雪は降ったって春は春。シーズンは開幕してます。えいえいおー

原発事故の思い出[人が多きことは]

川内村が富岡町の避難を受け入れたのは、結局ほんの3日か4日でしかなかった。その後、川内村と富岡町は一心同体みたいにして郡山に避難することになる。

数日間、集会所はにぎやかだった。集会所は畳があって布団があって、人数も常識の範囲だったから、にぎやかとはいえ、それほど異常な雰囲気にはなっていなかった。13日に役場前に行ってみた時には、駐車場であれなんであれ、そこら中にクルマが止まっていて、かきわけるように自衛隊のメガクルーザーが走っていたりして、早々と異様な雰囲気を醸し出していた。川内村といえば、東京といわず、郡山や富岡の人から見ても山奥の田舎だと思うんだけど、高田島目線から見ると、役場前はずいぶんと都会で、状況がいろいろちがうもんだなぁと思ったものだ(この感想は、震災時だけじゃなくて、実は常にある。地方と中央の格差というか差異は、どこにだって存在する)。

2011年3月12日の役場前

ぼくの住み処はちょっと高いところにあって、夜担って「また明日顔を出すね」といって家に帰りかけて振り返ると、避難所となっている集会所を見下ろせる。集会所にクルマがいっぱい止まっているのはにぎやかでいいもんだなぁと、あの頃思ったものだった。事態が事態だから、言いも悪いもないというか、どっちかというと悪い結果の話なのだが、人が少ないところに住んでいると、なんであっても人が多いのは悪くないと思ってしまう。人の多い都会暮らしがいやになってこんなところにひっこんできたぼくが言うのだから、まちがいないのである。

2011年3月12日夜の集会所

この夜の集会所は、一晩目の12日夜に撮ったものだけど、この光景は14日夜までの3日間限定だった。15日朝、集会所へ出かけていったら住民はめっきりいなくなっていたという話は「原発の思い出[3月15日]」に書いたけれど、村全体で脱出することになったのは、16日のことだった。