雪は降ったって春は春。シーズンは開幕してます。えいえいおー

自由大学は対話する

1309自由大学の対話集会

 混とんと悦楽の夜が過ぎて、宴会がはたしていつまで続いたのかはわからない。ぼくはそのまま誰かのいえにつれて行かれて飲み足して、帰ってみたらウサギが飯がないと怒っていた。
 さて翌日、今度はうってかわってまじめなモードになって、参加者身内中心に対話集会が行われた。このツアーはもともと田口ランディ主催のダイアローグ研究会だから、川内村自由大学としてもこれがメインイベントでもあるのだった。


 ほんとは御用学者と呼ばれた先生とか原発事故調の委員だった先生とか新聞社の論説委員とかが何人かやってこられるはずだったんだけど、みんな直前にお仕事が入って来れなくなった。フルメンバーだったらすごい対話になったろうと思うんだけど、今回は環境が専門の高野雅夫先生のしっとりとしたお話を聞いて、感じたことをみんなが話すというおごそかな感じになった。
 先生は震災直後からいろんなところに支援に行って、放射線測定なんかもやられたんだという。でもそのうち、なにかちがうと思い始めて、線量計を持っていくのはやめにして、トロンボーンを持って被災地へ行くようになったという。それでいいのかと思う人もいるだろう。つまりなんというか、支援をやめちゃったということだ。被災地へ行くといえば、ボランティアしにいくのかと聞かれるのが常みたいだから、トロンボーンを吹きたいから、というのは被災地へ行く理由にならないのかもしれない。
 ただ少なくとも川内村のこのへんにいると、それでいいのだと思う。高野先生のトロンボーンはさすがに環境学の先生らしく、周囲の空気に溶け込む音色で響く。音楽そのものは慰問に来てくれる音楽専門の人のほうが技術的に高いんだろうけど、トロンボーンの名手には真似ができないところが高野先生はいっぱいあるわけだ。
 居合わせたメンバーがたまたまみんなそうだったのか、ランディの切り口がそうだったからか、脱原発に賛同するか、というのがひとつのテーマになった。正確には、脱原発運動をどう思うか、みたいなことだった。
 いろんな意見があったけど、どんぶりでいうと、脱原発が正義で、それ以外はダメだという感じがしてしまうのがいやだというような声が多かったように思う。東京電力は重罪で、福島県は人が住めないところで、だから原発はやめましょうというシンプルな考え方には、ぼくも違和感がある。
 脱原発がいやだって、声に出していってしまってもいいのかと、肩の荷が下りたように告白した人もいた。いや、たぶん怒られますよ。ぼくだって、ここにこんなこと書くと、きっとあっちこっちから怒られるんだ。でも怒られたくないから脱原発をするんだったら、これまでの原発推進とおんなじだから、ぼくはやりたくない。
 もちろん、原発をつくりましょう、動かしましょう、といってるんじゃなくて、脱原発の方法論についての話なんだけど、そんなのはとにかく原発をなくしてからだ、という意見があるのもよくわかる。それでも、どこかで感じる違和感は、大事にしなきゃいけないと思うわけです。
 そんなことは重々承知のうえで、それでも脱原発を謳うのか黙っているのか、悩んでいる人がいる。これも、原発事故が生んだ歪みなのかもしれないけれど、もっと以前、この地域では原発反対と声にあ出してはいけないと言われていたから、時代が変わって流れがさかさまを向いたかに見えるのだけど、根っこのところはなにも変わってないのかもしれない。
 ひとりひとり、いろいろ話を聞いていると、それぞれ、貴重な体験をしているのがわかって、おもしろかった。こういう少人数のツアーだと、一般参加者というか、その他大勢みたいなくくりはなくて、あたりまえだけど、みんなに名前があって、それぞれ立派な個性のある人ばっかりだ。田口ランディの一行と単純に片づけてはいけないなと思う。原発の是非について、脱原発の運動についても、共通するところ、あるんじゃないかな。
 ミニ対話集会はおもしろかった。感がえる知ろう館は、それ自体はたいして珍しいものが展示されているわけじゃないけれど、ここを足がかりとして、ぶっ壊れた原発を肉眼で見られる高台に出かけたり、いまだに津波被害がそのままになっている富岡町を社会科見学に出かけたり、村人と明るい話や暗い話を語ったり、そういうことを体験してもらえばいいと思った。そしてその時そこにいるメンバーで、日本の未来について語れればいい。そういうエッセンスが今回の自由大学にはつまっていた。対話自体はわざわざこんなところまでこなくたってできるわけなんだが、川内村でおこなう対話は川内村でしかできない対話かもれないと思うと、楽しい。
 飯舘の麻里さんは、去年もランディといっしょに来てくれた。去年はお米の作付けをほとんどやってなくて、田んぼには雑草が生い茂り、周囲には除染の青い袋が山積みになっていた。除染の袋は今でもまだ見えるところにあるし、見えないところにはそれこそ尋常ではない数が積み置かれているわけだけど、麻里さんは1年ぶりに訪れた川内村にやってきて「田んぼの稲を見て、ほんとうにうれしかった」と言ってくれた。自分の郷では、まだ見られぬ光景だし、いったいいつになったら見られるのかもわからない光景だ。ぼくだったらちくしょう、ずるいな、と思ってしまいそうな気がするんだけど、麻里さんは一部の曇りもなく、そこに潜む思惑や経済も全部横に置いておいて、農の営みの復活を喜んでくれていた。こういう喜びを、原発推進の人にも原発反対の人にも、もっと見てもらえたらいいのになぁと思うのだった。