雪は降ったって春は春。シーズンは開幕してます。えいえいおー

村は人也

1404大雪の日の庭
1404大雪の日の庭

原発事故から3年過ぎて、またエープリルフールを迎えた。昔、久米宏さんの番組に高円宮憲仁親王が出演されて、その日はたまたま4月1日だったのだけど、久米宏さんに「なんでまたうちの番組に出演してくれたのだ」という問いに答えて「今日はなにを言ってもいい日だと聞いているから」とおっしゃられたことがあって、高貴な方の冗談は美しいと感心したことがあったのを思い出しましたが、もしかして、原子力政策とその後始末の現場では、一年中、なにをやってもよくなってしまっているのかもしれない。

川内村では、双葉郡の8町村に先がけて村に帰ろうと宣言し、住民の半分くらいが帰ってきているとされている。

テレビや新聞の取材は増え、村民がメディアに登場する機会も増えた。震災後、村びとの主たる仕事といえば、東京電力の請求書の欄を埋めていくことで、事細かな請求をして、少しでもたくさんお金をいただくことだった。それは避難指定を受けていない地域の人たちからすると補償太りに思えるだろうし、実際、そういう面もないではなかったのだけど、春になっても農作はできず、ヘビの生殺しみたいに避難所生活をする人にとって、請求作業は唯一といっていい仕事だったのだ。もっとも、こういう作業に向いてない人も中にはいて、もらえるものをもらっていなかったり、ハンパにいただいた事業補償の所得税の支払いで首の回らぬ思いをしている人たちだっている。

そんなこんなで、賠償請求のブームも、帰村2年目となって一段落して、金銭的にはどこからも援助のない元の生活に戻りつつある。

元の生活というのは、しかし元通りではない。村びとの大半は、富岡などの浜通りに生活の基盤を求めていたから、浜通りが壊滅している現在、元どおりの暮らしができるわけがない。職場も学校も病院も、買い物も遊ぶエリアも、出頭する警察もハローワークも、全部だ。生活拠点が浜通りから流れ出て、村の中には生活基盤がなくなっている。

医療関係は村の診療所ひとつ。それも医者がいつかなくて、いつも医者さがしをしている。

高校は、富岡高校川内校という名前の分校みたいなのがあったけれど、地震の10日前に廃校にしたという抜群のタイミングで、高校がないから帰らない、という帰らない理由になっている。もっとも、彼らが望む高校は、そこそこレベルの高いそれだから、分校が残っていたから村に帰る選択にはならなかったかもしれない。

商店は、半分ほとが営業をやめた。ガソリンスタンドは比較的早くから復活して、雑貨屋さん、旅館がそれに続いた。商店もやっているところはあったが、仕入れルートが復旧してない頃は、商品がまともに揃わなかった。もともと、買い物は以前から富岡にいくことが多かったのだけれど、いまは反対側の船引にいくことが多くなった。船引までは、村の中心から40分。富岡までは30分くらいだったから、ちょっと遠い。

復興の槌音は、まず除染から始まった。住んでても住んでなくても、とにかく家という家は除染する。1軒に10人から20人で1週間くらいがかり。なかなかの大仕事だ。住宅の周囲20mは除染対象だから、裏山をかかえていたりすると、そっちもやる。風の噂では1軒500万円はかかるだろうという。

地元のひとにも仕事は流れてきたけれど、村が発注するのは除染組合で、建築大手が参入している。村びとが仕事をもらう段階では、実入りはふつうの野良仕事と大差ない(少しだけおいしい)。

企業もやってきた。いち早く再開した村のコンビニエンスストアがやっていけずに閉店したあと、ファミリーマートが進出してきた。今までセブンイレブンやローソンなど、そこら中にあるコンビニは村には皆無だった。商売にならないからだと思う。今はさらに人がいない。なのに村に進出してくるというのは、きっとウラがあるにちがいない(開店してから除染要員で客足は伸びたけど、今は除染要員も減ってきている)。

新規の事業が進出してくると、補助金が出る。事業進出があれば復興の一助になるから、この補助金は正しいのだと思う。でも既存のお店にはそういう援助はほとんどない(ほんの少しのボーナスはあったらしい)。がんばってきた店は閉店して、かわりに村外の店が進出してくる。それが復興なのだとしたら、ちょっと悲しい。

