前回までのあらすじ
川内村高田島に由緒正しき神社がある。そしてここに、いわくありの彫り物がある。片面は国宝級、片面はう(ど)んこをこねたようなもの。そのコントラストが激しすぎる。それで、う(ど)んこのほうの彫り物を作り直してもらうことになった。材料の木を近所から切り出して、いよいよ掘ってもらう段取りに……。
実は、彫り物をお願いするのは、大阪の木彫り屋さんだ。岸和田のご出身で、だんじり祭りの山車に乗られた経験あり。現在は、山車の飾りつけの木彫りがお仕事だ。
材料となる欅の木は、岸和田の周辺ではすごく高いものらしい。いいものしか出回らないのかもしれないけれど、欅が高級木材であることには変わりない。今回はM氏が数年前に切った欅を出してくれたので、地元の木に彫っていただけることになった。
さて、木を用意したのはいいが、大阪までどうやって運ぼう。Yさんこと木彫山本の山本さんははるばる大阪から神社を見にやってきてくれた。そしたらこっちも、一度山本さんの工房を拝見したいものじゃないかということになった。いや送った方が確実で手間がないんじゃないかという意見もあったのだけど、決断はめんどくさい方に振った方が、思い出はたいてい深い。いやもう、思い出づくりなんかしているトシのみんなではないんだけど、そんなこんなで、冬のある日、ぼくらは大阪に向けて高田島を出発した。
人と材料を積み込んで、定員いっぱい乗ると、上り坂では明らかに遅い。でも遅いだけで上らないわけじゃないので問題なしだ。運転手はいっぱいいるから、大阪まで10時間かかるといっても、ひとりあたりにすると2時間かそこら運転すればいいことになる。
猪苗代のあたりで道端に雪を見て、日本海沿いの北陸道でひどい雨に降られ(そう言えば、この日は全国的にお天気が荒れ模様で、けっこうな被害が出た地域もあった)と思えばどかんと晴れたりしながら、大事な木をお運びする部隊は着々と西へ進んだ。
木彫山本は、貝塚市にあって、だんじりの岸和田とは隣町になる。住所を頼りにたどりついた工房は、清楚な住宅地にあった。ときおりノミの音は響くけれど、いわゆる大工さんの作業場よりは静かだから、マンションの一室はおおげさにしても、場所を選ばずにできるお仕事なのかもしれない。
親方とお弟子さんがお二人。お弟子さんの一人は女性の方だった。女性の方は木のかたまりにノミをあてていて、男性のお弟子さんはもう完成間近とおぼしき彫り物をていねいに仕上げているように見えた。
かたわらには、刃物屋さんかというほどにノミや彫刻刀が並べられている。どうやって使い分けるのかはわからないけど、それが職人の道具というやつなんだろう。
男性のお弟子さんの方は8年目になり、女性のお弟子さんは3年目だそうで、だいたい10年ほどで独立していくんだそうだ。独立すれば、彼らにも仕事を回さなければいけないから、親方もそれなりにたいへんだという。
持ってきた板を渡して、建物の寸法をもう一度正確にお伝えし、行政区から預かってきた手付金をお渡しする。それらの重要なミッションはすべて作業場の軒先で行なわれ、ぼくらはその間、彫り物をとくと、とくと拝見したのだった。
いくら見ても穴は開かなかったが、穴の開く勢いで見ていると、目の先のお侍さんは顔だけまだ彫られていないのだと教えてもらった。確かに、顔は仕上げが雑だ。でもこちら、その場の空気に圧倒されているので、これで完成ですといわれればさすがの仕上げですと返事してしまいそうだ。しかしまだ未完成。お侍さんは、それぞれ名のある武将さまなので、それぞれの風貌に仕上げる必要がある。それはお師匠さまのお仕事なんだそうだ。
お届けした板は、ケヤキの一枚板で、この種の彫り物をする際の材としては欠かせない木種なのだが、本来はそのケヤキの中でも腐るべきところを腐らせた、気合いの入ったところだけを使って彫刻にするんだそうだ。で、そういった材料は、彫り代よりを上回るくらいに高価なものとなるらしい。このケヤキは、Mちゃんちの裏山から切り出したもの。神社とは目と鼻の距離にあった。太く高く成長していく年月の間、ケヤキと神社は気持ちのやり取りをしていたにちがいない。そういう大事なケヤキだから、もしかすると材料としては劣るかもしれないけれど、ぜひこれでお願いしますと、お願いしてきたわけなのだった。
