雪は降ったって春は春。シーズンは開幕してます。えいえいおー

将来への恐怖

うちの空

お話の流れとはなんの関係もない、うちから眺めた夏の空

 原子力発電所がぶっ壊れてしまって放射能をまき散らした福島県。はたして安全なのか危険なのか。ぼく個人的には、ここに暮らしてもへっちゃらだと思っている。しかし子どもはいかん。これから子どもを育てる世代の人たちもいかん。こういうことを書くと、風評だ、科学的根拠がないとおっしゃる方がいる。風評かもしれない、科学的根拠がないかもしれない。それでもいかんと思う。ぼくがそう思うにいたったのは、こんな話を聞いたからだった。


 原子力発電所とは関係がない。その人は、過去にお子さんをひとり、亡くしている。生まれてすぐに亡くなったそうだ。それ自体は、不幸にして起こった、不運な巡り合わせだったのかもしれない。
 彼女は、妊娠中にちょっとした病気をした。それで医者にいったら、薬を処方された。妊娠中だけど、大丈夫かと念を押したら、大丈夫だといわれた。とても心配だったけど、大丈夫だといわれて、結局、服用した。
 赤ちゃんが亡くなったのは、薬のせいかどうかは、わからない。医者が大丈夫だといったのだから、亡くなったのは別の理由で、どのみち助からなかったのかもしれない。
 彼女がそれから20年近くもたって、いまだに思いが晴れないのは、薬によって子どもの命が奪われたということではない。薬を飲まない選択肢はあったのに、飲んでしまった。あのとき飲まなければ、という後悔が、ずっと彼女を支配している。
「子どもを産んだことがない男にはわかんないし、子どもを亡くしたことがないひとにはわかんないわよ」
 ふだんは底抜けに明るい人なのだけど、彼女はこんなふうに言う。
 放射線被害は、結論がでるまでに時間がかかる。時間がかかるから、被害が出たときには、因果関係がほとんどわからなくなっている。あれほどわかりやすいはずの原子爆弾の被害でも、原爆症の認定は簡単ではない。ほんとうに因果関係がないのかもしれないし、お国が認めたがらないだけかもしれないし、はっきりわからないのかもしれない。原爆症に悩む人からすれば、あのときそこにいなければこんなことにはならなかったはずだという思いは残るはずだ。
 だから、遠くに住んでいる人は、わざわざ来る必要はない。ここに来れば楽しいこともあるし、いまだ、美しい野山は広がっているけれど、遠い将来、自分の子どもになにかが起きたとき、それはあのとき、あそこへでかけたからだと後悔することになるから、いや、後悔してほしくないから、来るべきではないと、その人は言う。
 年寄りはいいんです。今から放射線を浴びたって、たいして影響がないだろうから。だからぼくは、この地で楽しく暮らしていこうと思っている。でもまだこれから子孫を残す人は、どうか未来を大事にしてください。因果関係があるとかないとかの根拠は、一生にわたって後悔の念にさいなまれるのに比べたら、ほんの微々たることでしかない。
「でも、ここより線量が高いところはあって、そこに生活している人はいるよね」
 と水を向けてみると、彼女はきっぱり言った。
「危険か安全かではないの。危険を回避できる選択肢があるのなら、後悔しない選択をしてほしいということよ」
 子どもを産んだことがなく、子どもを亡くしたこともないぼくには、正直、彼女の言うことをすべて理解しているとは思えない。遊びに来るのはほんの1日か2日だし、状況をちゃんと把握してくるなら、それは個々の判断ではないかと思っていた。今も、少しそう思う。でも、未来をつくる子どもたちの安全は、おとなのものさしでははかりきれないのかもしれないと思う。みんながすべてを理解して、各々の選択をしてくれているといいのだけど、みんなが理解をするのは、なかなかむずかしい。だからぼくは、若い人には、当面、村には来てほしくない。
 さてでは、お山の草刈りなどに出かけてきます。余生短い人たちと、心置きなく遊ぶための準備です。