13日12時の集会所。区長と副区長(当時)が新聞を読んでいる。この新聞は、富岡の人に頼まれて、役場まで身寄りの所在を確認しにいったとき、役場にあったのをもらってきたものだ。このときは、まだ新聞が村にきていた。たぶん、これが最後で、これ以降は新聞も新聞記者も、村にはやってこなくなった。
富岡の人は、150戸の小さな集落用の集会所に、ざっと100人がやってきた。村の体育館や小学校には1,000人くらいずつ泊まっているということだから、100人はかわいいもんだ。ふとんもあったから、避難してきた人にはなるべく快適に過ごしてもらおうと思ったのだけど、他の避難所との待遇格差は激しくて、それが小さな問題にもなった。
この頃、第一原発の警備を担当しているKくんが集会所に立ち寄って、緊急招集がかかったから、これからしごとにいってくるとでかけていった。まだ水素爆発はしていないけど、緊迫した状況は、なんとなくわかっていた。でもまだこのときは、避難しているのは富岡の人で、ぼくたちは避難民を助けているという余裕があった。
でもこの頃、日ごろから原発や放射能に機敏な人は異常事態を察して村を出ていっていたし、炊き出しを手伝いに来ていた地元のおばちゃんも、ごめんね、うちも会津の親戚までいくことになったわ、と言いに来たりしていた。
刻一刻と、そのときは迫ってきていたのだけど、若い子どもはともかく、死ぬのを待っているだけのおれたちは、少々の放射能を浴びたって、これ以上寿命が縮まる余地がない、と覚悟を決めている、というか、タカをくくっている人もいた。
停電はしていなかった。富岡の人たちは、真っ暗なトンネルをいくつか抜けたあと、川内村に電気がついているのを見て、歓喜の声を上げたという。だからテレビのニュースは見れた。よくわからない単位の放射性物質の数値が出てきた。部屋に転がっているレントゲン検査についての雑誌記事を見ると、それがとりたててたいした数字ではないのはなんとなく理解した。
そのうち、1号機が水素爆発を起こした映像が流れた。みんな、表面上は冷静を保っていた。Kくんはどうしたかなぁ、と思った。ずっとあとで聞いたら、途中で引き返したのだという。