雪は降ったって春は春。シーズンは開幕してます。えいえいおー

撤退

高田島の月夜。満月編

 世界的不景気だからしょうがないけど、モータースポーツからの撤退があとを絶ちません。ホンダのF1撤退は大ニュースだったけど、F1はたった1回しか見たことがなくて(1977年、ビルヌーヴが大きな事故を起こしたFISCOのレースをのんびり見物していました。事故のことは、帰ってからはじめて知った)少し他人事なのだけど、パリダカの方が3回でかけただけあって、もうちょっと切実に受け止めている。三菱自動車が、ダカールラリーから撤退するって決めたらしい。
 1980年代、パリダカールは一風変わったモータースポーツとして孤高の存在だった。無骨な4WDカーが猛烈な勢いで砂漠を突っ走ったかと思えば、荷物を満載したトラックまで走ってる。三菱は、そんなパリダカに絶妙なスタンスでワークス参戦してきた古参チームだった。

 勝つためには手段を選ばぬ、というやりかたは、モータースポーツに限らず、戦いのやり方としてはわかりやすい。
「ほしがりません勝つまでは」というのは戦争時代の日本の標語だった。不幸な時代だったと思うけど、これ自体はそんなに不思議には思わない。ところがベトナム戦争時代、ベトナムの人たちは空爆に家を爆破されながら、街を花で飾るというおしゃれを忘れなかったという。あのせっぱつまった時代に、よくもそんなことがしていられると思うけど、もしかすると、猪突猛進で戦いに挑むのは、日本人ならではの意識かもしれない。「オリンピックを楽しむとはなにごとだ」と非難されるのも「ほしがりません勝つまでは」意識に通じるものがあるんじゃなうろうか。
 三菱の話だった。三菱は今とちがって、ちゃんとフレームのある四角いパジェロが主力戦闘機だった。ライバルはポルシェ959。ポルシェといえば高嶺の花のスポーツカーで、かたやパジェロはドアが閉まるようになったジープというようなイメージだったから、その両者が互角に戦うレースとは、なんとおもしろいもんだろうとわくわくしたのを覚えてる。そういえばあの時代、オートバイの方も単気筒あり2気筒あり4気筒あり、並列あり水平対向ありと、異種競技の宝庫だった。走ってる選手だって、F1ドライバーにラリードライバー、なんでもない素人。乗り物好きの夫婦や元夫婦なんてのもいて、世の中いろいろというそのままの世界が、アフリカの砂漠に広がっていた。
 三菱はポルシェが参戦する以前からパリダカの雄で、もちろんプジョーやシトロエンよりもずっと先輩にあたる。三菱に比べると、プジョーやシトロエンは鳴り物入りで砂漠へやってきて、勝つためには手段を選ばずみたいな感じだった。プジョーがご招待したお客さまのためにレストランを積んだトラックが随行したりしていて、なんだか差をつけてくれちゃってるじゃないのという気がしたもんだ。こういう思いは、フランス人だろうがイタリア人だろうが、プジョーの息のかかっていない人たちには共通したものだったと思う。
 そうそう、あの時代(ぼくがでかけていったのは1986年、1987年、1988年の3年間だった)のパリダカは、参加者みんなが同じ釜の飯を食った仲間という意識があった気がする。意識だけじゃなくて、実際にそんな感じだった。キャンプ地につくと、ライダーもドライバーもナビゲーターもジャーナリストもカメラマンも、みんなが灯りのもとに集まってくる。灯りは、アフリカツール(アフリカ相手の旅行会社)のケータリングトラックのもので、ここでみんなが飯を食う。缶からにつめられたディナー(クスクスだったりビーフシチューだったり)、ときとしてかちかちになったフランスパン、コーヒーとスープ。食器は各自持参する。シエラカップひとつとフォークとスプーンがあれば、楽しいディナーが持てる。
