とともに戦いました。

成田匠が代表選手となった91年は、日本チームが7位となっています。ここまでの日本チームの中での最高成績。すでに成田は世界のトップライダーでしたから、成田を軸に、日本のトライアルが、ようやく世界に肩を並べようとしていました。

ところが92年、デ・ナシオンの派遣は中止されました。MFJの財政的な問題、デ・ナシオン派遣の効果がはっきりと出ていないことなどが理由でした。そのまま日本はしばらくデ・ナシオンとは無縁のときを過ごします。その間にも、成田をはじめ、小谷徹、河合紀之、三塚政幸世界選手権を走るライダーはスポットながら何人かいたものの、特にデ・ナシオン出場についてのアクションは起きませんでした。

事態に変化があったのは95年です。成田匠に加えて、黒山健一と小川友幸が世界選手権へのフル参戦を開始します。めきめきと頭角を現す黒山、徐々に実力を発揮してくる小川、これに実績たっぷりの成田。この3人が日本チームとして走れば、必ずやいい成績が出るにちがいない……。

当時、MFJは「デ・ナシオンへの参加はしない」方針でしたから、まずこの交渉から始まり、ついで参加のための資金を広く募集する募金活動が始まりました。この活動は、トライアルジャーナルの宮田光幸さん(現ストレートオン編集長)が中心となり、トライアルジャーナル編集長を辞してこの年から世界選手権の随行取材をはじめた杉谷真(ご存知、現自然山通信)が現地での連絡窓口となりました。

募金活動は成果をあげ、この年、日本チームは堂々3位に入賞します。ライバルが4人体制で戦っている中、ぎりぎりの体制でこの成績ですから、将来には大きな期待がもたれた結果でした。なおこの年、デ・ナシオンはAクラス、Bクラスのふたつのクラスができています。それだけ、レベルの差が大きくなったということです。Aクラスの下位、Bクラスの上位では、成績によって入れ換えがおこなわれますが、日本は実績がなかったにもかかわらず、いきなりのAクラス参入です。顔ぶれからして当然といえる、柔軟な処置といえます。

翌96年、ところが日本チームのデ・ナシオン参加はありませんでした。96年のデ・ナシオンはフィンランドでの開催です。フィンランドは、ヨーロッパから行くには、地の果てのような遠いところです。これが、代表となるべき選手に負担となったのも事実です。2年目に向けて、募金活動は順調でしたが、ここでまた日本のデ・ナシオン参加は足踏みをします。

3年後の99年、世界選手権に参戦する日本人ライダーの顔ぶれも変わりました。96年から藤波貴久が、98年からは田中太一が加わっていました。ここでMFJが動きます。MFJは会長が変わり、ツインリンクもてぎでの世界選手権開催などを含めて、積極的にトライアルに取り組み始めました。デ・ナシオン派遣も、その一環でした。96年に宙に浮いた形となっていた募金はMFJに預けられていました。また、MFJ自身による募金活動も始まりました。メンバーも、黒山、藤波、田中に加えて、世界選手権からは撤退していた小川友幸が、MFJからの支援金では不足する遠征費用を個人的支持者に支援してもらって、参加しました。結果は、95年同様3位でしたが、変化するデ・ナシオンのルールへの対応など、熟練も含めて、いろんな勉強をしたとしだといえるでしょう。

2000年、舞台はスペインでした。この年は、代表選手の選考がやや困難でした。世界選手権を走るライダーと全日本を走るライダーの技術を、どうやって一元的に判断し、4人の代表選手を決めるのか。それは今後も容易には解決しない、むずかしい問題だと思います。結局この年は、藤波、黒山、小川、成田の4名が選出され、成田が辞退することで田中が出場。日本チームは、2位という過去最高の結果をおさめました。

2001年、また不運が日本チームを襲います。デ・ナシオンを直前に控えてのニューヨークの連続テロ事件。この事件を受けて、藤波、黒山、小川、成田の代表選手の間で、「この時期の渡欧はいかがか」について相談がなされ、最後はMFJが参加を断念する発表をして、不参加が決定しました。

2002年、今度は比較的順調に参加が決まりました。唯一、代表となっていた田中が練習中に負傷、繰り上がって初出場の野崎史高が出場することになりました。チームワーク、そして技術的にも、トップチームと一歩をひけをとらないに本チームでしたが、前年に出場していないため、スタート順が悪かったこともあって、またも3位入賞となりました。

