暑さ・台風・大雨なんかには負けないぞ。でもとりあえず大岩には登ってみたい。

原発事故の思い出[電話]

川内村では、停電の被害はほとんどなかった。ただし電話通信網はどーんととだえたまま、だいたい1ヶ月くらいは電話が通じないままだった。

地震が発生した時には、だいたい通信は混んでいると思って、あとでゆっくり連絡すればいいやと思って電話が通じるかどうかは確認していなかった。その後、ちょっとだけSNSとかのやり取りをしたような気がする。ともかく、その日は連絡がとれていた。

最初にだめになったのは携帯電話だったか、その前に光通信網だったかもしれない。富岡の人に、どこか宿を予約したいから、インターネットを貸してくれないかといわれたんで、どうぞどうぞと家に連れてきたら、つながらなくなっていた。ネットは失ったけど、それでもしばらくは、お隣の黒電話はつながっていた。こういうときにはやっぱりアナログ機械の方が頼りになるのかなぁと思ったりしたもんだった。ところがそれも、半日後には通じなくなった。すぐ復旧するのではないかという期待もあったけど、川内の通信網の基地局は大半が富岡にあって、しかもその頃には取材の報道陣や、いろんな人が双葉郡から逃げ始めていたので、電話工事がそうそう簡単に進むとも思えない。こりゃ、しばらくは電話のない暮らしになるなぁと腹をくくった。

しかしぼくらとちがって富岡の人にとって、自分の家でなく山奥の集会所にいるんだから、それを伝えたい相手はいるだろう。それで、電話が通じるだろう、峠の向こうの見晴らしのきくところまで、電話をかけにいくツアーというのをやったのがこれだ。

2011年3月13日田村

ぼくのクルマに乗れるだけ乗って、その場所まではほんの5分かそこらなんだけど、とことこと走ってみんなを連れて行った。ぼくのクルマは定員二人だから、定員オーバー丸出しでのドライブだった。ついでにぼくも世間と連絡をとれる。

そこは大滝根山の峠を越えて、少し田村市側に降りたところで、常葉町、船引町が一望できる一角だ。みんな、あっちやこっちに電話していた。あの頃は、まだスマホ前夜だったのかな? SNSで発信するより、直接電話している人の方が多かった気がする。そういえば前日に役場に行った時、役場前の公衆電話に長蛇の列ができているのも目撃した。いよいよになったら、親しい人への電話なんだなと思ったもんだ。ぼくはSNSで無事だよと発信しておいたから、回り回ってなんとか無事の一方は届くだろうとタカをくくっていた。

探してみたら、当時のツイッター発信が残っていた。でかけたのは3月13日だと思っていたけど、これを見ると14日だった。役場へ行ったのが13日だったみたいだ。

3月12日 09:00:34
インターネット不通で消息不明になってました。ぼくら、無事です。浜の方は被害が多いし避難命令も出てるんで、比較的安全地帯のうちの地域は受け入れの準備を始めました。余震はまだ続いているけど。

3月12日 09:36:55
ドコモはつながらず。うちにはSoftBankのフェムトセルがあるんだけど、それはOK。水は全世帯地下水依存だからぜんぜん問題なし。盆や正月みたいに村の人口が急増中です。余震はまだ続いてるなぁ。ゴゴゴと山鳴りが来るから揺れるのはわかるけど、わかったって、どうしようもないのだ。

3月12日 09:37:58
みなさん、ありがとう。ネット難民だったからみんなが心配してくれてるのがわからず、お隣にみんな集まってどうしようという相談をした結果、今はなにもできないから、飲んでるしかないべ、ということになってしまった。もうしわけない。

3月14日 13:50:46
こちらはぜんぜん大丈夫。村の人と、富岡から避難してきた人のお世話してます。いま、山の上から通信中。みなさんによろしくお伝えください。

3月14日 13:51:50
川内村は一部避難区域。うちのあたりは大丈夫。

ぼくにとっては、通信網の遮断が、いったん村を出る決め手になった。仕事にならないから。通信網が復活するのは1ヶ月後で、電話が通じたから帰ってきたら、4月になってまた大きな余震があって、それでまたしばらく電話が通じなくなってしまった。復旧というのは、一筋縄ではいかない。