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藤波貴久、世界選手権挑戦20周年記念のインタビュー
レプソル・ホンダ・チームが、藤波貴久世界選手権参戦20周年に向けて、特別インタビューを配信してきました。ざっと日本語に訳してみました。藤波のコメントもさることながら、チームメイトだった4人の世界チャンピオンからの一言が感動的です。
4月14日は、藤波貴久は世界選手権に挑戦して20年目の日を迎えた。20年前のこの日、藤波は世界選手権に始めて参戦したのだった。この20年は、藤波は常に世界のトップレベルにあった。18年間にわたってトップ5を維持し続けた力強いチャンピオン。こんなライダーは、他にいない。
藤波が初めて世界選手権に参戦した1996年といえば、アトランタオリンピックの年であり、フォーミュラー1ではデイモン・ヒルがチャンピオンになった。モトGP 500ccではミック・ドゥーハンがタイトルを獲得、250ccはマックス・ビアッジ、そして125ccでタイトルを獲得したのは青木治親だった。そんな年に、藤波貴久は世界選手権にデビューしたのだった。以後、2004年の世界チャンピオンを含め、20年にわたり世界のトライアルのトップに君臨し続けている藤波は、いまなお歴史を刻み続けている。
問)20年前の、世界選手権デビュー戦のことは覚えていますか?
藤)当時は、タレスやコロメ、ランプキンがヒーローで、ぼくも雑誌やビデオを見て、憧れていたものです。でも彼らのライディングを実際に見たことはありませんでした。そんなヒーローたちと自分が競える立場に立てるというのは、たいへん誇り高き、うれしいことでした。前の年、全日本チャンピオンになっていましたが、テクニック的にはまだまだで、多くの幸運の結果に獲得したタイトルだと思っています。ぼくの世界選手権デビュー戦は、それはたいへんなものでした。でもそこでいろんなことを学んで、第2戦では6位に入ることができました。これは天にも昇りたい幸せでした。この頃のぼくは、とにかく前に向かって突き進んでいて、こわいものなんかなにもなかくて、すべてを世界選手権に注ぎ込んでいた。でも最初の1年はほんとうに厳しかった。チームはぼくと父親の二人だけ、メカニックもマインダーもいなかった。他を見れば、料理担当の人さえしましたから、トップ5くらいに入れれば、自分もそういう部類に入れるのかなと思ったものでした。
問)最初の年、モンテッサにはマルク・コロメがいて、彼はその年のチャンピオンになるんですよね。
藤)その通り! ぼくとコロメは同じプロトタイプマシンに乗っていました。コロメはチャンピオンになりましたが、ぼくも最初のシーズンを、ランキング7位という、まず悪くない結果で終えることができました。16歳になったばかりでしたから、この結果は上々でした。
問)16歳のデビュー年にランキング7位ですから、環境はすぐによくなったのでは?
藤)そうですね。でも簡単じゃなかったです。1999年にはランキング2位になりましたが、ドギー(ランプキン)はいつもぼくの上にいました。20試合の選手権のうち、ドギーは18勝するような圧勝ぶりでしたから、ランキング2位といってもぼくにつけ入る隙はありませんでした。2003年には、ドギーより勝ち星で勝るまでになりました。しかしそれでもチャンピオンになれなかったんです。
問)世界選手権挑戦2年目の最終戦タールハイムで、世界選手権初優勝をしていますね。いかがでしたか?
