雪は降ったって春は春。シーズンは開幕してます。えいえいおー

原子力処理を考えに行ってみた

青森県の六ケ所村とむつ市へ出かけて、日本原燃の再処理施設とリサイクル燃料貯蔵センターを見物して、六ケ所村の人たちとお話しをするという勉強会に参加してきた。

この件はたいへんに複雑で、なにかをまとめるなんてことはできないのだけど、むずかしいから先送りにしているとどんどん忘れていくので、書き残しておきます。

1701縄文友の会バス我々は、縄文友の会のメンバーらしい。勉強をする気があれば、誰でもこういう機会が与えられる。何度も川内村に来てくれた経産省の小神さんが同行で、中で手を振っている。

モータースポーツの現場にいると、たいていの場合、ぼくは原子力政策について詳しい部類に入る。なんたってぼくの家から25km先にはぶっ壊れた原子力発電所(元)があって、今も溶け落ちた使用済み燃料が熱崩壊を続けている(と思う。たぶんそうだろうけど、確認のしようがない)。必然的に、最低限の知識は身についてくる。

でも世の中には、こういうことについて、もっとしっかり勉強する人とかがいて、そんな中にあって、ぼくは素人同然だった。素人だからいけない、ということはないのだけど、いっしょに行くメンバーのプロフィールを見て、最初に思ったところがそれだった。

六ケ所村とむつ市は下北半島にある。下北半島には行ったことがなかった。そういえば昔々、南部縦貫鉄道のレールバスを見に、野辺地駅に降り立ったことはあるけれど、そこから先に立ち入ったことはない。

1701田口ランディとイス縄文友の会の会長は田口ランディさん。廃炉にした東海原発の廃棄物の中で、放射能のない(あるいはごく少ない)物質を再利用して作ったベンチに座っている。

今回は東北新幹線を七戸十和田という駅で降り、弘前から来る人たちを野辺地駅に出迎え、まず六ケ所村へ向かった。道中はなかなかの吹雪で、バスものろのろ運転だった。前が見えない。それでも積雪はそんなでもなかった。おりから大寒波が来ているということで、参加者は長崎や広島や京都や神奈川から来ていて、みんな寒がっていた。弘前からの二人も寒がっていた。ぼくはそんなに寒いと思えなかった。川内村の高田島地区が(おまえの家だけじゃないかといわれるかもしれない)いかに寒いかということかもしれない。

六ケ所村は再処理施設のPRセンターで説明をしてもらった。再処理施設そのものの見学はできなかったのだけど、再処理はまだ始まっていないから、動いている模型を見たほうがわかりやすいかもしれない。

1701再処理工場のキャラ再処理工場のキャラクター。コルゲンコーワみたいだけど、ちょっとかわいげがない。

再処理工場は、国策となった原子燃料サイクルに必要な施設で、使い古した燃料のゴミから別の燃料を作り出すんだから、夢のような施設なのだけど、なんせ扱うものが使用済み核燃料だから、処理もるんるんではないし、その多少はともかく、放射性物質の放出などもある。ところがそれ以前に、ここで作った燃料を使うはずの期待の星だった高速増殖炉のもんじゅは廃炉が決まっちゃって、次なる燃料消費のアテであるプルサーマルも、どうもうまく進んでいない。ちょっとはしごを外された感もないではない。

原子力政策についてノンポリのぼくが、初めて出会った原発問題が、川内村で見た「六ケ所村ラプソディ」だった。原発立地ではないけれど原発によって生活を支えられている側面が多い川内村でこんな映画を見る観賞会ができたのはすごいなと思いながら観賞会に出かけていったのは覚えている。そこには、今は岡山県に帰って県会議員となった大塚愛さんの人柄や、映画鑑賞と原発反対賛成の意見を関連づけてはいけないという運営側の考え方が、村人にもある程度受け入れられたからだったかもしれない。

そんな映画で得た知識からすると、再処理工場はおそろしいもので、六ケ所村は工場を推進したい権力によって潤っているという印象だった。巷では、六ケ所村の村民は平均年収が1300万円あって、再処理工場のおかけでみんなうはうは、温泉施設はあるし金の力は恐ろしい、なんて言われている。

