菅原さんには、一時期たいへんお世話になった。お世話になったばかりでなんのお返しもできていないのは菅原さんに限らずぼくの致命的なところだ。ほんの一時期だったけど、今ぼくがやっているいろんなことのそこここに、菅原さんと遊んだいろんなことが息づいている気がする。
初めて会ったのは、1985年のパリ。翌年1月1日から始まるパリダカールラリーの取材をするんだとでかけていって、そこで出場者としての菅原さんに出会った。初対面なのに自然に出会い、仲良くしてもらってお世話になって、そして用事も言いつけられた。菅原さんの用事を手伝うのは、海外ラリーど初心者のぼくにとって、そのなんたるかをちょっとでも知るのにとっても意義があった。
1986年秋のファラオラリー(エジプト)には、取材に来ないかと誘われて、ポンコツのパジェロを走らせた。パジェロを借りるあたりをつけてくれたのも、もちろん菅原さんだった。取材中、菅原さんの手ほどきでラリー参加した参加者がオートバイに乗れない事態になったときは「おまえ、代わりにキャンプ地までバイクを運べ」と言われ、代行運転もやった。200kmか300kmのツーリングだった。
1986年パリダカはスズキDR600に乗って取材をした。たいへん貴重な経験だったけど、どえらくたいへんな取材だった。1987年パリダカはファラオで借りたパジェロを再び借りて取材した。砂漠の真ん中で車輪がはずれたりしたけど、これも楽しい取材だった。もちろん、借りる算段は菅原さんに相談した。いつもおんぶにだっこである。
1987年秋、三好礼子さんがラリーを走りたいというので、登竜門としてぜひファラオラリーにと勧めて、案内役としていっしょに参加することにした。マシンはホンダXR250だったが、ラリー用に仕立てる必要がある。礼子氏は忙しいので、2台のマシンを菅原さんのワークショップに持ち込んで、菅原さんの指導を仰ぎながら作りあげた。というか、菅原さんが作るのを「そのネジ緩めておけ」と手伝った、くらいがせいぜいだけど、これも楽しい時間だった。これをこんなふうにしなきゃいけないんだけど、どうしようというときの発想の柔らかさには感心させられたし、それは自分のラリーマシンを作るときと同じやり方なんだろうと思って、わくわくした。
1988年パリダカールラリー。これがぼくの最後のラリー取材になった。たった3年間で、日本とパリダカの関係はずいぶん変わって、情報伝達が密になった。はるばるアフリカまで出かけて、砂まみれになって写真を撮るより、事務所で情報をかき集めたほうがレースの流れがよくわかる、そんな時代になりつつある、その先がけだった。ラリーで生き残るには、情報網の駒になるか、ラリーのスペシャリストになるか、そのどちらかが求められた。物見遊山で取材をしていたぼくは、スペシャリストになるのをあきらめて、また砂漠に行きたいなぁと思いつつ、暮らしている。
しまった。すっかり自分の話になってしまった。ここにあるのは、その菅原さんのモータースポーツ半生を著した「78歳ラリードライバー」という本だ。新紀元社刊。
正直なところ、前半は読むのがちょっとしんどかった。校閲ができてないんじゃないかというところも何ヶ所かあったし。菅原さんの話はもっとおもしろいはずだから、もったいないなぁ、なんて思いながら読んでいた。
でも、ぼくが知らない、トラックラリー界の雄としての菅原さんの部になったら、突然うきうき読めるようになった。ぼくにとって未知の菅原さんを読まされているからなのか、ゴーストライターが(いるとしたら)別の人になったのか、書いている菅原さんが、昔々のことよりも最近の話題の方が語りたい内容だからなのか、なんにしても、たいへんおもしろかった。
そうそう、菅原さんはぼくらがお手伝いをしていた雑誌屋さんのリクリエーショントライアル大会にも来てくれた。大雨で道が通行止めになって、予定の時間には誰も現れないというひどい状況だったけど、菅原さんだけはそこにいた。「どうやって来たんですか?」とびっくりして問うと、菅原さんはお答えになったもんだ。「おれを誰だと思ってんだ」って。ちょっと北海道なまりの菅原さん弁。おそれいりました、というしかない。
この本には、菅原さんがトライアルライディングをして、富士山山頂まで足を着かずに登ったなんて武勇伝も書かれているけど(そういう時代だったのだ。なんてやつだ、なんて思ってはいけません)、写真はJMMに来てくれた菅原さん。同じチームに、長谷見昌弘さんや 浅賀敏則さんもいて、なぜかうちの長女(芙海ではない)もいる。
菅原さんの魅力は、本当は実物のほうがより大きいのだけど、お忙しい人だし日本にいないことも多いから、まず、この本を読んでみてください。この本にも、ずいぶんたくさんの菅原さんの魅力が、つまっている。