雪は降ったって春は春。シーズンは開幕してます。えいえいおー

2013年の獅子舞

1305獅子舞
子ども3人が揃った高田島の獅子舞

川内村に、三匹獅子舞が帰ってきた。2年ぶり。西山獅子、町獅子、そして高田島獅子。昔はお祭りの日程は決まっていて、あちこちの獅子舞を観るチャンスはなかったということだけど、最近は地域によって日程がいろいろになったから、3つの獅子舞を観ることができた。震災によって失われつつある地域と地域の芸能文化などを考えてみるにはいい機会でした。

29日は高田島のお祭りでした。前の日がもてぎで世界選手権で、29日は藤波貴久と小川友幸を迎えてのアフターWCTという、とってもアットホームで有意義なイベントが開催されていたのだけど、もーしわけない、と帰ってきました。そういえば、ぜんぜん関係ない話だけど、その昔々、パリダカール取材をしていた頃、サポートが手薄いイタリアホンダチームの助っ人として砂漠に派遣された酒井さんというホンダマンがいらしたのだけど、この人、生まれが浅草だった。砂漠から帰ってきて、その後宇川徹選手だかを擁するホンダ全日本ロードレースチームの監督さんとなったのだけど、ある日大事な全日本選手権を欠席。その日は、命より大事な三社祭があったということで、チームも社内も「それじゃしかたない」ということになったそうで、なんだかこころあたたまる話があったのだけど、今回のぼくの場合、地元の皆さんにもたいして期待されているわけではないのだけど、やっぱり帰ってこなければいけなかった。新家さん(いつもお世話になっているツインリンクもてぎASTPのえらい人です)、ごめんなさい。

すいません、毎度のことだけど、ぜんぜん関係ない話だった。高田島のお祭りの話。お祭りというと、たいていの人は屋台と盆踊りとかを思い浮かべるようで、ぼくもそう思ったけど、ぜんぜん雰囲気がちがいました。まったく別のものというより、お祭りとはそもそも神社に感謝を捧げるもので、そこに人が集まるから屋台が店を出すようになるというのが正しい順序だと思うのですが、そもそもを知らずにお祭りにでかけていた少年たちは、お祭りといえばお神輿わっしょいと金魚すくいを思い浮かべるようになるのではないかと思います。

村のお祭りには、ずいぶん前から人がいません。原発事故以降は特にだけど、それ以前から人はいません。だから屋台も出ません。金魚すくいや綿飴のお祭り風景は、ここにはありません。そのかわり、そもそもお祭りとはなんだったかというところが、きっちり残されています。逆に言えば、それ以外のお祭りの要素が、ありません。

この2年間、しかし高田島地区だけは、春と秋、4回にわたってお祭りをやってきました。最初は事故後2ヶ月弱。このときはそのとき村にいた何人かでお神酒を上げておしまいだったそうだけど、秋からは獅子神楽が復活して、ちょっとお祭りらしい風景が戻ってきていました。でも3人の子どもたちで構成される獅子舞だけは復活していませんでした。だって子どもたち、いないんだもの。

子どもたちは、小学校3年生から中学3年生までの6年間(計算が合いませんね。いろいろあって、正解が見えてこない。引き続き調査中)、獅子舞の任につきます。獅子になれるのは、6年に一度、建て替えのタイミングにその年齢となっていた少年で、しかも長男に限るとされていました。だから獅子になりたかったのに、条件が合わずに涙をのんだ少年もいっぱいいたといいいます。月光仮面役はクラスに一人しか許されなかった、見たいな話かもしれません。

1305獅子舞
我が高田島のお祭りは、すぐこういうふうになります。たのしい

最近では、すっかり子どもが少なくなってしまって、長男を3人そろえるなんて無理、今の獅子には、初めて女の子がその任につきました。獅子の一匹は雌獅子だから女の子でもいいのでしょうが、そこはそれ、伝統というものがあるので、そこに至るにはなかなか決断が要ったことだと思います。