1701PRセンターから海を見る六ケ所村再処理施設のPRセンターから海を見る。右側に再処理施設が見える。写真撮ってもいいらしいけど、もう暗くて、ガラスがじゃまで、きれいに撮れなかったから、正面の海を望む。

平均年収については、事業収入やなにやらをひっくるめて計算しているらしい。日本のGDPが上がろうとも、ぼくらの暮らしぶりがよくなることは(たいてい)ないように、六ヶ所の村人の暮らしも、そんなものなのだろうと思う。えてして、反対運動は都合のいい数字を最大限に利用しようとして、ときどき(けっこう多々あるような気もする)まちがっちゃったりする。まちがいは誰にでもあるけれど、まちがえられたほうが傷ついたりめんどくさいことになったりする現実がある。確信犯だったらもっと悲しい。

それでもぼくの薄っぺらな感想としては、再処理施設は発電所そのものよりはリスクは少ないのではないかと思った。説明の中で印象的だったのは、使用済み燃料からどうにもならないゴミとウランとプルトニウムを仕分けして、製品(燃料)を作ることなんだけど、一度仕分けしたプルトニウムには、最後にウランを混ぜて、混合酸化燃料とするというところだった。これは日米原子力協定によって、プルトニウムを単体で持たないという約束があるからだという。プルトニウムを単体で持っているということは、核兵器の製造のこんたんがあるという意思になってしまうからなんだろうけど、世界協定ではなく、日米の規定なんだね。日本の原子力政策はアメリカの思うまま、という感じは否めない。

1701六ケ所村PRセンター愛想を振りまいているのは、弘前のエッセイスト、山田スイッチさん。縄文友の会の副会長。入会自由で脱会不可能、らしい。

六ケ所村からむつ市に移動して、宿泊先のホテルで六ケ所村のみなさんとお話をして、食事をした。村の皆さんは異口同音に、再処理施設は安全だと確信する、事故は起きない、これは日本のためにやっている事業なのだ、ということを、胸を張って発言されていた。発言を受けるこちら側には原発反対の立場の人が多いので、村人に対して受け入れに後悔や反省はないか、という質問が(みんな、一生懸命気をつかって質問していたけど、内容はそういうことだった)投げ掛けられた。

はたして、うちの地元である双葉郡の市町村の住民がそういう投げ掛けを受けたらどんな気分だろうと思った。気分がよかろうが悪かろうが、正義は正義だという考え方もある。ぼくは主義主張として原子力利用は人類が手を出すべきではなかったと思っているのだけど(人間が使ってよい原子力エネルギーは、1億5千万キロ先にある太陽だけでいい)、科学として原子力を研究するのは相当におもしろいと思う。そして実験をしたくなる科学者魂も理解できる。でもそこに経済や国家がくっつくと、とたんにあぶない感じになると思っているんだけど、エネルギーを調達しなければいけないのも国家の仕事だし、国家として作ったエネルギーの後始末をしなければいけないというのも、理解はできるし、福島県浜通りはそうやって原発を受け入れてきて、日本の高度成長を支えてきたと自信を持ってきた。そこを問い詰められて反省する気はないかと言われると、きっとつらい。

福島の事故を見ても、考えをあらためる気はないのか、という発言もあった。ぼくはつい言ってしまった。うちはイチエフから25kmの距離にあって、イチエフはもう動かないし、ニエフも動かないと思う。でももし、今回の事故が福島でなく別のところであったら、おそらく村人は原発をやめようとは言わないと思うし、その判断を強く諌めることはできない。それほど、原発と生活は密接しているのだと思うから。世間からはうんと潤ったように思われているが、それは日本全体の成長に比例した感じにほぼ等しいのではないか、出稼ぎが必須だった村人が、1年中家族といっしょにいられる、そのささやかな幸せを、なぜ求めてはいけないのか、という六ケ所村の方の訴えは、けっこう響くものがあった。

