雪は降ったって春は春。シーズンは開幕してます。えいえいおー

原発事故の思い出[歯ブラシ]

富岡町の人を中心に、浜に住む人が続々と川内村に避難してきたのは、震災の翌日、3月12日の昼過ぎからだった。富岡に近い村の中心の避難所は早々に埋まって、そこで相応の(とてもたいへんな)混乱があったあと、役場から10分強走った高田島に回されてきたのが、午後2時くらいだったんじゃないだろうか。

「腹が減った」

と入ってくる人が多かった気がする。朝からなんにも食べてないんだ、という。その朝、富岡でなにが会ったのか、みんなの話を聞くだけで、ほんとうのところはよくわからないのだけど、たいへんなことが起こっていたのはまちがいなかった。

大きな地震、そして浜に近いところでは津波の被害も少なくなかった。津波が突き抜けていった富岡駅やその周辺の家々は、ちょっとあとになって複雑な思いで見ることになったけれど、その時には少なくとも道路は往来ができるようになっていたから、3月11日当日は道路にがれきがあふれていたはず。

津波の時にみんながどんなふうに過ごしたのか、それから川内村に避難してくるまで、どうやって過ごしたのか、何人かには話を聞いたような気もするけれど、人のことはすっかり忘れてしまった。自分のことでさえ、そろそろ記憶があいまいになってきているのに、他人の話を覚えているなんてできないもんだ。

ともかく、彼らはなんとか富岡でその晩をすごして、朝を迎えた。家にいても電気はつかないし、あらゆるものが散乱していてたいへんなことになっている。手がつけられるものではない。それで、散歩というか、外の様子を見に出ていた人も多かったらしい。

そこへやってきたのが、避難を呼びかけるアナウンスだった。散歩していたおばあちゃんは、とるものもとりあえずクルマで避難を始めた息子に発見されて、そのまま乗せられて川内村へやってきた。持っていたのは、散歩用の杖だけだった。生活用品は、なにひとつ持っていない。

高田島は、150戸が暮らす小さな集落で、受け入れられるのも100人くらいだった。だけど小さな集落だけに、商店にはまだ商品があったし、その前に、ほんの数件だったけど、商店があった。最小限の生活基盤が、この集落にはあった。

2011年3月13日買い物

これは富岡のみんながやってきた翌朝、集会所に人が少ないなと思ったら、みんな近所を散策していた。中には、母親がこの集落出身だという人もいたけど、たいていはこんなところに来るのは生まれて初めてだという。このへんで歩いていけるのは2軒あるお店くらいだけど、みんな、お店巡りでもしていたのだろうか。富岡のお店は壊滅したか機能不全に陥っていただろうから、2日ぶりに日常生活を味わっていたのかもしれないし、ちょっと都会の富岡からすると、うんとど田舎のこの地域の非日常ぶりを味わっていたのかもしれない。

お店では、歯ブラシが売り切れていた。旅行に行くんじゃないんだから、歯ブラシを持ってきてる人なんて、ほとんどいなかった。在庫一掃で喜んでいる場合ではなく、困ったな、歯ブラシがないなとS商店のおやじも困っていた。

それで思い出した。あちこちに取材にでかけて、宿に泊まるたび、歯ブラシをもらえる。でも歯ブラシは自分のを持っているから、いただいた歯ブラシは持ち帰るようにしていた。最初は歯ブラシも宿賃のうちだ、くらいのケチな考えで持って帰っていたのだけど、そのうちそれが習慣になり、ふと気がつけば、日本のあちこち、世界のあちこちの歯ブラシが集まっていた。

その歯ブラシを、全部放出して、S商店で配ってもらうことにした。配るよと声をかければほしくもないひとまで手を伸ばすかもしれないし、S商店に歯ブラシを買いに来た人に、そっと配ってもらうことにしたと思う。

者を捨てずにとっておくのは整理がたいへんなだけだとよく怒られるけれど、ちょっといいこともあるもんだ。でも、世界中の歯ブラシはちょっとしたコレクションだったから、みんなに渡す前に、全部並べて写真の1枚も撮っておけばよかったなぁ。もちろん、あのときはそんなことをしている気持ちの余裕なんて、これっぽっちもないのだった。