雪は降ったって春は春。シーズンは開幕してます。えいえいおー

原発事故の思い出[笑顔のおもてなし]

なかなか話が進まないのだけど、撮った写真をできるだけお見せしちゃいたくいので、まだ震災当初から進めません。すいません。

3月13日。富岡の人たちが避難してきたその日は、たぶん川内村役場もまだ余裕があったんだと思う。自分たちが逃げなければいけないなんて緊迫感はあんまりなくて、あくまで富岡の人たちがたいへんなことになったので、そのお世話をしているというスタンスだった(でもじわじわと、そして急速に事態は変わっていくことになるのだけど、そのへんの詳細は、ぼくは役場にはほぼ寄りつかなかったので、わからない)。

村役場には富岡役場が間借りをして、情報交換などもしていたから、原発周辺の緊迫した雰囲気も多少は伝わっていたと思うけど、ぼくらの集会所では、よくも悪くも役場からクルマで10分。過疎の村のさらに僻地だけあって、まだまだ心配なんかしないで、おくさまたちは富岡の人たちに食べてもらう食事のしたくなどをしていた。

2011年3月13日台所

台所で動いているのは、うちの集落の奥さまたち。もう1枚の写真には、富岡に住んでいて、真っ先に逃げ帰ってきたEちゃんが台所仕事しているのも写っている。前にも書いたけど、こういうことはお祭りとか集落総会とかでよくあることなので、この台所を使ってみんなで料理するというのは、珍しいことじゃない。

みんなでお料理していると、村長もやってきた。表敬訪問というか慰問というか、そんなところだと思う。

2011年3月13日村長と

富岡からやってきた人の中には、川内村には初めてきたという人もいたけれど、キノコとりや山菜取りや、そんなこんなで川内村に縁のある人もけっこういた。だいたい半分が川内村初心者で、半分が川内村経験者だったように思う。中には、お仕事で川内に来ていたり、川内の人が仕事でよく訪ねた先の人もいた。

村長と談笑しているこの人は、どういう知り合いだったかわからないけど、村長とは顔見知りみたいだった。人によっては笑ってる場合じゃないだろうと思うかもしれないけど、笑う時にはちゃんと笑わないとまいってしまう。そういうことを、原発事故が教えてくれたような気がする。