雪は降ったって春は春。シーズンは開幕してます。えいえいおー

基準値の何倍という基準

2014年初日の出

あの震災以降、政府のいうことが信じられないとか、報道機関は本当のことを伝えないとか、たいへん残念な風潮になってきている。ある意味、自業自得というか、あたりまえじゃないかという感じなんだけど、いっぽうで、なにを言われてもうそだ、信じられないと、駄々っ子のように振る舞う人たちもいる。いやはや困ったものだけど、それは、いろんな意味で、免疫のない人たちが、初めての病気に感染しちゃったことなんじゃないかと思う。

で、そんな病気につける薬はないのだけど、たとえば数字について考えてみました。

ぼくが住んでいる川内村は、全国的に自慢できるようなものはなにもない、静かな田舎村だったのだけど(ぼくはそこがなにをおいても素晴らしいと思うのだけど、それじゃだめだと考えている村人は少なくないし、少なくとも若いうちに村を出ていったたくさんの人はまちがいなくそう思っているはず)、原発事故以降は一転して、マスメディアにぎやかす存在の村になった。最近じゃずいぶんおとなしくなったけれども、それでもあいかわらずマスメディアへの登場回数は多い。震災以前はついぞ来なかった有名人も、ぞくぞくとやってくる。

村がメディアに取り上げられるときには真っ先に帰村宣言をした村」という扱いを受ける。震災後1年後に村長が村に帰ろうと宣言をして、それから時間をかけてぼちぼちと村人が帰ってきている。

もともとの人口が3000人のこの村。いったい何人が帰っているのだろうと思えば、村の発表もなかなか揺れ動いている。1500人なんていうこともあるし、300人とか400人ということもある。最大5倍なんて数字のぶれがあるようじゃ、選挙だったら憲法違反だし、どんな数字をもってきたってうそじゃないということになる。でも実は、村が出してくる数字は、けっこう一生懸命ひねり出した数字なのだった。

川内村の住民は、まだ仮設住宅や借り上げ住宅など、避難住宅を借り続けている権利がある。家賃は無料だけれど(借り上げ住宅はふつうのアパートとかで、県が家賃を払っている。大家さんは県からお金が入るので、入居したままでいてくれたほうがうれしい)水道光熱費は自分持ちなので、維持費を払うのがいやな人は鍵を返している。ほかにも、もう避難住宅が必要がないと決断した人や村や国の世話になるのがいやだというとことん正義感の強い人などは、すでに鍵を返している。こういう人は、純粋な帰村者だ。その数が300人くらいになる。

では避難住宅を持っている人がどんな暮らしをしているかというと、ずっと避難住宅にいて帰ってこない人、ときどき帰ってくる人、そして逆に、ときどき避難住宅に行く人、ほとんど避難住宅に行かない人、などのパターンがある。

2014年初日の出の日の原発

これを数えて、週に4日以上村にいる人を、事実上の帰村者としているのが、どうやら1500人という数字になる。どうやって調べたかといえば、8つある(そのうちひとつは家に帰れないから、事実上7つ)行政区の区長さんに調査が委託された。このへんでは、そういうのを個人情報だから教えない、なんて意地をはる人はいないし、本人が白状しなくたって、お隣の誰それさんはめったに帰ってこないぞ、なんて証言があれば、だいたいのところはわかる。でも区長さんによっては、区長さん自身があんまり村にいなかったりすることもあったりして、調査の正確度はいろいろだ。それでも新聞やテレビに数字が出てくると、なんだかきっちり確定した数字に見えてくる。こういうのを数字の独り歩き、なんていうんだろうと思う。

そしてそもそも。3000人の人口ってのはいったいなんだったのかと、いまさら思ってみる。人口というのは、住んでいる人の数じゃなくて、住民票の数だ。人生末期の方の中には、住民票はあるけれども、村外の病院や施設で寝たきりの人もいる。学生さんだと、住民票をそのまんまにして学校近くに住むこともある。さらに若い人の中には、村を飛び出して、でも仕事の関係で村の近くにいなきゃいけないから、近隣の町に住んでいる人も多い。原発立地町村の富岡や大熊は、実は川内村の若い人が好んで住むところでもあった。今は住めなくなっちゃったから、そういう人たちは反対側の田村市とかに住んでいる。富岡や大熊が住めなくなったからといって、村に帰ってきた人はほとんどいない。

