雪は降ったって春は春。シーズンは開幕してます。えいえいおー

お買い物狂想曲

あれこれ市場

2010年に開店したときの直売所、あれ・これ市場。地元のおいしい農作物が並んでいた。

村には、数軒のお店があった。昔々は映画館まであったという村だから、ありとあらゆる商店があったのだと思う。薬屋やオートバイ屋さんは面影がある。今残っている多くは食料品店。お店が淘汰されるとき、最後に残るのは、やっぱり人の生き死ににかかわるところなんだろうなぁと思う。震災時に営業していた商店は、コンビニエンスストア(2軒あった)と食料品店、雑貨店、直売所、温泉、ラーメン屋にカフェ、旅館、郵便局、信用金庫、ガソリンスタンド、それに飲み屋さんと酒屋さん。もしかすると、村で一番多かったのは、お酒関係のお店だったかもしれない。

震災後、原発で避難した村を取材しにきたテレビが「村の中心街の商店はみな閉まっています」とやっていたが、そこに出てくるお店はもとから閉まっていたのばっかりだった。事実は事実だけど、情報操作は簡単にできると気がつかされました。そもそも震災前にテレビが取材に来ることなどまずなかったから、情報操作をしようと思ってやったんじゃない。それだけに状況は複雑だ。

知る限り、原発事故のあと、一度も逃げずに残っていた商店は1軒だけだったと思う。商店を続けるため、というより、動かせない病人がいるなどの、逃げられないずにいる他の理由があったので、なんとなくお店が開いていたという感じだ。

原発事故からしばらくして、営業再開の旗をあげたお店があった。2軒あるコンビニの1軒だった。もう1軒は、人がいなくなった村ではお店は成立しないと、長期休業を決めている。実質廃業みたいなもんだ。村でお店をやっている人は、もうみんな60歳前後になっているから、この機会にぱったり閉めてしまった方が楽という判断はある。

復活したコンビニは、仕入れ先が配達に来てくれなかったり(あんたのところだけのために山奥まで行けない、という理由もあったし、原発避難区域には配達できない、という理由もあった)、お客がいなかったり、いろいろたいへんだった。

東京電力からの補償は、事故前の収入によって決められる。収入以上の補償はよっぽどのことがないともらえない。問題は、事故前と同じ収入を得ている人には(仕事がなくなった分についての)補償はないということだ。働いて収入を得れば、その分補償から引かれる。働かないで補償金で暮らしていても実入りはおんなじだ。

あとになって制度は少し見直されたのだが、原発事故の補償というのは、こんなふうにどこかおかしい。すべての対象を満足させられないのはしかたないかもしれないけど、というより、まちがいに近いような気がする。

それでも、そのコンビニは営業を再開した。その頃、村にはちょっとずつ人が入り始めていた。国の仕事とか取材の人とか、通りすがりのひととか。彼らは村にいっさいの店がないのなんて知らずに来て、食事ができないのに困ったりしていた。

ここだけの話、休業中の旅館で、東京の友人を招いてないしょの宴会をやろうと支度していたら、おなかを空かせた業務関係のひとがやってきた。かわいそうだからご飯をわけてあげたら、法外な食事代をいただいて恐縮したということがあった。これは余談でした。

そんなだから、コンビニの再開はなかなか便利だった。このコンビニはお弁当やお総菜を手作りもしていた。ほとんど聞いたことがない名前だったから、しばらくはチェーン店じゃないのかと思ってたくらいだ。お店の名前はともかく、品揃えには穴もあったし、しかし村役場が避難している中、お店が開いているのはたいへんに心強かった。対して「そんなにきれいごとばっかりでもないぞ」と茶々をいれるひともいたけど、あのとき、村の真ん中でコンビニがかろうじて営業していたという事実には揺らぎはないと思う。

鈴木商店
とある商店。ここはお魚屋だが、インスタントラーメンも香典袋も肉も売っていた。便利だった。

それからしばらく、村には役場が帰ってきて、本格的な復興が始まった。復興だって? まだ20km先のぶっ壊れた原発はなんの解決にも至っていないのに、なんだって復興なんて言えるんだ、という声はあった。村が出した帰村宣言を早すぎるというひとも少なくなかった。でも帰村宣言をして、役場が村に帰ってきて、ようやくひび割れた道路とかが修理され始めた。ほんとうは、帰村宣言する前にインフラ整備を始めりゃよかったと思うんだけど、それができないなら、村の帰村宣言は必要な処置だったんじゃないかと思う。それが復興かどうかはわからないけど、そうじゃなければ、どこにも進めず、コミュニティと土地を捨て去ることになっちゃったと思う。

で、村役場が帰ってきて、いろんな復興事業が始まった。各家を除染するなんてもそうだけど、不自由な買い物環境の整備も、復興事業の柱だ。避難してる人に「村に帰りますか?」と聞くと、ほとんど全員が「買い物が不便だし」と答える。確かに不便は不便だ。それでまず、商工会あたりが主体となったお店を作ろうということになった。

