雪は降ったって春は春。シーズンは開幕してます。えいえいおー

2年たちました

2013年3月10日の1F

2013年3月10日の福島第一原発。西方13km地点より。こちらで大きな画像も見られます。5号機6号機も見えてます。

東日本大震災の時から2年が経ちました。

去年の3月11日は、全日本選手権開幕戦で茨城県の真壁にいました。

今年はそれがなくて、村にいました。去年、311のメモリアルデーに村にいられないのはつまんないな、と思っていたのだけど、いざその日に村にいると、村はあまりにもいつもと変わらない、なんでもない1日がすぎていくのでした。

考えてみると、ぼくらにとって311は、ちょっと大きな地震が来た日で、それ以上でもそれ以下でもありません。よその地域のことを思うと軽はずみなことは言えないけど、ぼくらの村では誰一人亡くなった人はいなかった。浜の町に仕事へ行ってる人は多かったけど、そういうみんなも無事だった。崩れた本棚をいつなおそうか、今日は余震が激しいから、しばらく放置しておくかと考えながら、その晩がすぎていったような覚えがあります。

変化があったのは翌日からで、まず朝一番で原発3km圏内に避難命令が出て、集会所を避難所として使う準備を始め、それから数日間は避難者の受け入れに一生懸命だった。やがてふと気がついたら、すでに村から脱出している人ばっかりだった。そして村長が「みんなで逃げよう」と決断して、以降、原発被災地住民となって現在に至ります。

そもそもの発端はもちろん3月11日の午後だったけれど、ぼくらにとってのメモリアルデーというか、記憶すべき瞬間は、もうちょっと別の時になるかと思います。たとえば12日の未明に避難命令が出た時かもしれない、それからしばらくして、1号機の建屋が吹っ飛んだときかもしれない、あるいはそれからまたしばらくして、2号機の配管だかなんだかがパンクして高濃度の汚染をまきちらしたときなのかもしれない。

それでも一番記憶すべき瞬間かなと思うのは、村長が「国の支援も県の支援もないし情報も来ないから、みんなで逃げよう』と判断した時だったと思います。それまで富岡から避難してきた人向けの炊き出しをしていたおばちゃんたちが、初めて涙を見せたのが、あの時だったから。

村は、今日は特別なセレモニーをなにもやりませんでした。なんかやればいいのにと思わないでもないけれど「あの日から何年」というセレモニーは、ある意味、過去を振り返る行事であって、いまだ被害を受け続けている現状では、まだまだ振り返る気にはならない、というのが正直なところかもしれません。

ぜんぜん関係ないけど、前日の3月10日、それまで晴れていた空があやしい鉛色になって、横殴りの雪が降り始めました。そういえば、2年前の3月11日、地震のあと、こんな感じの吹雪が降ってきたなぁと、そんなことを思い出したのでした。