雪は降ったって春は春。シーズンは開幕してます。えいえいおー

久人さん

1405久人さん
1405久人さん

久人さんが亡くなった。

久人さんは酪農家だった。ただの酪農家ではない。いまや福島県双葉郡で就農している、ただひとりの酪農家だった。

個人的には、オートバイ遊びをする上でもっとも手ごわい相手の一人だった。そして最近では、よい飲み友だちだった。きっと久人さんは、ぼくらのよき理解者だったのだと、今は勝手に思っている。

原発事故のあと、次々に村を離れていく人たちを尻目に、久人さん一家は村に残った。60頭もの乳牛をそのままに、村を離れるわけにはいかなかった。これが肉牛なら、週に1度餌をやりに来れば、生き長らえてくれる。ところが乳牛は1日でも搾乳をさぼれば、乳腺炎になって死んでしまう。久人さんにとって村を捨てて避難するということは、60頭の牛を引き連れての引っ越しだった。それは無理だ。

「誰もいなくなった村は、さびしかったぞ」

ワンカップを飲みながら、久人さんは冗談とも本気ともつかない物言いでよく言っていた。それはさびしかったにちがいない。久人さんは、仕事が終わると隣近所に出向いて、一杯やるのが日課だった。でもまわりに誰もいないのだから、出歩いても相手がいなかった。

ぼくが村を離れていたのは、結局ほんの1ヶ月だった。2011年4月、電話回線とインターネット接続が復活したときに、ぼくは村に帰ってきた。でも久人さんが「さびしかったぞ」というたび、1ヶ月間村を離れていたぼくは申し訳ない気持ちになるのだった。たぶん、久人さんはぼくのことなんか数には入れていなかっただろうけれど。

ぼくが村に来た頃、この村ではなかなか活気にあふれたエンデューロ大会が開催されていた。会場はすっかり使われなくなった酪農用の草地で、ときに沢筋を走ったりしながら、広大な牧草地跡を走るのは気持ちがよかっただろうと思う。

次々に村人が酪農から撤退して、この草地を使う人は激減していたけど、ここで草を育てていたのが、久人さんだ。エンデューロを開催する際は、久人さんの仕事はお休みだ。エンデューロを主催する人たちは、レースのあと、荒れた道をていねいになおしていた。こんなにマナーのいいエンデューロ大会は、ちょっとない。

ところが誤解はどこにでも生まれる。エンデューロ期間中(せいぜい4日くらいだが)仕事を休んでいた久人さんは、イベントが終わればすぐに仕事に出かける。でもそのときには、当然、まだ道の復旧なんかできていない。主催者もボランティアも社会人だから、復旧作業は休みの日におこなわれる。少なくとも、次の日曜日まではそのまんまだ。エンデューロ大会の当日は、晴れるとばかりには限らない。雨なんか降れば、あちらこちらたいへんなことになる。

「あのやろうめらは、なにをやっているんだ!」

久人さんは思ったことを正直に言う。村には、なんだかオートバイがきらいな人も一部にいて(老後に静かな暮らしをしたいと思ってこの村を選んだ移住者であることが多いのだけど)、そんな人が久人さんの言うことを聞いて、オートバイはマナーが悪い、とんでもない、ということになる。

久人さんとしても、草地を荒らされたわけではなく、道がなくなってしまったわけでもなく、全体にやたら汚いぞ、なにか一言あってもいいじゃないか、くらいのことだったと思うのだが、間に何人かが入るうちに、とんでもない問題になってくる。

1405久人さん

ぼくが村にやってきたのは、そんなときだった。オートバイがきらいな、やっかいな酪農家がいるぞ、というわけだが、そういう人と接するのに、避けて通るべきか正面からぶち当たるべきか、方法はさっぱりわからない。

でもそんなこんなのうち、村のつきあいというのがある。地域のお祭りとか、誰かのうちで集まっての飲み会とかで、久人さんと顔を合わせる機会が何回かできた。

話をするというのは大事なことだ。ぼくは酪農について久人さんに教えてもらった。久人さんは、ふらりと村にやってきた(村のものさしでは)働き盛りが、いったいなにをやって暮らしているのか、気になってしかたがない。おまえはなにをやってるんだ、と酒の席ではよく聞かれた。ていねいにお答えするも、答えれば答えるほど、わからないことが増えていくようだった。

そうこうしているうちに、原発事故が起きた。1ヶ月後に村に帰ってきて思ったのは、ひとがひとを、以前よりさらに強く求めているということだった。いやなに、ただ世間話の相手を探しているだけなのだけど、まわりに人がいないもんだから、事故以前なら会釈だけで素通りしてしまう相手だったとしても、お互いにクルマを止めて、どこに行ってた、いつ帰ってきたと情報を交換する。それが道の真ん中で、でもだ。そのまま半日話をしていても、だれも通りやしないかもしれない。

村に残った移住者の間では、放射能をかぶった田畑をどう復旧させるかという話で忙しかった。おりしも、村一番の反骨農家である秋元美誉さんが国の決定に逆らう形で稲作をした。なにもしなければ、今年も来年も再来年も、お米は作れないのではないか。