いやもちろん、高い材料を買う金はないのだ。されど、本音と建前ってものでもない。金がないのも本音ならば、地元の木を使いたいかという気持ちも本音だ。うそも方便や、二枚舌のみなさんといっしょにしてはいけない。
さて、ミッションは完了した。これから我々は、大阪の夜を満喫しに出かける予定だ。宿は貝塚市から30分ほどの旅館で、大部屋にみんなで泊まる。クルマを置いて荷物を置いて、さぁ出かけよう、道頓堀か、食い道楽かと算段していると、遠くまで出かけるのがおっくうだというご意見あり。
田舎での暮らしは、自分の足で歩くチャンスが意外に少ない。もちろん、ストイックに歩いたり走ったりする人もいるけれど、仕事だからタンボを耕したり重たい米袋を担いでいたという人は、機械がやってくれるようになったらそれきりになってしまう。そのうえ、都会のめまぐるしくてあわただしい動きには目がついていかない。肉体的、そして文化的に、疲れが出ちゃうんである。
せっかく大阪に来たんだから、食い倒れツアーに出かけないと日記に書けないでしょう、とは思ったけど、いやでも、報告書を書くための無理やりはたいていいい結果を生まない。宿のおばさんに、近所でいいところはないかいね、と聞いてみる。
おばちゃん、親切に電話かけたりしてくれた結果、5分ばかり歩いたところにある安い安い居酒屋を紹介してくれた。おつまみ、なんでも100円らしい。
行ってみた。ちっちゃなお店で、ぼくらは全員いっしょには座れず、4人くらいずつ二つの席に座って、まず生ビールで乾杯し、壁にかかっているおつまみを片っ端から頼んだ。どれも安くて大喜びだ。魚屋のTさんは、出てくる料理をひとつひとつ原価計算をして、感心したりもう少しだ、などと感想を語り、味付けについてもフムフムと品定めをしていた。そんな一方で、ひたすら楽しそうに酒を飲む一行がいる。酒を飲むのが人生の唯一の楽しみだと豪語してはばからない人は、飲んでいる相手も幸せにしてくれる。
腹もくちて、酒を飲んだので、これで宿に帰ってぐっすり寝て、明日我が村に帰れば、それでミッションは完璧に完了する。しかし酒を飲んで気が大きくなったMちゃんが、寿司をおごると言い出した。もう胃袋に寿司が入る余地はあんまり残されていないけど、気持ちは尊重しなければいけない。店を出て、何軒か先の寿司屋に入った。
寿司屋の名前が気に入ったという。その寿司屋は、泊まる宿と同じ名前だった。なので親戚かなんかだと思ったらしいMちゃんだった。でも真相は、宿も寿司屋も、町の名前を屋号にしていただけだった。東京寿司と東京旅館てなもんだ。酔っ払いの選択眼はそういうものだ。
件のお寿司屋さんは、もう閉めようかという感じで、ネタも冷蔵庫に片づけられていた。さぁそこから、おなかの具合を鑑みながら、ちょっと遠慮がちに、いや、そうでもなかったな、サカナを頼み、握りを頼み、酒を頼んだ。
そしたらなんだ、Mさん(Mちゃんとは別人)が寿司屋のおくさまと同級生だということが判明して、つい握手したり抱きあったりしちゃって、ついにMさんの十八番の唄が出た。おくさまがMさんと同級生なら、旦那さまはいくつかと問えば、80歳を超えていらした。達者だ。達者な旦那さま、おくさまを奪われて焼きもちを焼いたかと思いきや、だんだん興に乗ってきて、包丁を片手に踊り出した。大阪、すばらしい。
すっかり楽しい夜を過ごして、ところが店を出た途端、Mさんが歩けない。Mさん、村を出たところから酒を飲み続けていて、ここへきてさすがにダウンなさった模様だ。肩を貸し、そして宿へ着いたら最後はひきずって部屋まで運ぶ羽目になった。こうして、神社に奉納する彫り物にするケヤキ材をお届けするという神聖なミッションは完了したのだった。
翌日の帰りの道中は、いたって平和だった。運転を変わる際の連絡が悪くて、燃料がなくなりかけて青くなったというようなささいな出来事があったのみ。なぜ平和だったかといえば、Mさんが二日酔いで、道中すっかりおとなしかったからだ。
こうして、神聖な神がかった1泊2日のミッションは完了したのであった。
そして2年後の続きはこちら
https://www.shizenyama.com/nishimaki/aboutkawauchi/24526
お話の最初はこちら
https://www.shizenyama.com/nishimaki/aboutkawauchi/14586