大きな揺れから、一晩がすぎ、二晩がすぎた。ぼくたちには、少なくてもぼくには、まだ余裕があった。村の中では、原発があぶないと言って遠くへ逃げ始めている人もいたけれど、富岡の人のめんどうを見始めちゃったので、みんなを置いて逃げられない感じになっていたし、というより、逃げるという発想がなかった。
富岡の人の中には、家族の消息がしれない人がいた。津波のあとの無事は確認しているから、命の心配はないけれど、そのとき、たまたま別々にいて、一緒に避難できなかった人たちがたくさんいた。連絡とりあっていっしょに避難すればよさそうなもんだけど、それができないせっぱつまった状況だったのだろう。いろんな意見はあると思うけど、結果論としては、もうちょっとゆっくり避難してもよかったんじゃないかとぼくは思うけど、いろんな考え方があるし、第一、あの現場ではまず逃げるべし、だったのと思う。
結果的に、富岡よりも線量の高いところで避難していないところもあったりと、お国の避難誘導はでたらめだった。原子力事故について、なにも考えていなかったに等しいのは、たぶんほぼまちがいない。
でもお国の無策については、まぁいいや。よくないけど、そんなことを言い出すときりがない。とにかく、家族の行方がしれない人が、高田島にやってきた人の中にも、けっこういた。それが当面の心配事だ。
それでぼくは、行方不明のみんなの住所とか名前を聞いて、わかる範囲で調べてくるといって、役場へ向かった。役場は、予想はしていたのだけど、大にぎわいの大混雑だった。役場が、というか、役場の周辺にひとがあふれていた。
今はもうなくなったけど、役場の前には公衆電話があった。たぶん、まだ電話が通じたんだろう、公衆電話には列ができていた。みんな、それぞれに尋ね人がいるらしい。電話のある広場では、友人同士が思わぬ場所で再会の喜びで飛び跳ねている姿もあった。何日かぶりに会えた友人だったのだろう。
集会所に避難した人の尋ね人は、役場ではほとんど消息が知れなかった。もともと、見つかるとは思ってはいなかった。そもそも、うちの集会所に誰がいるのかも、ぼくら自身がわかっていない。他の避難所にいる人の消息が知りたいのだから、こちらの情報も必要だろうと、一応名簿は作ってもっていったけど、人数が莫大なよその避難所は、まだまだ名簿なんか作っている余裕はないみたいで、だから尋ね人がどこにいるのかはさっぱりわからない。
10人くらい持っていったリストの中で、ただひとり判明したのは、子ども二人とお父さんの3人家族のお母さんというか奥さまだった。奥さまは役場の診療施設かなにかで働いていて、それで家族とは別に、そちらの関係で避難をしてきた。ふつうの人の消息はつかみきれないけど、役場の関係の人は役場の関係の人には多少知られていた。役場で、この人知りませんか? と聞いていたら、通りがかった富岡の役場の人が、この人なら中学校の体育館にいて、みんなのお世話をしているよと教えてくれたのだ。
そうそう、川内村の役場に、なぜ富岡の役場の人がいるかといえば、町の人と一緒に、役場の人も避難してきちゃったからだ。川内村役場は、問答無用で富岡町との合同役場になってしまっていたのだ。富岡町役場の人が、どこで寝て、なにを食べていたのかはぼくは知らない。自分のクルマで寝たり、役場のイスを並べて寝ていたりしたのだと思う。富岡は震災以降停電が続いていたということだけど、川内村は電気は止まっていなかった。それがほとんど唯一の救いだ。電気がなかったら、水が凍ったり凍死したり、いろんな事件があったんじゃないだろうか。発電所の事故でこんなことになってるんだけど、そんなときに電気が大事だと気がつかされるのは皮肉なもんだ。
中学校へ行って尋ね人の名前をいうと、その人はすぐに現れた。ご家族はうちの集会所で元気にしてますと伝えると、ちょっと考えて、そしたらそのままよろしくお願いします、わたしはこっちでみんなのお世話をしていきます、と返事をくれたので、集会所に帰って、その旨をお伝えした。
彼らと、他の消息不明のみなさんが、いつどんなふうに再会したのかは、いまだにわからない。もしも彼らと再会することがあったら、お互いのあの頃を報告しあって、それで一晩くらい酒が飲めるかもしれないけれど、もしかするとなにも話す気になれないかもしれないな。