雪は降ったって春は春。シーズンは開幕してます。えいえいおー

飯舘村のこと

1105飯舘村村民の集い

村人は、うったえる

 我が川内村の北方に、その美しい村はある。気候や風土はほとんど変わらないのだけど、我が村のひとが(主にIターンの人たちだけど)あそこは美しいと声をそろえるから、ほんとうに美しいところなのだと思う。
 その飯舘村で村民の集いが開かれたのは、もう2ヶ月も前の、5月25日のことだった。表面上は、よくある地域イベントだったけど、それは不思議な空間でもあった。今ごろそのことを書く気になったのは、ぼく自身がまだなんだかわかってないからだ。いや、ずっと結論は出ないのかもしれないけれど。


 その頃の飯舘村は、ちょうど、計画的避難区域というのに指定されて、いつまでに出ていきなさいという日程が決まったところだった。我が川内村は全村が原発30km以内だったし、通信環境が全滅したから、村長の決断で3月16日にはみんなで村を出た。牛や動かせない病人がいるというんで「おれは出ない」という判断をしたひともいるんだけど、ほとんどが列をそろえて脱出した。ほんとうは、もっと早く脱出するべきだったのかもしれないけど、それは結果論だ。村の判断は、あの時点では唯一のものだったと思う。
 ところが飯舘村は、川内村より原発からうんと遠くにあった。ふつうに考えれば、安全だと思う。避難民も続々押し寄せていた。逃げろとも言われないし、危険だとも思わない。逃げることによる補償のあてもない。だからみんな、いつも通りの生活を続けていた。地震の影響は、川内村と同じく、ほとんどなかった。
 しかしだんだん、真実が明らかになっていく。故意なのか過失なのか、ただぼけっとしていたのかわかんないけど、そういう情報はお国からではなくて、民間から寄せられる。ちょっとデマみたいな話が、やっぱり本当だったということになる。そしてしばらくしてから、お国が対応に動くのだ。お国というところは(行政というところは)きっとそういうところなのだね。
 全村避難を前に、村人が集まるというのが、このイベントだった。ともかく、いってみた。川内村から飯舘村までは国道399号線を通る。途中、田村市都路、葛尾村、浪江町津島と通っていくのだが、標高の高い峠では車内のガイガーカウンターが10μSv/hを超える数値を示す。川内村の住民は数値が高い低いといっても、しょせん1μSv/h以下の攻防だったから、これはびっくり。峠を降りて飯舘村の役場あたりまでくると線量は2μくらいになるんだけど、そうすると、車内のびびりたちも、すっかり安全圏に入ったような気がして、呼吸我慢していて息苦しい思いをしていたのを取り戻すように、一気に深呼吸してみたりするわけだ。自分ちの村より倍から5倍くらい数値高いというのにね。
 飯舘村の役場には、隣接して図書館がある。本屋さんも兼ねた図書館で、村人のいい憩いの場になっている。なんだか感じのいいところだなぁというのは、役場の周囲を5分も歩けど実感できる。村営住宅も、こだわりのつくりをしている。この村に引っ越してきたら、田舎暮らしの場にこの村を選んでよかったなぁと思うにちがいない。

