富岡(だけではないのだけど、あのときの避難は浜から西に平行移動してきたから、川内村に上がってきた人のほとんどは富岡町からの人だった)から避難してきた人を受け入れて一夜が明けた。炊き出し支援も2日目になる。
防災無線では、かくかくしかじか、富岡の人がたくさんやってきています。お食事を提供しなければいけないので、お米や野菜など、食材の提供をお願いできないか、という案内が流れていた。当然のお願いだった。
写真は13日午前中の、村が作った直売所あれこれ市場前。次々に支援の食材を持ってやってくる人がいる。たまたまぼくのカメラにおさまったのは村で唯一のカフェをやっていたYさん。Yさんのお店は裏の造成した法面が崩れてきて店内に土砂が入り込んで営業できる状況ではなくなっていた。やがて、中に入り込んだ土砂を取り除いたところで営業を再開できる状況ではないということで事業撤回に追い込まれるのだけど、この時にはまだそこまで先のことを決断してはいなくて、富岡町の人のために支援物資を届けにきたというシーンだった。
Yさんに限らず、この頃の川内村の住民は、その後自分たちがそろって避難しなければいけなくなるなんてこれっぽっちも思わず、せっせと手持ちの食材を提供していたもんだった。あとになって、それをマンガみたいな話だったと振り返る人もいた。しかしそれでも、困っている人がいたらなにかしなければがまんできないのは、ここの村人に染みついた習性なのだ。
こういう支援が届くのは村人の素晴らしさだが、しかし集会所で炊き出しをしている面々は気がついた。うちの集落のみんなは、うちの集会所を通りすぎて、村の真ん中に食材を運んでいるのではないか。村に届いた食材が、きちんと配分されてまたこっちに戻ってくるならそれでいいんだけど、さっぱり戻ってこない。全体として食材は足りないのだから、そんな配分があるわけないのだ。
それで役場にお願いして、防災無線を第一区(ぼくらの集落だ)限定にして、第一区集会所に食材をください、という案内を流してもらった。それで、近くの人たちは、うちの集会所に食材を届けてくれるようになった。
8つある行政区のうちのひとつが、100人ちょっとの避難者に向けて全力で取り組めば、けっこう快適な対応ができる。村全体で考えたら、食材が足りなくてひぃひぃいっている体育館とか小学校に回してあげてしかるべきだけど、役場までクルマで10分かかるし、ほうっておいたら村からの支援がなにもないところでは、自力で体制を作るしかない。これも、地震が起きたからではなくて、川内村が成立してから今まで、ずっと続けてきた地方自治だった。