雪は降ったって春は春。シーズンは開幕してます。えいえいおー

2016年初春の川内村にて

2016年原発事故その後

原発事故が起こって5回目のお正月を迎えました。ここんとこ、そのあたりについて、なんにも書いてなかったので、久しぶりになんか書いてみようと思ったのだった。

原発事故関係について黙っているのは、誰かに黙っていろとか言われたわけじゃない。読みたい人も読みたくない人もいるだろうな、という思いはある。久しぶりに会って、冗談でもまじめな顔つきでも、原発についての話を聞いてくれる人はまだまだたくさんいるけれど、興味がないと言い切る人もいる。世の中はいろんな人がいるので、それはそれでいいのだと思うけど、原発事故直後にぼくが感じていたことは、少し修正しなければいけないと思う。それは「原発事故の被害者は避難を強いられたり被曝を受けたかもしれない人ばかりじゃなく、日本人もしくは地球のみんなが被害者であり、同時に少なくとも日本人はみんなこの事故の加害者である」という思いだ。そういう思いはきっと、通じにくいのだろうなともうすぐ5年となる今、思う。

1601冬の日のそのへん

ぼくの住む村は、原発からたった10kmから30kmのところにありながら、風向きの影響か、地域の放射能汚染はごく少なかったとされている。でもそれは事故当時にはわからなかったから、まずはみんなで避難をした。汚染が少ないとわかった時点で帰ってくるのかと思ったら、避難は少なくとも1年は平気で続いて、今でも避難をしている人がいる。この頃から、原発事故の被害は放射能だけではないと実感することが多くなった。同時に、村に住んでいた人の中には、村が好きな人、自然豊かな村が好きな人、経済的に居心地かよいから住んでいた人、他に選択肢がない人など、いろんな人がいることもなんとなくわかってきた。避難していく人、村を去っていく人は、とりあえず放射能被害から逃れるという理由を挙げているけれど、その後ろに見え隠れする理由のほうが、本当は大きいような気がしている。

職場と教育は、その中でも大きな理由だし、行政や国家がなんとかできる余地が残っている。事故以前、村の人々はこぞって浜のほうにでかけていた(村役場の職員の一部は、浜に住みながら村に通勤していた)。原発のある浜の町には、原発の仕事ばかりでなく、スーパーや病院や美容院やレストランや、いろんな仕事があったもんだ。そういう仕事は、いまはない。ないからつくろうとがんばっているのが行政だけど、魅力がないのか、軒並み求人割れをしている。賃金が安いのと(今はまだ、除染の日雇いの仕事に出かけたほうがギャラがいい。除染についてはまたあとで)仕事を選べるほどに数がないからじゃないかと思う。働く人がいないので、村外から労働力を確保しようともしているが、村外にはベストでなくても、職場が選べる環境はある。村にやって来る人は、ごくごくまれだ。

学校環境は、事故前とたいして変わっていないともいえるし、激変したとも言える。小学校と中学校は、生徒数が1/3ほどになったけれど、存在は変わらない。でも村内の高校は廃校になった。廃校は事故のほんの10日前のことだった。なんというタイミングだ。それでもほとんどの高校生は村外に通ったりしていたので、その点では決定的な問題ではなかった。その、村外の半分が立ち入りできないかそれに準じる地域になって、もちろん学校もない。通える高校が半分以下になってしまって、交通機関も満足にない。そんな環境での学びは、子どもたちより、親のほうに負担が大きい。高校生でなくても、近い将来高校生になる子どもがいる家族が村に帰ってこれないのは、こんな理由も大きい。

1601しょうた皆さんにいただいた自転車でまがりなりにもトライアルを始めたSくん。小学5年生

放射能被害はわずかだったと書いたけれど、なかったわけではない。いまのところ、お米や野菜については放射能の移行はまず確認されていないし、みんなも安心している。でも一部の山菜やキノコ類、イノシシの肉などは安心できない。村には放射能測定室が何ヶ所かあるので、調べて食べることができるから、生活をする上では一応の安心はある。どれも、事故後時間が経過することで線量は徐々に下がってきているけれど、ときどき上がったりするものがあるなから油断できない。少なくともこの先100年くらいは、お国の責任で放射能測定はやり続けてほしいもんだと思う。

ところで、日本では100Bq/kg以上の放射線を出す食物は流通してはいけないことになっている。チェルノブイリのときのEUによる輸入制限は370Bq/kgとかだった。どちらも、実際にはその限度いっぱいの食品が輸入されたり流通したりすることはないんだけど、ここにダブルスタンダードがある。いま、原発事故の周辺にはダブルどころでない、いくつものスタンダードが存在する。これまで、付け焼き刃的に(そのつど反対運動とかをまるめこむために)施してきた政策のボロが出ているんだと思う。ダブルスタンダードはともかく、このあたりでとったイノシシとかキノコは300Bq/kgくらいだと、多くの場合は捨てられてしまう。100Bq/kg以上は流通できないだけだから、食べてしまえばいいと思うんだけど、やっぱり気持ちが悪いらしい。でもその数値のものは、理屈の上ではこれまでもずっと、ヨーロッパから輸入されていたかもしれないというところがおまぬけだ。

いったい、放射能被曝はどれくらい危険で、どれくらい深刻なのか。ちまたにはあぶないあぶないと声を上げる人は多く、村の人々もたいていはそういう声に同調している。少なくとも、放射能被曝は問題ないレベルはあっても、絶対安全というものでもない。ぶん殴られて死ぬこともあればへでもないこともあるけど、だからといってぶん殴る行為が安全ということはあり得ない、みたいなもんだと思っている。