雇用の場を確保するために、企業もやってきた。メディアによく出てくるのは野菜工場で、その他に部品製造工場とか家具工場がやってきた。雇用拡大は原発事故前からの村の悲願だったから、これは朗報だった。でも、いま、村は人手不足にあえいでいる。

働き手がないのは、働く側にとって魅力が少ないからだ。給料が安い。一般常識からすれば、郡山市などに比べて、給料が安いのは当然かもしれないけど、ここで働く若者の立場に立てば、村には遊ぶところがないのだから、近隣まで遠出していかなければいけない。通勤の帰りに遊んでくるわけにもいかないのだから、安月給ではやっていけない。

村から働きに来る面々に精気がないと指摘する声もある。安月給でやる気にならないのかもしれないし、村びとのやる気がそんなもの、という悲観的な観察もあるかもしれないのだけど、人のやる気というのは、単に金だけじゃないと思う。家族とか仕事の内容とかやりがいとか、上司や仕事仲間との関係とか、将来の夢とか生活設計とか、そんな分析をするのもおこがましいような、いろいろがあるにちがいない。たぶん、今村びとに与えられているのは、その一部にすぎないんじゃないかと思う。

震災後、何かの節目ごとに発表される村長コメントには、いつまでも補償に頼ってはいられない、自立して未来に向かわなければいけないという意味のことが含まれている。その通りだと思うけれど、いっぽう、それは村びと個人個人がしっかり未来を見つめてこそのことで、力づくで奪われたそれまでの生活をあきらめて前へ進めという意味にとってしまったら、本末転倒どころの話ではない。

もともと、村だの町だのという行政が、住民を助けてくれたことなんてないんじゃないかと思う。それで問題なかったわけだ、今までは。

いま、家族や財産や仕事や遊び場などなど、いろんなものを失った人たちがいる。そんなみんなが、元通りの暮しを手に入れることは、絶対にない(人によっては、補償を上手に使って、元よりいい暮しや未来を手に入れた人もいるかもしれないけれど)。そんな彼らにできる支援にはどんなものがあるんだろう。そんな支援があるんだろうか?

村には国からの復興予算がどんどん流れてきている。住民たちは復興予算でさぞ優雅な暮しをしていそうなものだけど、予算の使い方は厳しいチェックがあって(当然だけど)、これをやったらおもしろそうだな、楽しそうだなと思うところにはほとんど使えない。除染をしたり進出企業の補助金になったり、おかげで村はちょっとずつ復興の道を進みつつある。除染が進んで放射能汚染が少しずつきれいになるのはうれしいけれど、走っているのは知り合いのクルマばかりだった道路にはダンプカーが行き交っている。昔日の村に戻るのは、まだまだ先のことになりそうだ。

間もなく、村の自慢の温泉施設も再開する。施設は立派だけど、温泉に入りに来てくれる人はいるのか、村の人が足しげく通うようになるのかどうかは、微妙だと思う。この勢いだと、温水プールなんかもできてしまうかもしれないけれど、復興予算はプールの水を加熱する燃料代とか、未来永劫出してくれるのかなぁ。

1404大雪の日の庭

村に帰ってこない人に聞くと、あれがない、これがない、と指摘を受ける。村で買い物ができないという声に応えて、スーパーマーケットを作ることになった。いっしょに、既存の商店も同じルートで仕入れができるようになった。安価で品揃えもいい。でも、大きな商業施設ができたら、小さな商店がやっていけるかどうかはわからない。そもそも村が作るのはお店の箱だけで、誰がどんな店作りをするのか、それはまだよくわかっていない。

村の帰村に先駆けていち早く村に帰った村びとには気骨のある人が多い。そんな人にとって、村にあってほしいのは、顔のしれたあの人がやっている、小さなあの商店だ。

原発事故以来、村からは人が消えたとよく言われている。ひとを村に帰すにはどんな施策が有効なのか。村は今、原発事故からの収束と同じく、誰にも経験がない道を歩んでいる。

川内村名誉村民の詩人、草野心平氏は、名誉村民となった時に「村は人なり」と書をしたためて、それはいまでも村長室のよく目につくところに下げられている。村は人なり。美しく力強い言葉だけれど、一時代前の酒好きの詩人の戯言で終わってしまわなければいいなぁと思っている。もしも人のないところから村作りを始めるのだとしたら、それは50年前に原子力発電所によって地域を再生しようとした決断と、同じことになってしまうかもしれないから。

*写真は、季節外れに見えるけど、つい1ヶ月前のうちの庭です。