水だけでも入れればいいのに、と言った人がいる。この人の言うことは、アクは強いけれど正しいことが多い。水を流せば、少しでも洗い流す効果はあるだろう。流れた先がどうなるかはわからないが、村より下流には、人は住んでいない。

その前年、ぼくは生まれて初めて、田植えをして稲刈りをした。収穫1俵ほどのままごとのような稲作だけど、出会う人が「おまえんところはなにを植えたのか、いつ刈るのか」なんて聞いてきたりして、農業集落の仲間入りをしたような気にはなったもんだった。

とりあえず、その田んぼに水を入れてみようと思った。思い立ったが吉日、さっそく用水路をたどって、水を入れようと思ったのだけど、さて、どうやったらいいのかがさっぱりわからない。自分の田んぼの水をどうやって止めるかは知っていても、元栓をどうやって開けるのか、なんちゃって稲作農家のぼくは、さっぱり知らなかったのだ。

水路を見ながらおたおたしていたら、そこに現れたのが久人さんだった。やべえと思った。よそ者が大事な田んぼに勝手に水を入れようとしているのだから、ぶっ飛ばされるかと思ったのだけど、久人さんは水の開け方を教えてくれた。

久人さんがなんで手伝ってくれたのかはわからない。でもいつだったか、どこかの酒の席で、村の者が田んぼのことなんか忘れているときに、こいつは一人で水を入れようとしていたとうれしそうに話をしているのを見て、ぼくがやったことは役には立たなかったかもしれないけど、悪いことではなかったのかもしれないと思ったのだった。

エンデューロと並行して、震災の前からトライアル大会を始めていて、震災の年は3度目の年になっていた。エンデューロとちがって、お互いに共存できる範囲だけれど、草地の作業に多少なりとも支障が出るだろうから、久人さんのところには毎回気持ちのお酒を持っていくことにしていた。いっしょに持っていく説明文は、最初のときにはつまんないチラシでも見るように、一瞥されて終わっていた気がする。ちなみに酒は、大七の一番安いのを持っていく。2,000円を下回るので、へたなお菓子を持っていくより安い。金額ではなく気持ち、といえばかっこもいい。これ以上高い酒を持っていっても、この界隈ではあんまりウケがよくないのだ。

「西巻さんらのやってるのは、歩いてもらってぜんぜん問題ないんだ」

4年目くらいに、久人さんが言ってくれるようになった。それは暗にエンデューロはいやだと言っているわけで、トライアルもエンデューロも基本的にはおんなじだと思っているぼくとしては、ちょっと困った反応ではあったけれど、ぼくらは作業道路を占有しないで大会が開催できるし、砂ぼこりもあんまり立たない。インパクトがないといえば聞こえはいいし、まぁ、たいした迫力がないということだ。

「草地にじゃまっけな木があったから、ユンボであっち側に倒してあっけど、じゃましようと思ってるわけでないぞ」

トライアルバイクが走るのに手ごろな小径に横たわった倒木を始末しながら、久人さんの言いわけみたいな物言いを思い出して、ぼくはうれしかった。だってぼくらはひとの土地で遊ばせてもらうのであって、なにか言いわけするのだったら、それはぼくらのはずだから。

それでも久人さんは、ときどき言うのだ。

「あんたらは遊びだ。おれたちはこれが仕事なんだ」

一生懸命取り組んでいるという気持ちの点では負けてはいない気もする。でもぼくらはトライアルがなくなっても(まぁぼくについてはこれが食いぶちだけど)大切な遊びを取り上げられるだけで、生き死にには関係ない。だけど久人さんの草地稼業は、生活のかかった大事な日常だ。どういうタイミングで、久人さんがぼくにそんなことを言ったのかは、よくわからない。ときどき釘を刺しておきたかったということかもしれない。なるほど、ぼくは図に乗るタチだから、それはちょうどいいお説教だったかもしれない。

かつて、ぼくらの集落には、もうおひとり酪農をやってる人がいた。その人は、ぼくが村に来るちょっと前に、借金苦で自ら命を断った。残された牛や酪農の機器を一手に引き取ったのは、久人さんだった。久人さんが買い取った金額は、その人の借金額を上回っていたと、久人さんは言っていた。

「死ぬことはなかったんだ」

生きていなければ始まらない。死んじゃだめなんだなぁ。久人さんは原発事故後の双葉郡で唯一の酪農家として、最後まで生き続けるんだろうと思っていた。

1405久人さん

原発事故からの避難が一段落して、少しずつだけど村人が帰ってくるようになると、今度は除染が村の主たる事業になった。住宅は村や国の委託を受けた業者が一手に引き受けて除染作業をする。農地は、原則として農家自身がやることになった。久人さんは、百町歩を越える草地の除染を、一手にやることにした。

同時に、高齢や事故の影響で管理ができなくなった草地も引き受けた。ふつう草地は、何年か一度種を入れ替えるけれど、今回の場合は全部一度に土を入れ替え、種を入れ替える。トラクターで連日草地を駆け回る久人さんの姿があった。

