3月12日、たぶん午後1時過ぎ、2時近くだったと思う。これが、富岡の人がうちの集会所にやってきた、最初のお食事風景だった。
みんな、腹が減ったと、おにぎりにとびついていた。富岡からうちの集落までは30分強。でもこの日は、道がずっと大渋滞だったろうから、2時間とか3時間とか、あるいはもっとかかっていたにちがいない。朝ご飯を食べた人たちだって腹が減っていただろうけど、たいていの人は朝ご飯前に避難しろと言われて出てきた人ばっかりだった。
ちょっと顔が見えちゃってて、プライバシーがどうのという話になるかもしれないけど、まぁ許せ。
配膳やら、富岡の人の要望などを聞きながら、だけどぼくはぜんぜんちがうことを考えていた。こういう光景、特に珍しい感じがしない、ということだった。もちろん必死でおにぎりをほおばっている人たちは、会ったことがない知らない人ばっかりだ。だけどこんな光景は、年に何度も見ている。
それはお祭りだ。年に2度の例大祭、夏祭りみたいなのもある。地域の総会もある。そういうのをやるたびに、おにぎりを握ったりして、ちょっとした宴を出す。それがこういう地域の日常だった。その日常のまま、富岡の人の避難を受け入れている。
村の中心地みたいに、ひとつの施設に1,000人とか受け入れてしまったらどうしようもないかもしれないけど、ぼくらの場合、集会所で100人内外の人に飯を食わせるのは、そんなに珍しいことではなかったのだ。
お祭りや日常の行事は、避難訓練だったのだ。そう気がついて、先人たちはなんと合理的な暮らしをしていたのだろうと感心した。都会の暮らしは合理的だと思っていたけど、あちらはなにかハプニングが起きるたびにパニックになる。こちら、この程度のことは日常なのだ。
こちらは日常、村の中心地の体育館などはちょっとパニック、ということで、その格差がその後にこんな悲劇(富岡役場の人が来た話)を生んだりしたのだけど、まず、ぼくらは富岡の人につかのまの落ち着きを与えてあげられたと思っている。