そして、これはあんまり数えたことがないけど(数えたくないし)村役場の職員や議員さんにも、村に住んでいない人がそこそこいらっしゃるのだという。基本的には、そういうのは個人の自由なんだろうと思うけど、役場がそっくり避難した2011年には、役場は村のことなんかこれっぽっちもかまってくれなかったという思いをして以来、役場や議員さんや役場職員は、その地に住んでなきゃ仕事にならないと思うようになった。ぼくがそう思ったって、村に住みたくない人たちは帰ってこない。もともと住んでなかったのだしね。

村に住まない人への愚痴を書きたかったのではなくて、今回は数字の話だった。数字というのはその数字を示す人の気持ちによって、いろんな数字が出てくる可能性がある、というお話です。

で思ったのだ。最近では原発の汚染水や地下水汚染で、基準値の何倍出た、何万倍出た、なんて報道がされる。そういうのを見て、こりゃたいへんな汚染だとみんな思うわけだ。

原発の汚染水は確かにすごい汚染なんだけど、それに対して、人が住んでいるところあたりの汚染についても、ふつうの何倍、何千倍の汚染といわれることがままある。原発の近隣地域、もしくは不幸にして風向きが悪かった地域は、確かにそれまでの何倍、何百倍、何千倍かの汚染を受けたのはまちがいないのだけど、これもまた、なんで絶対数値で言い表さないで、何倍なんて書き方をするのかなぁと思う。

ひとつには、なんとかSvとかなんベクレルという数字は、興味がない人にはとんとわかりにくいから、報道側で数字を咀嚼して、何倍というわかりやすい値にしてあげましょうという親切心があると思うのだけど、それってどうなんだろう?

借金が5倍に膨れ上がったというとたいへんだと思うけれども、1円の借金が5円になっても、現実的になんとも思わない。でもあなたの全財産の100万円を5倍にしてあげましょうなんて言われると、つい目がくらんで詐欺にひっかかってしまったりする。同じ5倍でも、受け取る印象やダメージはいろいろだ。

放射線は、ほんの少しでも危険性はあるという教育を受けてきたから、2倍でも3倍でもおっかないにはまちがいないのだけど、一方お医者さんとか放射線に詳しい(というか扱いに慣れているといったほうがいいのかな)人たちの中には、放射線の量は数字でなく単位で計れという人がいる。日常の放射戦値が3倍になっても5倍になっても誤差の範囲で、それが1000倍になったらびびるべきであるというお説だ。

今、うちのあたりの放射線値は0.2μSv/hくらいだけど、単位が変わって2mSv/hになるには、放射線は1万倍にならなければいけない。それが即死するといわれる数Sv/数秒の値になるには、さらに100万倍以上の開きがある。

ぼくは今のこのへんが、人に保証できるほど安全だとは思っていないけれど(ぼく自身は安全だと思っているから住んでいる)あぶないとか安全とかのものさしが、正しいのかうそついてるのかわからない東電や政府発表だったり、時と場合によっていろんな数字の出し方をしてくるマスメディアに頼ってしまっているとしたら、それはとても危険なことじゃないかと思うのだった。

ひとつひとつを検証して自分なりの判断をするというのはとてもたいへんだし、時間がかかるし、そして精神衛生上よろしくないことなのだと思うけれど、そういうところから始めないと、政府やマスメディアへの恨みも晴らせないだろうなぁと思うのでした。

2014年初日の出の日の原発

ちなみに、今回並べた3枚の写真は、最初の1枚は一目瞭然の日の出の写真です。2014年の初日の出。2枚目は何だかわかんないと思うけど、初日の出の写真の左の端を拡大したものです。うっすらと鉄塔みたいなのが見えると思うけど、それが福島第一原発です。そして3枚目は、そこだけ望遠レンズで撮ったものを、さらに拡大してみました。お正月も、もちろん原発とぶっ壊れた原発では、作業が休みなく続いています。