藤)2年目のシーズンで、17歳だった。マインダーは村田慎示さんだったのですが、試合前日に事故があって病院に運ばれ、そのまま日本に帰ることになってしまいました。ぼくはマインダーを失ったのです。マインダーを買って出てくれたのは、オスカル・ジローさん(現チームマネージャー)でした。ここで初めて、ぼくはマインダーとスペイン語でやりとりをすることになりました。ほんの片言でしたが、なんとかなったものですが、なんだかコロメになったような気分でした。そして終わってみたら、なんとびっくり、優勝していたんです。あの時は、2位が黒山健ちゃんで、3位がタレスでした。でも2勝目までが、また長かった。
問)2004年、あなたは初めて日本人世界チャンピオンになりました。あなたとホンダにとって、これはたいへんな成果になりましたね。
藤)はい。ホンダはいつも多大な援助をしてくれていました。日本のホンダとしては、日本人がチャンピオンになるのは特別の意味があったにちがいありません。
問)あなたは4人の世界チャンピオンとチームを共にしています。マルク・コロメ、ドギー・ランプキン、トニー・ボウ、そしてライア・サンツ。チームメイトとして、彼らについて一言ずつ教えてくれますか?
藤)マルク・コロメは、ぼくの最初のチームメイトだったのですが、その後のドギーやトニーたちほどには、うちとけた関係にはなれませんでした。ドギーとは、ずっといい関係を保っています。トニーともそう。それはこれからもずっと続いていけると思っています。ライアは、素晴らしい友人です。彼女のレベルの高さと彼女の功績の偉大さには驚かされます。
問)さて、この週末はいよいよ日本GPです。
藤)世界選手権がホームで始まるというのは、とても大きなプレッシャーがあります。その反面、日本のファンに大きな力をもらい戦えるということでもあります。地元での戦いは、いつでもたいへんなプレッシャーとモチベーションを与えてくれます。すでにどんなセクションになるのかという情報は入ってきていますが、フジガス・スタイルに適したものになっていそうです。
問)フジガスというニックネームは、どうやってついたのですか?
藤)1年目、最初の世界選手権はマドリッドでした。本当にむずかしい、誰もいけない壁のようなところがありました。ぼくはそこを全開でアタックして、たったひとり壁を上り切ったんです。勢い余して、向こう側に落っこちてしまったのですが、そのとき、観客の一人に名前はなんというんだ?と聞かれました。デビューしたばっかりの無名人だったから、誰も名前を知らなかったのだと思います。フジナミだと答えると、そうじゃない、フジガスだ!と言われました。ぼくはその名前が一発で気に入ってしまって、以来、フジガスを名乗っています。
問)思い出に残っている世界選手権大会はありますか?
藤)いくつかあります。その中の一つは、アメリカです。大雨が降っていて、時間もない中で、マシンを水没させてしまいました。マシンを分解し、水を抜き、そして試合を続けて、勝ったんです。アメリカでは、いつもいい結果が出せています。日本とおんなじですね。2年前のもてぎでは、最終セクションまでファハルドと同点だと、放送で聞きました。ファハルドが減点して、ぼくにチャンスが巡ってくると、すべての観客がぼくに力をくれました。そして優勝が出来ました。ほんとうに信じられない思いでした。
問)20年間のシーズンの最高の幸運ですね。
藤)20年もトライアルをやれるなんて、思っていませんでした。今ぼくは35歳です。31歳か32歳になった時、そろそろ引退するべきなのかと考えるようになりました。でもこの年になってもまだ世界選手権で活躍することができるのだと、みんなわかってくれていますよね。ぼくはまだ年寄りじゃない!
