3月12日の夜。富岡のみんながうちの集会所にやってきた最初の晩の写真が、これだ。
集会所にぎっしり布団を敷いて、隙間なく寝てもらった。こういう雑魚寝が得意でない人は当然いて、そういう人はクルマで寝ていたりしていたみたいだったけど、クルマの中で寝るのは疲れるし(ぼくは1週間くらい車中泊で過ごしたことも歩けど、ふつうの人はそんな経験はないはずで、慣れない環境で寝るのは疲れるはず)、できる限り集会所で寝てもらおうというのは、地域みんなの考えだった。
集会所は人が泊まる想定ではないから、集会所に布団があるのは、そもそもおかしな話だ。でもぼくらの集会所には、布団があった。この布団は、知り合いの会社が保養所を閉めるという時にまとめてもらってきたものと、村の小学校の体育館を壊す時、スポーツ少年団の合宿用の布団をもらってきたものだった。プレハブの建物を使わせてもらって、そこに保管しておいたものが、役に立った。
集会所にはお風呂はない。富岡の人たちも、お風呂に入れるとは思っていないからそれでよし。温泉施設のかわうちの湯も避難所になっていたから、あっちはお風呂に入れたのかと思いきや、地震で露天風呂が割れたり、いろいろトラブルもあって、お風呂は使えなかったそうだ。こちらの住まいにはお風呂はあるのだけど、全員を入れてあげるわけにもいかないし、もうしわけないけどがまんしてもらうことにした。
集会所には、大広間ともうひとつ、6畳ほどの小部屋があった。こちらには、生まれたばっかりの子どものいる人に入ってもらった。大人はいいけど、赤ちゃんを風呂に入れないではさすがにかわいそうだ、ということになった。それで、富岡の人にはあんまり知られないように、こっそり誰かが自分の家に連れていって、お風呂に入れてきた。体育館や小学校にも赤ちゃんはいただろうけど、そっちはどうしていたんだろう。
支援物資の支給は、早くもその頃から始まっていた。荷物が運ばれてきて、どんなものがいりますか? なくて困っているものはありますか? とたずねられる。ところがこのとき、誰が対応したのか、赤ちゃんはいない、と返事をしてしまって、紙おむつの支給をもらいそこねた。赤ちゃんが小部屋にいるのを知らず、大部屋に大人(小学生くらいの子どもはいた)しかいないので、それで全部だと思った人が返事したものと思われるが、この避難所を誰が管理するのか、管理すべきなのか、この頃からどうにかしなきゃいと思い始めていた。
とはいえ、布団で寝ることができる避難所なんて、たぶんうちの集会所だけだったんじゃないだろうか。ぼくが持っている震災当時の写真は、そういうこともあって、世間の震災報道写真よりはずいぶんとのほほんとした光景のものが多いのだけど、のほほんと見えようが、本質的に彼らが厳しい状況に置かれているという事実には変わりがなかった。