雪は降ったって春は春。シーズンは開幕してます。えいえいおー

旧友より沙汰あり

07森の葉っぱ

 奥村裕(敬称略)から、電話がかかってきた。阿部さんについて書いた日記を読んでくれたらしい。
 奥村は、その昔々、今は亡き高井幾次郎率いる名古屋のプレイメイトレーシングの秘蔵っ子で、幾さんに育てられた世代の中では末っ子の部類に属する。そして、オクが走り始めた頃、サーキットに通いはじめたぺーぺーカメラマンが、ぼくだった。撮影するほうと走るほうと、お互いに駆け出しだった。


 その頃のぼくは少しマメだったから、ライダーにパネルをあげたりしていたのだけど、先輩ライダーがそんなパネルをもらうのを見て「いつかおれももらってやる」と思ったという話は、ずいぶんあとになってから聞いた。うかうかしている間に写真を撮らせることがお仕事のプロフェショナルライダーになっちゃったけど、一時期、そういうふうに思ってくれたというのは、感慨深い。人は、どこでなんの役に立っているか、わかんないね。
 電話の主な内容は「おまえはいったいどこでなにをしておるのだ」という近況についての事情聴取と「近々遊びに来い、飲みにこい、モトクロスもやろう」というお誘いと、そうそう、この前ので耐の話だった。ぼくらは土曜日のレースに出向き、日曜日にオクが出場することになっていたから、パドックで探したんだけど発見できなかった。そしたら彼はドタキャンしていたのだった。「世界チャンピオン原田哲也がわざわざモナコからこのレースのために飛んできたというのに、誘ってもらいながらドタキャンになっちゃった」と恐縮していたけど、ぼくには恐縮される義理はなかった。
 で、阿部さんの話。オクは、お棺の阿部さんに会ってきたそうだ。
 オクの周囲では、というかレース界では、これまでいろんなひとが亡くなっている。師匠の高井さんをはじめ、オクは、事故で亡くなった人をこれまでたくさん見送ってきた。でもそういう人たちは、顔を見ると最後にサーキットを走っていたままで、みんな今にも起きてきそうだったという。さっきまで笑顔でパドックを歩いていた人が、突然向こうの世界に行ってしまうのが、事故というものだ。
 阿部さんはちがった。予定通りというか、結末が見えていたし、やっぱりやつれていて、パドックを闊歩していた当時の阿部さんとはちがっていたから、阿部さんの死をきっちり納得できた、明るいお別れだったよと、オクは電話の向こうで語ってくれた。その裏には、納得できない仲間の事故死への思いがあったんじゃないか。これまで何人もの友人たちを見送ったくやしさが、そこにこめられている気がした。

0707森の幹

 オクは、大事なレースで転倒して骨を折ったりすることがよくあった。たいてい名古屋の病院に入院したから、鈴鹿のレースの帰りに煮干しと牛乳を持って見舞いにいったことがあったっけ。骨折、多すぎるんじゃないか、なにかまちがってるんじゃないかと詰問したら、あんなスピードでひっくり返ってガードレールにぶつかったら、骨だって折れるさと反論された。あんなスピードで走れない素人は、黙るしかない。
 オクは、レーシングライダーを引退したあと、しばらくホンダのワークスマシンを借り受けて、レーシングチームを運営していた。でも、プライベートチームがメーカーのチームの向こうを張って好成績を出し、なおかつチームを経済的に運用していくのは、たいへんにむずかしい。その過程で、彼はサスペンションチューニングの事業をはじめた。最初はレース屋さん向けだったけど、今はツーリングライダーがお客さんだ。ふつうのライダーだって、いいサスペンション、自分に合ったサスペンションで、気持ちよく走りたい。気持ちよく走れれば、オートバイはもっとおもしろい。
 今、オクは実業家としてもなかなか成功しているのだけど、レーシングライダーとして苦労しながら一時代を築いた人は、みんな自らの運命を切り開くパワーを秘めいるのだと思う。と同時に、レースで得たノウハウを、レース界の中だけにとどめず、広い世界に向けて発信した機転は素晴らしかった。こんなときだけ、友人として誇りに思わせてちょうだい。ふがいない友人より……。
*写真は例によって奥村選手とはまったく関係なく、福島のぼくんちの裏山を散歩していてのスナップ。木漏れ日が気持ちいいなぁと思うと同時に、ここでイノシシに襲われたりして倒れたりしたら、発見されるのはいつになるだろうと心配になったりもして。