2002年は、レディースにも参戦しました。レディースには、全日本選手権のような統一した選手権がないため、選考は男性部門以上にむずかしい背景がありますが、一方、少なくない自己負担を持って海外に参加できるレディースはそう多くはなく、自己負担を覚悟で参加を表明した刀根理佳、伴津留代、柿原真理の3人が日本代表となり、8位の成績をおさめてきました。

2003年。MFJがデ・ナシオンへの資金援助を中止する決定を下しました。理由は財政的な問題と派遣による効果の問題です。以前と同じ理由でした。 しかし今度は、以前のように選手の自主的な参加を認めないというものではありません。財政的に、MFJ主体での参加ができないということです。ここで再び、トライアル選手会(この年、選手会代表は山本昌也から小谷徹に代替わりしています)を中心に、遠征費用を募金活動で集める動きが始まりました。

2003年、男性代表は藤波貴久・黒山健一・田中太一・野崎史高。田中をのぞく3名は世界選手権をフル参戦していたので、体制的には安定感が増しています。この年は、イギリスチームのコリーが直前に出場を断念し、イギリスの非力は否めなかったものの、強力なチーム力を見せつけて優勝。日本チームは、田中のマシントラブルなどもあり、スペインに敗れての3位となりました。田中は1ラップのほとんどを費やしマシン修復をし、戦線に復帰。一時は4位に転落かという心配もあったのですが、田中の存在で救われました。また女性チームは日本チーム参加の流れを切らすまいと、伴津留代・稲垣和恵の2名が多くの犠牲を払って参加しました。彼女たちには、多くの敬意を払わねばいけないと思います。

2004年は、大きなエポックとなりました。選手会、ヤマハ発動機、アルプスヴァン、チーム三谷などの尽力で、萩原真理子、西村亜弥、高橋摩耶の女性チームが形成。ヨーロッパのレディースチームに殴り込みとなりました。3人ともはじめてのヨーロッパでのトライアル。しかしそんなハンディをものともせず、彼女たちは善戦します。結果、クリーン数わずか4個の差で、フランスに勝利に譲るという惜しい結末。しかし、日本代表チーム3年目にして、見事な結果を結んだのでした。

男性チームは、気温40度の猛暑の中、スペインチームには徐々に離されつつ、イギリスにはリードを保っていましたが、2ラップめにミスが目立ち、それをチームメイトがフォローできぬままに試合が進み、なんと終盤に逆転、またしても3位表彰台という結果に終わりました。4人のうちふたりが、借り物のマシン、完全な試合体制を持たずに戦うハンディが、今回は結果に現れてしまいました。表彰台獲得ながら、くやしいくやしい表彰台となりました。

2005年、女性チームは前年と変わらず、しかしエース萩原真理子は、モトクロスでの負傷などもあって、トライアル訓練をほとんどしていない状態での参戦となりました。練習不足は結果に現れ、彼女らしくない細かい減点がかさんでいきます。一方西村亜弥は、この1年、トライアルに復帰した成果を発揮、ときに、真理子を凌ぐ走りを見せます。また、高橋摩耶は、前年の経験を最大限に生かし、伸び盛りの実力を遺憾なく発揮しました。結果は前年の2位から後退しての4位でしたが、ドイツ、イギリス、スペインのトップ3は、いずれも前年に主要メンバーがケガに泣かされたチームであり、萩原のブランクを考えると、フランスを破っての4位は充分に納得できる結果ではありました。

男性チームは、渋谷勲がデ・ナシオン初登場。藤波、黒山のいつものメンバーに、野崎、渋谷のスコルパディオを加えた4人でチームジャパンを構成します。イギリスは引退宣言をしたコリーのかわりに、2004年ジュニアチャンピオンのモリスをメンバーに加えてきました。実力的に圧倒的なのは、世界ランキングのトップ6をそろえたスペインです。しかし日本は、そのスペインと互角に勝負していきます。イギリスもまた、スペインと日本と台頭に勝負します。三つ巴の闘いは、途中、突然の雨にたたられるなどしながら進んでいきました。結果、雨のタイミングとスタート順が明暗を分け、スペインが逃げ切り優勝。日本とイギリスは、わずかのところで惜敗しました。しかし選手は、いつも以上に手応えを感じていたようでした。同じ3位でも、いつもとはちがった3位表彰台の獲得でした。

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