それでもぼくは原子力政策に賛成できない。賛成反対なんてかっこいい話ではなくて、生理的にいやだ。最後に一人ずつ意見を求められたので、こう言った。福島の事故は奇跡的に軽かったのか、あるいは絶望的にひどかったのかはわからないけれど、原子炉の中はともかく、ぼくらの住んでるところでは、放射線量が高いキノコやイノシシ肉を含めて、そんなに危険はないと思っている。ぼくが生きている間に、次の原子力災害(小さい事故はあるだろうけれど)は起きないと思う。その点、原子力は危険でリスクが高いとおっゃるほかの参加者とは意見が異なる。でも原子力に賛成できない。ここまで進めてしまった原子力政策をもし収束させるなら、それはそれで大きくむずかしい問題が多々あるだろうと(実際にはもっとたどたどしくお話ししました)。

1701むつ市の朝一夜明けて、ホテルから外を見てみました、というだけの絵です

翌朝、今度は中間貯蔵センターを見学した。ここもまだ運用が始まっていない。東京電力と日本原子力発電の共同出資で作った会社で、この両者の原発から出る使用済み核燃料を最大50年間保管する倉庫業者ってわけだ。働いている人も、ほとんど東電からの出向の人みたいだった。10トンの使用済み燃料を120トンの容器に入れて、保存する。最終的には5000トンの燃料を貯蔵できる施設らしい。

キャスクといわれる容器は厳重で、放射能も漏れなければこわれることもない(航空機が衝突した際の想定実験はしているらしい)。使用済み燃料の熱崩壊によって、さわるとじんわりあったかいらしい。120トンのキャスクを受け入れるのは困るけど、30キロくらいの携帯キャスクがあったら、暖房に持っててもいいかなと思ったけど、夏でも持ってなければいけないから、やっぱりひとところに保管してもらったほうがいい(そんなものを個人が保管してたら、あぶない国家になっちゃう)。

施設の説明では、建設の発端が原子炉等規制法の一部改正で使用済み燃料を原発以外で保管できることで(2000年6月)、その半年後(2000年11月)にむつ市が東京電力に立地のための調査を依頼したとなっている。でも法律が変わったのをかぎつけていきなりむつ市が手を上げたとは思えないから、そこに至るまでの根回しがあったのだろうと思う。むつ市が調査を依頼する前に、立地の公募があったと思うんだけど、その点が抜けているのはなぜだろうな。

1701貯蔵施設看板写真が撮れるのは、このビジターセンターのあたりだけでございました

貯蔵施設は、身分を明らかにして入場した。撮影は一部を除いて厳禁だった。原子力施設とは、なんと守られるべき存在なのか。その一方で、ここではキャスクを倉庫床面にボルト固定しているのだが、アメリカではボルト固定なんかしないで、そのままそのへんに並べているんですよね、というシナリオにないことも教えてもらった。

百歩譲って、原発は他の方法で発電ができれば必要がなくなる。核燃料サイクルをあきらめちゃうと、再処理工場もいらなくなる。でも、使用済み燃料の長期保管は避けては通れない。本当に必要なのは高線量を発する使用済み燃料を長期(何万年)保管する地層処分施設なのだが、それは建設も立地もぜんぜん決まっていない。そうこうしているうちに使用済み燃料は各地の原子炉建屋のプールの中でいっぱいになってしまうので、こういう中間貯蔵施設も(必要悪として)絶対に必要なものだと思われる。もちろん地層処分施設も絶対に必要で、その建設を前提に受け入れを引き受けた六ケ所村も、

もし原発を今全部やめたとしても、これまでに使った2万トンほどの使用済み燃料を捨てちゃうわけにはいかないから、こういう施設は必要になる。まったく、原子力とは、いろいろめんどくさいものだ。

ぼくの疑問は、ルールにのっとって考えるという当然のアクションは、基盤となるルールにまちがいがあると、どんどんまちがいが加速していくのではないかということなんだけど、そこを指摘して修正していくのは、とてもとてもむずかしい。