1105飯舘村菅野村長

あいさつをする、飯舘村菅野典雄村長

 こういう施策は、今の菅野村長のリーダーシップの元に進められてきたものだ。原発震災の後、コメが作れないならバイオマス原料を作付けしたいとすぐさま表明するなど、発想もすばらしい。この界隈では飯舘牛といえばブランドだが、そのブランドを作ったのも、この村長だったという。
 一説には、この人こそ日本の総理大臣にふさわしいのだというひともいるんだけど、この人が素晴らしいのは、農家の出身であって、農家のことをよくわかった上で農村改革をおこなってきたということだ。机上の計画ではなかったのだね。
 でもこの村長も全能ではない。放射線値が高いことが明らかになってもなお、避難をせずに村にとどまったことで、村民、特に若年層を被曝させてしまったのは確かだ。そこにはきっと、いろいろ苦しい事情はあるんだろうけど、結果論としてはそういうことになる。
 村長と避難を訴える村の若者たち。こういう図式は、ネット上でもいろいろ伝わっていたから、今回の集いも、そういう対決がテーマかと思っていたところもあった。
 集まったのは、目算で300人くらいか。村内の人がもちろん多いけど、ぼくら村外から来た人も少なくない。みんな、多少の差はあれ、飯舘村と縁のある人たちだ。
 おにぎりなどいただき、パネリストの話を聞く。司会は大学の先生だけど、パネラーのみんなは村人ばっかりだ。
「地元を離れるさびしさもあるが、安全も無視できない。避難なのか移転なのか、経済的にも先が見えない」と語るのは縫製工場の若旦那だった。「5歳と1歳の子どもがいる。福島市に避難しても、数値的に安心できるものではない。大丈夫なのか」とも。
 牛農家の嫁さまは「たくさんの牛をどうすればいいのか。移動も牛の負担になる。戻ってこれたとしても、土壌も心配だ。米が作れないから、牛のエサのワラも作れない」と窮状を訴える。
 独身者も意見を述べる。「とにかく子どもの安全を。復興を考えても、未来を担う子どもが健康でなければ始まらない。東京で飯舘村の話をすると、現地の実情がわかってもらえていなくて、びっくりする」。
 福島市あたりからもお客さんを呼んでいたという珈琲の焙煎をしていた人は「自宅での仕事を移転先で家賃を払いながら続け、しかも移転費用も必要となると、たいへんだ。何も悪いことをしていないのだから、しっかり補償してもらって、ちゃんと安全を求めて避難しましょう」とみんなに呼びかけた。「避難も、アパートではなく、土地つきを探しましょう。家に閉じこもっていたら、それはそれで病気になります。畑仕事をして、元気に避難しましょう」。彼らは、三重県に避難することにしたという。
 ようやく避難先を見つけてみると、村内では7つの事業所が残ることになったという。そんなことをして安全なのか、村で仕事をしていれば、いつの間にか便利だといって、村に住んでしまうことにならないのか、という意見もあった。計画的避難の中、いくつかの事業所を村内に残すことを決めた村長は、一部では高い評価も受けているが、それはこういう危険性の指摘との裏返しでもある。
 埼玉県に避難しているお母さんからの手紙も紹介された。「今、村がどうなっているのかをみたくても、放射能がこわくて帰れません。インターネットなどで、村の状況が分かるようにしてほしい」という要望だった。
 土地は預かりものだが、その土地がなくなってしまう。帰るふるさとが変わってしまう。そういった不安は、経済的な心配にもまして、とても大きい。あるいはまた、この状況を子どもたちにどうやって伝えようという提言もあった。今こそ、大人が子どもに生き方を見せられるときではないか、と訴えるひともいた。この人は子どもたちに「飯舘に帰りたい」と言われ、子どもにどんな背中を見せられるのか、悩んでいるという。

1005飯舘の加藤登紀子

加藤登紀子さん唄う

 みんなお話が熱くて、ほんの数分間のインターバルを置いて、加藤登紀子さんの弾き語りが始まった。加藤さんは、20年前に飯舘村にお呼ばれして、歌を披露したことがあったという。
 冒頭、菅野村長があいさつして、登紀子さんとの不思議な縁を語った。あれから20年たってしまって、加藤さんもお歳を召されたなぁというのが、村長の笑顔の挨拶だった。現れた加藤さんは、あの頃は私も若かった、と笑顔で返して、ミニコンサートが始まった。
 中に2曲、震災をテーマにしたものがあった。うちの1曲は、飯舘村が主人公だった。この歌が、将来どんなところで歌われ、どんなふうに聞かれるのか、ここで初めて披露されるという新曲をどんな思いで聴くのかは、聞く人それぞれのこれからによって変わっていくのだろうなぁと思う。
 飯舘に行くまで、村の人たちはもっと実態を知らず、国や県や村の指示をただ従順に待っている人たちだと思っていた。でもけっしてそんな人ばかりではない。ちゃんと事態をつかんだ上で、悩みぬいてこのときに至っている人がいっぱいいるのだと知った。
 いっしょにでかけていった川内村の面々は、飯舘村すげーなー、うらやましいなぁと言っている。ぼくも、ちょっとうらやましい。
 日本の将来について、しっかりしたビジョンがないという批判はよくある。そういう点で、飯舘はしっかりしたビジョンを持っている。それに比べると、我らの川内村は、たいへんに雑多なところだ。こちらに進もうと思うとそれはならぬという声があり、あちらに進もうとするとこちらもいいのではないかと声があがり、結局、どこにもいかずに時間が流れる。そして翌年もまた、同じような時間が流れている。
 たいへんにじれったい思いをすることは少なくない。しかしそれもまた、もしかすると日本社会の縮図ゆえのことなんじゃないかと、最近気がついた。ぼくらは、今こそ変わらなければいけないのだと思うけれど、それはけっして、簡単なことじゃない。
 一歩も二歩も先を歩んでいた飯舘村の人たちに、どうか少しの幸がありますように。