 ところが食器のひとつも持ってない連中もいる。サポート隊を失ったか、いてもうんと遅れていて荷物が届かない状態のライダーなんかがそうで、そんな彼らはアフリカツールのトラックの周囲からビスケットの入っていた空き缶を拾ってきて器とし、ライディングウェアを着たまま、トラックの床下で丸くなって寝たりしていた。貧乏なプライベーターだけじゃない。むしろ貧乏人は、はなからサポート隊を構成できないから、荷物を全部背負って走っている。遅いけど、たくましい。なさけないのは、補給をサポート隊にまかせて身ひとつで突っ走るトップ連中が、サポート舞台とはぐれたときだ。で、こういう悲劇は、砂漠ではそんなに珍しいことじゃなかった。
 スズキのワークスライダーとヤマハのワークスライダーにしてフランスのヤマハ輸入元ソノートの重役、ジャン・クロード・オリビエさん(まだオートバイに乗っているかなぁ)と名もないプライベーターが並んで即席テーブルにかじりついてビスケットをかじっている。みんなさっきまで走っていた姿のまま、重たいレザー製のライディングスーツのまんまの着た切り雀だ。まさに同じ釜の飯を食った仲間である。
 ドライバーのみんなも、Tシャツと短パンで走っていた。今じゃ、みんなレーシングスーツで走ってる。レースなんだからちゃんとした衣装で走るべきなんだろうけど、暑いところでのレースだし、それがパリダカのスタイルという感じだった。この点について増岡浩さんに聞いてみたら、いまどきは汗みどろでレーシングスーツを着て、ゴールしたらさっさと着替えてさっぱりする方が快適なのだということだった。着替えがあるからこその快適だけど。
 で、三菱撤退は、この増岡さんに大きな影響がある。ぼくがはじめてパリダカへ行った1986年は、主催者のティエリー・サビーヌが事故死した年であり、日本の金子靖夫さんがやはり事故死した年であり、篠塚健次郎さんが初参加した年だった。その翌年、増岡さんがパリダカに初参加した。当時の増岡さんと言えば、今から3年くらい前の三橋淳、池町佳生両雄のような印象で、元気のいい若武者だった。
 強いて三橋・池町と比べると、新時代の二人の方が上手に走っている気がする。当時の増岡さんといえば、クルマを壊したりの失敗続きで、キャンプ地でも頭を抱える姿をよく目撃したものだった。だからその後、2年連続でパリダカを制したときには、うれしかったなぁ。増岡さんが優勝した前の年、悶着の末に優勝したドイツのユタ・クラインシュミットは、1987年のファラオラリーに2輪のBMWで初出場している。このラリーはぼくの唯一の海外ラリー経験だから、名もない東洋の雑誌屋崩れとしても、いろんなところに同じ釜の飯を食った仲間がいて、うれしいのだ。
 釜の飯の話ではなくて、撤退の話だった。
 当時、パリダカに参戦するというのは、まずパリダカの輪に入るのが第一歩だった。これが、同じ釜の飯を食うということだ。プジョーがやったように、トラックにレストランを積み込んでのりこんでくるのは、同じ釜の飯を食わないという参戦方法だった。そしてこれが勝つための必要条件になってくると、どこのチームもサポート体制の充実を図っていって、だんだんパリダカが庶民のチキチキバンバン・レースから、金のある大企業の戦いに変身していった。最近のパリダカは知らないけれど、プライベーターたちが厳しさと和気あいあいをあわせ楽しめる大きな釜であり続けてほしいと思う。
 モータースポーツからの撤退は、文化を見放すべきではないというモータースポーツ側からの攻撃と、無駄な支出は抑えろ遊んでる場合ではないぞという企業論理とのせめぎ合いの結果なのだと思うけど、同じ釜の飯を食べ合うモータースポーツを維持していたなら、もっと長生きできていたんじゃないかなぁ。モータースポーツはぼくら(究める人も楽しむ人も)にとってモータースポーツは贅沢な余暇の楽しみではなくて人生の一部だから、お金がなくなったので縮小しようという選択肢はあっても、やめちゃおうという選択肢はないんですね。大きな企業にとっては、モータースポーツは人生じゃなかったってことでしょうか。
 と思いつつ、増岡さんはこれからどうするのかなぁと、自分のことを棚に上げて、人の心配をする今日この頃でした。
 写真は、満月の夜。八幡神社のある糠馬喰山と