2年分ぶりに、福島第一原発を見学してきた。今回は、初めて経験させてもらえることもあって、興味深かった。だらだら長くなってしまったけど、原発廃…
あいからわず、当地は寒いです。世間は雪が降ってたいへん、ということなのだけど、こちら、ほとんど雪は降ってません。一応白いんだけど、積雪量1c…
桜を見に行ってきました。お祭り関係は中止になっているけど、クルマを止めるところもあって、お散歩にはちょうどいいコースとなっていました。
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先日、福島第一と福島第二原発の視察というか見学にでかけた。そのとき、いっしょに原発に入った仲間に、根本聡一郎さんがいた。この本の著者だ。
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村のみんながビッグパレットに避難したというのはその日のうちに連絡があって、ぼくらにも伝わってきた。みんながいるのなら、一度行ってみるかと、な…
村長が防災無線で避難を呼びかけたのは15日の夜のことだった。富岡の人も含めてみんなで村を出ることにしたのが16日の午前中だった。
ぼく…
川内村が富岡町の避難を受け入れたのは、結局ほんの3日か4日でしかなかった。その後、川内村と富岡町は一心同体みたいにして郡山に避難することにな…
集会所の入口には、一枚板で作った机があって、ちょっとお休みができるようになっている。村人的には、あんまりここで休んだりする人はいないのだけど…
なかなか話が進まないのだけど、撮った写真をできるだけお見せしちゃいたくいので、まだ震災当初から進めません。すいません。
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3月12日の夜。富岡のみんながうちの集会所にやってきた最初の晩の写真が、これだ。
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大きな揺れから、一晩がすぎ、二晩がすぎた。ぼくたちには、少なくてもぼくには、まだ余裕があった。村の中では、原発があぶないと言って遠くへ逃げ始…
富岡(だけではないのだけど、あのときの避難は浜から西に平行移動してきたから、川内村に上がってきた人のほとんどは富岡町からの人だった)から避難…
3月12日、たぶん午後1時過ぎ、2時近くだったと思う。これが、富岡の人がうちの集会所にやってきた、最初のお食事風景だった。
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震災の夜は、なにごともなくすぎた。余震は次から次へとあったけど、あんな揺れはもうなかった。いつもと同じくビールが飲めるくらいには日常のままだ…
2011年3月11日。あの日、地球最後の日かなと思ったのが、この吹雪だった。その数日後に降った雪は、大気に吹き上げられた放射性物質を含んでい…
川内村では、停電の被害はほとんどなかった。ただし電話通信網はどーんととだえたまま、だいたい1ヶ月くらいは電話が通じないままだった。
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富岡町の人を中心に、浜に住む人が続々と川内村に避難してきたのは、震災の翌日、3月12日の昼過ぎからだった。富岡に近い村の中心の避難所は早々に…
地震があった時は、その週末に全日本選手権の開幕戦があるので、その取材の準備をしていた。午前中には、確か中学校の卒業式が執り行われていた。
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3月16日、川内村を出て途中、わけあって西郷村の大きな釣り堀に寄り道をして、白河市役所に出向き、放射線値のスクリーニングを受け、各方面から届…
避難前の記憶は、この日が最後になる。3月16日。ぼくらは村を出ることになった。
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3月15日
この2枚は、14日午後にやった地域と避難者のミーティングと、翌日15日午前に富岡町の人がやってきたミーティング。
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2011年3月14日
お昼に、富岡の課長さんだかなんだかがやってくる。
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13日12時の集会所。区長と副区長(当時)が新聞を読んでいる。この新聞は、富岡の人に頼まれて、役場まで身寄りの所在を確認しにいったとき、役場…
東日本大震災の当日は、夕方になって働きに出ていたみんながわさわさと帰ってきた。最初に帰ってきたMちゃんは、途中大きな岩が道に落ちていて、軽自…
今日は3月11日。8年前に大震災のあった日です。