藤波貴久
・18年間世界選手権でランキングのトップ5を堅持
・世界選手権参加数世界一(278大会)
・世界選手権最年少優勝(17歳7ヶ月25日)
・史上2番目に若い世界選手権表彰台獲得(17歳4ヶ月12日)
トニー・ボウから一言
(8回の世界チャンピオン・2007年よりのチームメイト)
私にとってフジはアイドルです。子どもの頃から、フジは憧れでした。偉大なチャンピオン経験者であり、たいへんなファイターであり、素晴らしいスタイルを持っています。すべてのライダーはフジから多くを学ぶべきだと思っていますし、フジの一貫した姿勢からは、多くのことを学ぶことができます。フジの20年間の戦いは簡単なものではなかったと思いますが、私はこれからも、フジがこれまで通りのスタイルで戦い続けると信じています。
フジに出会えたのは、私にとって幸運でした。レースでも、彼に助けてもらったシーンは数え切れません。二人の関係は、長いつき合いの中で、少しずつ、確実に密になっていっています。ときにはふたりで大笑いもしたりね。
これからも、フジとの友情は素晴らしい思い出を作り続けてくれるにちがいありません。
ドギー・ランプキンから一言
(7回の世界チャンピオン、2000年から2007年までのチームメイト)
大親友であり、長年のライバルだ。20年もやってるのか。びっくり。
藤波がヨーロッパにやっていた時には、彼が私の世界選手権挑戦にこんなにじゃまな存在になるとは思わなかった。野性的で、ときに操縦不能。でもいつだって、誰よりも学び続けていた。
ずっとランキング2位を続けてきて、2003年にようやくチャンピオンになれるかという時、最後の最後まで争った結果、私がチャンピオンになりました。それは私にとって最後のチャンピオンになるのですが、レースが終わったあと、私は藤波のところに行ってみました。やはり彼は泣き崩れていました。2004年。藤波の夢は、ついにかなった。
2000年から2007年まで、7年間チームメイトとして戦って、遠征やトレーニングと、多くの時間をいっしょにすごした。とても楽しい時間が過ごせたし、そのすべてがいい思い出となっている。
藤波といっしょにトライアルをやったのは15年間の長きに及ぶ。ごくときどき、なにかがあったとしても、すぐにまた元通りになれた。藤波はいまだとてもハードなトレーニングをこなしていて、いまだとても強い。世界中に藤波ファンがいるのは、彼のそんなスタイルの賜物だろう。藤波貴久、もはや伝説だ。
マルク・コロメから一言
(1996年世界チャンピオン・1996年から2000年までのチームメイト)
ずいぶん昔話になりました。でも藤波が世界選手権に登場した年は、忘れることができません。1996年は私が世界チャンピオンを獲得した年でした。そして藤波も、世界タイトルを獲得することになります。
最初に彼のライディングを見た時、とても変わった乗り方をしていると感じました。とにかくスロットルを開けている。そしてまた、ヨーロッパの走り方に、非常によく合わせてきているとも感じました。世界の舞台にやってきたのは黒山の方が先だったのですが、藤波は若かったし、非常に積極的だった。フジガスという愛称がつけられたのは、そんなすべての必然の結果だったと思います。
私と藤波は、同じモンテッサに乗っていましたが、そんなに密接な関係ではありませんでした。しかし彼はトライアルというスポーツと、パドックの雰囲気に非情に溶け込んでいました。とりわけ、彼がカタルニア語をどんどんマスターしていくのには驚かされました。藤波が日々こなしてきたトレーニングのハードさは、考えるよりもずっと厳しいものであったにちがいありません。
そんな彼は、痛みにも耐えて、きっと大きな成果を残してくれると信じています。
ライア・サンツから一言
(13回の世界チャンピオン・2004年から2011年のチームメイト)
一言で言うなら、フジはとてもとても素晴らしい友人だということです。
最初に会った時には、ちょっと照れてたように見えましたが、時間とともに打ち解けていきました。初めてチャンピオンになり、父親になりと、人生のいろいろを経験して、フジはどんどん友好的になっていたように思います。
アスリートとしては、ほんとうに勤勉で、ハードなトレーニングを黙々とこなしていました。ケガに苦しむ彼のことも何度となく見てきましたが、その都度彼はケガを克服してきました。
そして彼は、とても楽しい人物です。フジのことを好きな人は、ボウやカベスタニーのことが好きという人とはちょっとちがうところに感じ入っているのだと思います。と同時に、長年にわたってトップ争いをし続けているという事実には、ほんとうに尊敬します。その間には、ライディングのスタイルもルールも、いろんなことが変わっています。でもフジは変わらず、フジであり続けるのです。
私の家の最初の部屋には、フジにサインをしてもらったヘルメットが飾ってあります。それはわたしのとてもいい思い出です。おめでとう! フジ