でもね、一度も村から逃げずに、村のはずれで細々と商店をやっているSさんは言うんだ。「不便だ不便だと言ってる人が、村の中で買い物したことなんかあったか。前っから、村の外で買い物してたんじゃないか。村に店を作ったからって、みんながみんな帰るもんじゃねぇ」。

村の若い衆は、いや少し年老いた衆も、働きに出るのは浜の方が多かった。浜には原子力発電所もあるし、スーパーマーケットもある。パチンコ屋もあった。だからみんな、浜に出たがった。今、その浜通りはクビになった大臣の弁によると死の町だ。買い物はできない。パチンコもできない。村から浜までは、ざっと30分強の距離だった。村から郡山までは1時間半。途中の船引という町までは1時間弱。さらに近い常葉までは45分くらい。今まで浜でしてきた買い物をこっちですれば、買い物事情は今までと大差ない。

もちろん今までがそうだったからといって不便なものを放置したままでいいとも思えないので、村に新たな商店機能ができるのは、否定するものでもない。でもやっぱり、そんなものができたら、せっかくがんばってるのに、うちの商売があがったりになるじゃないか、という反発はあった。

新しいお店の舞台となったのは、もともとは村の農作物の直売所だったところで、そこで日用食品なども販売することになった。産直の販売所が、マヨネーズやカレールーなども置く食料品店になった。お弁当も置いてある。そしてこれが、奮起復活したコンビニの、目と鼻の先にあり、店長として抜てきされたのは、もう一軒のコンビニのおやじさんだった。別に商売敵を目と鼻の先に持ってきて、競わせるなんて魂胆はなかったのだと思う。でも結果として、なにをやりたいか不思議な感じはしてしまった。

再開したコンビニのおやじさんは、意を決して店を再開したその半年後に、店を閉めることになった。村や商工会主体のお店があるのだったら、無理をしてコンビニを開いている必要もない。それに埼玉に避難している孫を置いて、親のふんばりに力を貸してくれている息子も、そろそろ息切れしている頃でもあった。コンビニは、惜しまれつつ、閉店した。

それからまた半年、今度は村に、別のコンビニエンスストアができることになった。それも、本社が直々に進出してくるという。なんでも、村のいろんな場所に進出場所を検討していたみたいだが、結局選ばれたのは、つい先日まで、唯一のコンビニとしてがんばっていた、あの店だった。つぶれたコンビニが、別のコンビニになって復活するというのは、東京あたりじゃよくあることだけれど、川内村のこんなところでそういう事態に出会えるとは思わなかった。

遠藤商店
とある酒屋さん。夕方になると、そこはさながら居酒屋になる。支払いはワンカップ210円とおつまみ代

新しいコンビニは、村のてこ入れで用地の獲得がされ、オープニングには村長もやってきた。村の復興の道しるべとして、新しいコンビニの誕生は意義があると思うけれど、一営利企業のオープニングが、村の催事みたいにとりおこなわれた。
 コンビニが開店すると、目と鼻の先の直売所だった村の市場は、やっぱりお客さんが減った。当然といえば当然なのだけど、村の市場の方は、働いている人はみな雇われだから、それならそれでしょうがない、のかもしれない。なんだか不思議なコンビニの開店だった。

それにしても。「おれたちのところには、なにも来ない」と、村の商店主は異口同音に言う。全村避難となった川内村の住民は、それぞれ東電から補償金をもらっている。農業や酪農、商工業の従事者は、仕事ができなくなった補償ももらっている。しかし仕事を再開しようという事業者には、なんにも出ない。本来なら100万円稼げるはずが、原発事故のせいで50万円しかもうかりませんでした、といえば、あるいは50万円は補償されるかもしれないけど、それでおしまい。

でも今、避難区域に新しく事業を興そうと思えば、いろんな補助制度がある。もちろん審査をパスしたりの必要はあれど、通ってしまえばとっても有利な条件の補助金で事業が始められる。たとえば極端な話、今あるヤマダ商店は事業を続けるのにほとんど援助は受けられないけど、隣の空き地を借りてニシマキ商店を開こうと思うと(そして補助金申請などの画策をすれば)何千万円かの融資が受けられたりして、開店の時には村長もお祝いに駆けつけてくれちゃうかもしれないわけだ。

復興というのは、こういうシナリオです。いったいなんのこっちゃと思われるかもしれないけど、実際、首をかしげることが多い。でもぼくは、これがまるでデタラメだとも思わない。既存の商店に支援を出すということは、既存の商売、お勤めをしているすべてのひとに支援を出さなければ不公平になる。それはきっと、収拾がつかないことになるだろう。行政ができることってのは、よっぽどのウルトラCをやらない限り、この程度のことなんじゃないかなと思う。なかばあきらめを含んで、ぼくは納得します。

開店した新しいコンビニ。そこには、なつかしい顔の働き手があった。涙ながらにコンビニを閉めた、あの志の高いコンビニのご主人だった。今は自営のリスクもない。仕事の好きな彼は、笑顔でお客さんと接客している。

不思議いっぱいで、川内村の商業は細々と前進している。