雪は降ったって春は春。シーズンは開幕してます。えいえいおー

商業施設がやってくる?

2016よーたし看板

川内村にも、ようやく商業施設がオープンする。と思ったら、富岡にも大きな商業施設がオープンするというニュース。これで被災浜通りは復興を迎えるのか、はてさて。

原発事故でいったん村を離れた人たちは、その大半が今も村に帰ってこない。なぜかと問えば、その理由は大きくはこんなところだ。「放射能が怖い」「子どもの教育が不安」「病院がない」「買い物環境もない」。

あれもない、これもない、あるのは放射能ばかりなり、というのが戻ってこない人々の言い分だ。実は放射能はたいしたことないと判明したり、除染して線量を落としても、ダメな人はダメだ。これについて話し始めると終わらないので、ここでは追求しないことにする。ぼくのスタンスとしては(たいていの居住エリアは)放射能の健康被害なんてないけど、気分的にそこに住めない人がいておかしくない。だから帰れないなら帰ってなくていいけど、帰って住んでいる人の足は引っ張らないでほしいと思ってる。足を引っ張るのは、避難している当人じゃなくて、たいていその周辺であおり立ててる人立ちだったりするんですけどね。

放射能についてはめんどくさいが、わかりやすいのは商店だ。買い物するところがないから、村に帰れないという主張はわかりやすい。

村の商店事情については、前に書いたこと(お買い物狂奏曲)がある。これ、2012年の年末に書いているから、3年前のことだ。この頃、村に大規模な商業施設ができることはすでに決まっていた。それは、まもなくオープンするらしい。3年もかかって、お店がひとつもできないのだから、復興とは、なんと時間がかかることだろう。

この商業施設は、震災直後から取りざたされていた。仕入れルートを失った村の商店にとって、大規模施設とともに、仕入れルートが確保されるのはメリットもあった。商業施設には、村の商店に進出してもらって、村のみんなで復興しようというのが、当初のコンセプトだったように思う。

ところが村の商店は、これに誰も同調しなかった。見事なくらいだった。それで商売になるようだったら、とっくに自分ちの商売を再開してるわい、それができないのは、客がいないからだ、というのが商店主たちの主な主張だ。それに、彼らは自営業者であって、突然店子になるのもやなこっただし、共同出資などの冒険に出る勇気も金もない。

商業施設の主役たちがいなくなって、計画は頓挫したかに見えた。だけど、その頃には予算とか補助金とか、そういうのがしっかりできていて、もう前進あるのみになっちゃってた。スケールもなにもまるでちがうけど、太平洋戦争に突入する日本みたいなもんだ。ところが地元商店主は誰も参加していないから、素人による商業施設構築と相成った。素人から意外なアイデアが出てくることはよくあるけど、プロが誰もいない、というのもすごい。

そのあたりについて書いたのはこちら。「村は人也」。2014年4月に書いてるから、まえのやつからは1年たっていて、今から2年前くらいのことだけど、事情があんまり変わっていないというのがさびしいところだ。

村に戻ってこない人になにがほしいかを問えば、商業施設がほしいと答える。ならばと商業施設をつくろうとがんばった結果が、現在の混とんだ。これ、正しくは「店がなくて困りますか?」と聞いた結果のような気がするけど、お役所のやるアンケートというのはこんなものかもしれない。杞憂に終わればいいけど、でき上がった商業施設を、もろ手をあげて歓迎している人は少ない気がする。少なくとも、村に帰らない人にとっては、切り札にならないのではないか。

震災前、村の多くの人たちは、富岡の商業施設に出かけていた。村の商店ではちょっとした買い物はするけど、大きな店でまとめ買いが最近の人のトレンドだ。それにみんな、勤めも富岡のほうに出かけていることが多い。勤め帰りに買い物だから、効率もいい。

今、その勤め先がない。帰ってこない人たちにとっては、商業施設のほかに、昔と同じような勤務先がないのも大問題だ。それで村は企業誘致をしたり野菜工場を作ったり雇用を作ってきたけれど、それはかつての雇用環境に勝ったものかというと、そこまではいってない。買い物環境も、いまのところ、残念ながら、という結果になりそうな感じがする。

この商業施設については、福島民報をざっと検索したらこんな感じ。13年11月8日の記事には、2014年12月には開所したいと書いてある。

14年5月20日の記事でもその年の暮れに開業ということで変わっていないけど、事業費が倍になっている。総事業費4.5億だから、これまた小さい話だけど、なんだかオリンピックの競技場の話を思い出してしまう。

そして15年10月28日の記事では、開業が16年2月にずれ込みます、とのニュースが報じられている。工事を請け負った業者がとんずらしたとかで、なんともお気の毒だけれど、ねちねち調べたらなんか事情がありそうな気もする。ともかく、商業施設のオープンは、着々と遅れてしまっている。いろいろ残念なのである。

どうしたらよかったのか、と言われれば、どうようしもなかったのだと思う。たとえば村の真ん中にタカシマヤでもできたらすごいかもしれないし、いっそディズニーランドでもできればよかったかもしれない。こういうの、ぼくのでたらめな妄想だと思っていたけど、沖縄にディズニーランドを作ると日本政府が口走っちゃうんだから、まんざら川内村にディズニーランドもやってできないことはないかもしれない。いや、いらないですよ。お願いだからできないでね。

そうこうしているうち、富岡町でも商業施設の建設が発表された。2016年秋にはオープンするらしい(遅れる可能性もあると書いてあるから、きっと遅れるんだろうけど)。村人にとっては、いろいろと注釈つきではあるけど、これが望んでいた、震災前の暮らし(の、ほんのほんの一部)なんじゃないかと思うのだ。震災前に、もっとも頻繁に買い物に行っていた拠点が戻ってくるのだから。

ただその一方で、お店が復活すると、その帰りにちょっと寄り道をした喫茶店とか、たまに入っていたお好み焼き屋さんとか、そういう大切なオプションをことごとく失っているのをあらためて思い知らされて、悲しくなってしまうのかもしれないな。

それにしても、富岡の商業施設開設は、村の商業施設の将来を心配させる。ぼく個人的には、近所のお店と隣町の食品屋さんと、そのさらに隣町のスーパーでなんとかなっている(峠道を30分走る必要はあるけど、そこまでいけば、ケンタッキーフライドチキンだってドトールコーヒーだってツタヤだってある)。でも村の大半の人にとっては、買い物拠点は富岡だったから、そっちが復活したのち、村の商業施設にどれだけ存在価値が残るんだろう。

商業施設に限らず、ぼくにとっては必要とは思えない、ないほうが景観上よろしいと思えるものが次々に生まれつつある村の今日この頃。しかし10年、20年後の村を考えれば、あるいはそういうものが必要なのかもしれない。今、村がやっていることは、5年後がどうなっていくのかもわからないところで、過疎の村を再構築するお仕事だ。こりゃ、本当に至難だと思う。

これからどんなふうに進んでいくのだろう。村人による、地に足がついた村作りができればいいけど、そこんところが、ぼくのよけいな心配なのだった。

復興予算は総額26兆円にもなってるんだそうだ。この商業施設もその一部なのだろうけれど、思惑通りに復興の一助になることを期待されつつ、今、その商業施設は開店準備で忙しい。