暑さ・台風・大雨なんかには負けないぞ。でもとりあえず大岩には登ってみたい。

原発事故の思い出[ベンチにて]

集会所の入口には、一枚板で作った机があって、ちょっとお休みができるようになっている。村人的には、あんまりここで休んだりする人はいないのだけど、このときばかりは、ちょうどいい休憩所となっていた。

このテーブルは、この集会所を作る時に伐採したイチョウとポプラの木があったのだけど、確かイチョウはまな板にしてみんなに配り、ポプラはこんなふうにテーブルにして、集会所やお墓の東屋の休憩所にしたものだった。

震災後は、小学校中学校の送り迎えは自宅前までバスが出向くようになったので、子どもたちがどこかに集うことはなくなってしまったけども、震災前はこの界隈の子どもたちは、ここに集合してみんなでバスに乗っていった。なんで玄関前まで迎えに行くようになったのかというと、除染していないところが残っているうちに子どもたちを歩かせると被曝してしまう、なんて心配があったからなのだけど今思えば、そんな小さな数値の放射線量を心配してるより、ちゃんと外で遊んだほうが健康な暮らしが続けられたのになと思ったりする。まぁ、お国が決めたことだから、しかたがない。

2011年3月13日ベンチ団欒

集会所の中は、動きたくない人が座り込んでいるし、じっとしているのがきらいな人は、表へ出て散歩をしたりする。でも子どもや若者は、みんなゲームが好きだ。集会所の中は人がいっぱいなので、たぶん彼らにしては珍しく、アウトドア・ゲーム三昧となった。こんな状況下でなおゲームがしたいのかと思わなくもないけど、ゲームして気を紛らわすくらいでちょうどよかったのかもしれない。

そうこうしているうち、この避難は1日や2日ではないという現実が、富岡の人にもこちら側にもわかってきた。となると、食事の世話やらなんやらを、全部地元側がやっていたのではこちら側もまいってしまう。

そういう現実が発覚してきて、今後について話し合いが持たれることになった。食材は提供するから、食事のしたくとか洗い物とかトイレの掃除とか、そういうのはそちら側でしっかりやってくれと、確かそういうところに落ち着いたんだと思う。

ということで、川内村高田島内富岡町自治体設立準備のためのミーティングが、もう1枚のテーブルでのできごとだった。たしかゲームをしているみんなにちょっとどいてもらって、会議室を確保したのだった。集会所の中は、ゲームもできないほどに人がいたし、世話人役をしてもらえそうな何人かに出てきてもらって、そのへんのいろいろを相談したのだった。

2011年3月13日ベンチ会議

ただし結局、この自治会は長続きできなかった。自治会が機能する前に、みんな集会所から逃げ散っていって、おいかけるようにぼくらも村を出ることになったからだ。