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福島県の昨日のビッグニュースは、東電が福島第二原発の廃炉を表明したことだった。福島県が原発ゼロになるのは福島県民の悲願だったとのことなので、…
原発見学に行ってきた。
うちから25km弱のところにある二つの原子力発電所施設。でもそこは、なかなか見に行ったりすることができないとこ…
2017年お正月。昼間、のんびり帰ってきたので、久しぶりに富岡のあたりを見てみようと思った。
震災5年を過ぎて、ようやく富岡も復興の動きが…
青森県の六ケ所村とむつ市へ出かけて、日本原燃の再処理施設とリサイクル燃料貯蔵センターを見物して、六ケ所村の人たちとお話しをするという勉強会に…
2016年もすっかり暮れようとしています(といって書き始めたけど、書き終わる頃には年明けになってしまうかもしれません)。2011年の原発事故…
川内村にも、ようやく商業施設がオープンする。と思ったら、富岡にも大きな商業施設がオープンするというニュース。これで被災浜通りは復興を迎えるの…
「生きてるのか」と時々メールで生存を確認されたりする。ここの日記をさぼると、死んじゃったのかもしれないと思われるらしい。姿が見えなく…
イノシシをいただきました。当地にはやまほどのイノシシが徘徊していますが、彼らは少なからずというか少々というか、体内に放射性セシウムを蓄えて…
東北の山奥、なかなか春がこない寒村でも、少し暖かい日が続いて、なんとなく春らしい日になった。いや、ゆだんしちゃだめ。このあともう一度か二度、…
そろそろ四月ばかのネタを考えないといけない季節だなぁと思っていたら、その前に3月11日がやってきた。
おそらく今日は新聞やテレビがこぞ…
新年、あけましておめでとうですが、まるで新年らしくなく、朝から荷物が届きました。ヤフオクで衝動買いしてしまった旭光学のスーパータクマー50m…
原発の廃炉が進んでいる、と報道は言う。等身大の第一原発を作ってメルトダウンした燃料を取り出し方の研究も始まるらしい。うまくい…
6月から、川内村では復興地域振興券というのを配っている。旧緊急時避難準備区域の住民で、村に帰還をした人、新たに住みはじめた人…
久人さんが亡くなった。
久人さんは酪農家だった。ただの酪農家ではない。いまや福島県双葉郡で就農している、ただひとりの酪…
原発事故から3年過ぎて、またエープリルフールを迎えた。昔、久米宏さんの番組に高円宮憲仁親王が出演されて、その日はたまたま4月…
2013年型のうちのうさぎ
ぼくらの住む川内村から北へ20kmほどいくと、浪江町にはいります。浪江町は北西方向に長く延びていて…
あの震災以降、政府のいうことが信じられないとか、報道機関は本当のことを伝えないとか、たいへん残念な風潮になってきている。ある意味、自…
冬っぽい景色になってきたうちの前。ここは1年半前に除染を終えて今はもとの草ぼうぼうになっている
原発事故から2年半、村の帰…
ご存知の方はご存知の、ぶっ壊れた原発が見える丘。ここにはWEBカメラがあって、高倍率で原発の今を見ることができます。今は少し…
秋のお祭りのとき、もんもちプロジェクトの面々が大挙して我が集落にやってきた。彼らとは、もう4年越しの濃ゆいおつきあいが続いて…
千翁川にて岩に乗ってほくほくの高野先生と、左の方で妙に楽しそうな稲葉くん
自由大学のみんなが帰って、濃ゆい夏が終わったとい…
川内村自由大学の二時限目は、できたばっかりのピザ窯でピザを焼き、村人と交流して対話を交わすというカリキュラムだった。ランディ…
2013年9月11日。震災から2年半を迎えました。2年半ということに、個人的には特別の感傷はないのだけれど、2年半前のこの日…
乳牛用の草を刈る。しかしお隣の草地から100Bq/kgを少し上回るセシウムが検出されたため、この草もまた牛には食べさせられない。牛乳…
富岡漁港で水を汲んできました。
震災1年目くらいに、有害化学物質削減ネットワークというNPO団体のご協力で、行政が測っ…
富岡へ行ってきました。現在の富岡は、区域再編が行われて、大半のエリアは立ち入りが自由になっている。許可証もなしで入っていける…
2013年3月10日の福島第一原発。西方13km地点より。こちらで大きな画像も見られます。5号機6号機も見えてます。
東日…
オートバイに限らずだけど、ひとりでやる作業は、どんなものでも孤独です。でも特に、オートバイは原則として一人で乗るものだし、原…
WBCって、ワールドベースボールクラシックではありません。ホールボディカウンター(以下、WBCと表記します)です。聞いたこと…
2010年に開店したときの直売所、あれ・これ市場。地元のおいしい農作物が並んでいた。
村には、数軒のお店があった。昔々…
警戒区域でけなげに育っていた山羊さん
4月1日は、川内村の解禁日でした。朝はいいお天気で、ちょっとあったかかった。昼過ぎに雲が…
放射能講演会みたいなのをやるってんで、いってきました。正直なところ、こう言うのに出席しても、びっくりするような新しい知識が得…
郡山ビッグパレット福島の川内村災害対策本部前にて。遠藤雄幸村長。
川内村遠藤雄幸村長に聞く
7月になろうかというとあ…