それでも、世の中のみんなにこの地の安全を保障するなんて、ぼくにはできない。誰にだってできないんじゃないかと思う。ぼくらは水爆実験華やかりし日本で生まれ、光化学スモッグの空気を吸って育ったし、今の村の放射線汚染はまるで無視できるものだと思っている。でも病気で亡くなる人はいるし、それを原発事故と関連づけたい人はいらっしゃる。いまは、危ないと思う人は勝手にそう思っててください、と切って捨ててしまいたい思いだ。4年前は、30年たたないと結論は出ないと思っていたけど、結論を出せない人にしてみたら、30年たっても結論は出せないのかもしれない。

村の現実は、あいかわらず除染花盛りだ。除染が始まって1年くらいして、行政懇談会の席で「除染は見直したらどうか?」という主旨のことを村長に言ってみた。村長のスタンスは、30年かけて、徹底的な除染をして、帰る準備ができた人から帰ってきてほしい、だから、除染をやめるわけにはいかない。でも現実には、大型トラックと知らない人が村を行き来する、それまでの村の雰囲気とは異なる村になりつつある。ぼくの住むあたりは除染バブルからははずれているので、風景は以前とあまり変わらない。でも村役場のあたりに出かけると、なんとなく殺伐とした印象を受けてしまう。やっかみかもしれないけどね。

除染がややこしい存在なのは、廃棄物の問題もある。除染廃棄物が処理できなくてあちこちで山積みになっている写真はよく見ると思うけど、ここらにいると、いまさら写真を撮ろうという気にならないくらい日常茶飯事の光景だ。国は、この廃棄物を処理するのに、3年かかる、3年は、廃棄物を村のどこかで管理しておいてくれとお願いしてきた。それで村の何ヶ所かに、仮置き場がつくられている。でも3年の約束は反故になっちゃって、村長は責任を取って減給となった。そしたら次に国は、森林除染は現実的じゃないからやらないと言い出した。森林除染も、村長が30年かけて実現すると言っていたことだから、国にはしごを外されたかっこうだ。こんなことをしていたら、村長の給料はなくなってしまう。お気の毒である。

1601移転した倉庫去年の暮れ、これをもらいました。体育倉庫だった掘っ立て小屋です。

お国が言う通り、山の除染は効果がイマイチだし、山を壊して災害を起こす恐れだってある。それでも(ぼくは懐疑的だけど)除染によって不安を解消するのが現在の施策で、除染なんか必要ないだろうと思われる数値の低いところまで除染してきたのだから、たとえ効果がなくても「やらない」では不安は解消されない。ひとつひとつの決断は合理的だとしても、4年間の一連の動きはどれもこれも、なんだかなぁと思わせることばっかりだ。

賠償の問題も根深い。お金は人を変えるというけれど、元通りにできないことをされたのだから、お金で解決していただくのもいたしかたない。だけど、一銭ももらってない人、いくらかもらった人、うんともらった人、いまだにもらっている人、もうもらってない人といろいろいて(ぼくはいくらかはもらって、もうもらっていない)、それが賠償格差と呼ばれるものになっている。クルマを買ったり家を建てたりしたら原発成金にされてうらやましがられ、もらってない人の妬みになる。もうめんどくさい。

こんな状況だから、賠償はもう打ち切りでいいんじゃないかと思うんだけど、やらかしてしまったことに対しての落とし前をちゃんとつけているとも思えない。つくづく、原発事故というのは、やっちまったらおわり、なんだと思う。そして、誰も終わり方を考えていなかったという点で、そもそも最初っから破綻しているんだけど、それを言い出すと机をひっくり返さなければいけない。くやしいのは、原発事故や、原発自体の落とし前がどうなるのか、きちんとした結末を、ぼくらは見届けられないということだ。おそらく、それは今生きている誰にも見届けられない。

いまこの地にするぼくらにとって、そして村を出ていった人たち(特に移住者たち)にとって切実なのは、山の恵みを安心して(もしくはなにも気にしないで)食べられるかどうかだ。いろんな山菜にキノコ、イノシシなどなど。イノシシなんか、食べられない(中には食べても大丈夫だろうと思われる線量のやつもいる)もんだから誰もとらないもんで、じゃんじゃん繁殖してえらいことになっているし、山の幸が食べられないとなればこの土地の魅力や価値が暴落することになるのだけど、この価値のめべりには、なんの補償もない。キノコを商売にしていた人は、減収分を補償されるのだろうけど、だれかの山に入って自分の食べるキノコを採取するのを楽しみにしていた人たちの楽しみは、賠償されるような正当な行為ではなかったということだ。

原発事故で失ったものはなんだ?と、取材に来た人にはよく聞かれる。放射能被害もない、困っていることは特にないと言ったりするから、失ったものなどないと思われてるにちがいないけど、失わなかったものはなにもない、と答えている。たとえば5人いた友人が3人いなくなった。二人の友人と楽しく暮らせはするが、ぼくの前からいなくなった3人がいなくてもいいわけじゃない。ここの人たちはこの地で生き続ける。けれど、それぞれかけがえのないなにかを失い、失ったものの大きさを、まだまだ振り返り続けているまっただ中だ。

2016年、ぼくたちは、こんなどろどろでれでれしたところで暮らしている。それでもぼくがここを逃げ出さないのは、ここに住む人たちが、みんな楽しい人ばかりだからだ。この楽しさまで奪われたとしたら、何億もらったってがまんができないと思うけれど、原発の近くの人たちは、まさにそんな奪われ方をもしているわけだから、金が人を狂わせようとも、国は原発被災者にはじゃぶじゃぶ補償を続けるべきだと思う。それが、原発を建てちゃった国の責任であり、懺悔だと思うんだけど、そういうふうには進んでいかないんでしょうね、きっと。