小学生が一生懸命獅子を覚えていく様はかわいかったし、頼もしかった。あれからもう4年がたちます。郡山と栃木に避難していた三匹の獅子は、3年ぶりに獅子をまといました。大人たちはほんの少しずつ年を取ったけど、2年ぶりの子どもは、うんと大きくなります。

そしたらまた、獅子舞がかっこよかった。3年前の獅子舞は、まだあどけないところが残っていた獅子舞でした。小さな子どもが一生懸命踊る姿が平和な空気を醸していた。今回の獅子舞は、そういうんじゃなかった。立派な舞踏に進化していて、びっくりだった。笛や太鼓は大人たちがやるのだけど、ちょっと忘れちゃったりなんかして、2年ぶりとはいえ、若さにはかなわないです。

5年前、なんで小さな子どもに獅子舞を覚えさせて、6年も拘束しなきゃいけないのかな(晴れ舞台は、基本春と秋の年に2回だけだけど)とぼくなりの疑問がありました。おっかないから、地域の人には聞けない。それにまぁ、そういうものなのだ、という答えが返ってくるに決まっていたから。

今回、自分自身が成長した獅子の舞いを見て、ちょっとこういうことなのかなと思ったことがありました。獅子舞は、毎年毎年神様に奉納されするだけじゃなくて、毎年毎年真価成長した姿を神様に見せてるんじゃないかと。去年の米はいいできだった、今年はキノコがいまひとつだ、去年の冬は寒かったと、村ではそれぞれの記憶で、1年1年の暦を刻んでいきます。獅子舞も、そのひとつ、なのではないかと。5年前の獅子舞はかわいかった。今年の獅子舞はかっこよかった。たくましかった。その変化を、ほんとなら1年1年見届けながら、6年がたって、また新たな暦を始める。それがまた地域の楽しみでもあったのだと思います。

もうひとつ、今回確認できたのが、獅子舞はたいへんむずかしい音楽で彩られている、ということでした。今回、もんもちプロジェクトの若い連中が来てくれて、高田島の唄など披露してくれたのだけど、その彼らが、獅子舞のメロディとリズムはさっぱりわからないといいます。

これまた、ずっと口に出せないでいたことがあります。笛は音階を外してるし、太鼓はリズムが崩れている、どうしちゃったのかなと最初は思いました。しかし何度も聞いているうち、それが正しいお祭りの唄なのだと気がつかされました。いったいこの音楽は、どうやって伝承しているんだろう。微妙なメロディのゆらぎやリズムの変調。それを含めて祭りの味わいなのだとしたら、その奥の深さは、ちょっとそっとでは理解できません。人生長いのだから、もう死ぬ頃になって理解ができるようになればいいのかもしれません。

「楽譜とは、伝承を容易にする道具であるけれど、音楽のもつ可能性を殺しているのかも」

お祭りに来てくれた音楽家の印南俊太朗(将来、名のあるミュージシャンになって、みんなの前に現れるかもしれない。現れないかもしれないけど)はこんなふうに感想を語ってくれました。祭囃子、そこには可能性がいっぱいです。

1305獅子舞
下川内の獅子舞。西山獅子というそうだ

数日置いて、別の神社で獅子舞が奉納されました。同じように獅子が出てきて、おそらく二匹の雄獅子が雌獅子の争奪をするというストーリーは変わらないのだけど、衣装や小道具や旋律は微妙に、あるいはまったくちがうものでした。獅子舞のちがいについて何人かに問うと、、やっぱり自分のところの獅子舞が一番かっこいいといいます。

3つの獅子舞は、それぞれにかっこよかったしそれぞれ魅力のある獅子舞だった。でもぼくは、ちょっと武骨で、それでいてあたたかみのある高田島の獅子舞が好きです。祭りのあと、「祭りはやっぱり高田島が一番だな、まぁ飲め」という洗礼を受けてきたからかもしれません。地域がつくられるというのは、そういうことなんじゃないかなぁと、まだまだ田舎者の道半ばではありますが、思うところであります。