ふだんだったら、草地に歩いて入っただけでも大目玉ものだけど、この頃、トライアル大会のパドックに草地を貸してもらったこともある。草地は傾斜地が多かったから快適なパドックとはいえなかったけれど、草地ならではの気持ちのいい環境だった。その草地も、その後種が蒔かれ、新しい牧草が育ちつつある。

ある晩、久人さんに草地の進捗についてたずねると、浮かない顔で教えてくれた。

「まいったよ。一番奥の草地で基準値以上の数値が出ちまった。これで、あそこの草地は今年も全部使えない」

草を買わなければいけない分の補償は出るはずだが、久人さんは早く元通りの酪農がしたかったにちがいない。

2013年に、稲作が解禁になると、久人さんは真っ先に田んぼを再開した。稲作はもうからない。米を食いたいなら、買って食った方が安いしうまいぞと、みんなが言う。

「作らなければ、忘れちまう」

久人さんはそう言って走り回った。搾乳は奥さんと、後継者たる息子さんにまかせっきりで、自分は飛び歩いていて、夕方になると飲んでいたから、ちょっと放蕩オヤジみたいな印象もあったけど、働き者だったのだ。

飲んでいる久人さんがいる席に、東京から来た友人を連れていくことがあった。60頭の乳牛を育てて酪農をしている久人さんです、と紹介した。

「今は70頭だ」

知らない間に、久人さんは事業を拡大していたのだ。東電が農家に出す補償は、事業所得になる。そのままタンスに入れておいたのでは税金がかかってしまう。久人さんは、牛糞を加工する肥料工場の建設も決めた。建築は進み、間もなく落成する。

そういえば、草地で仕事をする久人さんを訪ねていって、お土産にメロンパンを渡してきたことがあった。友人が始めたメロンパン屋の商品だけど、久人さんはうまいうまいと食っていた。口の悪い久人さんにうまいといってもらったらまちがいないや、とひねくれたお礼を言ったら、おれ、そんなに口が悪いのかとちょっと小さくなってしまった。もうしわけないことをした。

久人さんは、なんでも思ったことをそのまま言うから、ときにあたりがきつく感じることもある。だいたいこのあたりは、言葉遣いがぞんざいということになっている。ぼくにすれば、口が悪いなぁ、というのはあいさつみたいなもんなのだけど、村から出たことがなかったという久人さんは、礼を尽くして話していたのかもしれない。

最近の久人さんは、めっきり酒が弱くなった。楽しい酒の席で深酒をすると、足下がふらつくこともあった。でもその分、ふだんの酒は少なくなっていた。

だからといって、久人さんの働きは変わらなかった。米作りも先頭を切って再開した。久人さんの仕事は酪農で、米を作らなければ暮らしていけないことはない。めんどくさいばっかりだ、と前置きしながら、やっぱりこう言うのだ。

「作んなきゃ、忘れちまう」

もしかしたら、それは照れ隠しのような表現だったのかもしれない。しかしもしかしたら本当に、米を作るのは久人さんが物心ついてからずっと、疑うことなく続けてきた習慣であって、忘れては困るものだったのかもしれない。

2月の大雪の時には道々の雪かきに精を出した。雪かき中の道に入り込んでしまって、しかもおまけに埋まってしまって、助けてもらったりもした。

「人が除雪してるのに、じゃまっけなやつだなぁ」と言いながら、ぼくのクルマを助けてくれた。作業が終わると、ぼくが礼を言うより早く「ありがとうございました!」と笑顔で叫んだ。礼はさっさと言えよというプレッシャーだったのかもしれない。

正月にはみんなで、この地域にだけ伝わる花札をやった。新参者のぼくにはさっぱりわからない。わかんないやつは黙ってろと言われるかと思いきや、ていねいに教えてくれたのも、久人さんだった。教え方が少し乱暴だから、なかなか覚えられないのだけど、それは教わる側の資質もあるにちがいない。

1405久人さん他に先がけておこなわれた、小さな子どもが帰ってくる家の除染作業中の久人さん。表土をはいで、空気に触れていない土を盛る。土の輸送が久人さんの仕事だった

除染について、村のこれからについて、新聞沙汰にもなった農地の転用問題について、久人さんは聞けば自分の考えをきちんと語ってくれた。はばかりながらそれについて新参者が意見を言ってみたこともある。だいたいこのあたりのおっさんたちは、新参者が意見を言うと「おまえはまだわかってないのだ」と返してくることが多い。久人さんはちがった。

「そういう意見もあっぺしけど、それじゃことが進まねーんだ」

ミクロなこともマクロなことも、久人さんにはいろんなことを教えてもらった。ぼくよりまだ、5歳年上なだけだった。

久人さんは、4月29日、道から川に転落して、亡くなった。ちょうど雪の日にぼくが助けてもらった、そのちょっと先だった。久人さんにしてみたら、62年間、歩いてもクルマでも、気が遠くなるほどの回数を行き来した道だった。警察の調書ではハンドルを切り損ねて、ということになっているが、その直前の久人さんになにがあったのかは、もう誰にもわからない。

あと何年かして、あちらの世界で再会したら、あのときなにがあったのか、じっくり聞いてみたいと思っている。