雪は降ったって春は春。シーズンは開幕してます。えいえいおー

原発の思い出[3月14日]

2011年3月14日

お昼に、富岡の課長さんだかなんだかがやってくる。

2011年3月14日富岡役場の人

うちの集会所は100人くらいしかいなかったし、たまたまぼくがもらってきたふとんもあった。米も野菜もご近所から豊富に集まった。なので晩飯はカレーライスを作ろうなんて、こんな中でもちょっと楽しい共同生活をしていたのだった。

「それなんとかならんですか」とやってきたのがヘルメットかぶった富岡役場の方だった。村の中の体育館は避難者1,000人もかかえて、食べられるのが1日におにぎり1個だったりするらしい。電話は不通だったけど、情報は何となく伝わるらしくて(消防団には燃料が供給されていて行き来はしていたし。もちろんそんな噂を広めるためじゃなくて、みんなの安全を守るためだ)あそこだけずるい、という話になったらしい。富岡の人に飯は食わさないでくれ、一括して役場で用意して運んでくるから、と。

目の前でおなかを減らしている人がいて、ぼくらだけ飯が食えるか。ねぼけたこと言ってんじゃねーよ(まだ、ぼーっと生きてるんじゃねーよ、と言う時代じゃなかった)、とみんなで反発。話を聞いた役場の方は「そりゃそうだよなぁ、そう言われると思ったんだ、あたりまえだよなぁ」と言って帰っていった。この人も、役場の決定でいやいやぼくらのところに交渉にきたにちがいない。

しばらくして、富岡役場発川内村経由の正式文書としてのお願いが届けられた。電話は通じなかったから、誰かがわざわざやってきたのだと思う。こんな非常時に、飯を食わすの食わさないので、なんとものんびりした話だと思わなくもないが、やっぱり食い物の恨みは大きい。

今見ると、ひとりだけヘルメットかぶっているのも少々違和感はあるけれど、これも役場のキマリだったのだろう。名前も聞いてないけど、この課長さんだか係長さんだかはその後どうなさったかなぁ。