雪は降ったって春は春。シーズンは開幕してます。えいえいおー

ラジオと運転台

バイク教室の子どもたち
本文と関係あるようなないような、バイク教室の子どもたち。
オートバイの乗りかたより、ちゃんと乗らないとあぶないという
危険意識を勉強することが、なにより意味があるんだと思う

 前回公開しちゃったんで、もう恥ずかしがるのはやめて、言いふらしちゃおう。ネットラジオの続編が公開されています。 ライブドア〈ねとらじ〉のRadio U、『あいぶんこジャーナル』のiBUNKO Journal No.61です。
 で、ラジオとはぜんぜん関係ないんだけど、東武鉄道の運転手さんがクビになっちゃいました。


 懲戒解雇の理由は、自分の子どもを運転席に入れたからということで、ご時世的に、たいへん納得の理由です。解雇は厳しすぎるという意見が殺到しているそうだけど、事故が起きれば、どうしてこんな運転手を雇い続けていたのかと攻め立てるのが世論ってもんだから、ご本人たちにはたいへんお気の毒だけど、クビはクビでよかったのではないかと思う。自分のことになったら「お願いしますよ〜、許してくださいよ〜」と土下座して泣きわめくかもしれないけど。

 そういう話をしたかったのではないのだ。クビでも恩赦になってもいいのだけど、そういう時代なのだなぁと痛感したというお話。
 ぼくは中学校から高校生の頃、蒸気機関車が好きであっちこっちにでかけていた。最後のほうは、蒸気機関車が好きなんだか旅が好きなんだか、ただふらふらするのが好きなのかよくわかんなくなっていたけど、ともあれ、ローカル線のホームで機関車を見ていると、かなりの確率で「坊主、乗ってみるか」と運転台に乗せてくれたりした。ぼくはたいてい、機関助手の席に座って、お釜に石炭を放り込む機関助手の働きっぷりや、運転手のスロットルワークを眺めていた。今だったら、あの親切な運転手さんたちは、みんなクビなんだなぁ。
 ぼくの弟は、飛行機が好きで、一応パイロットの免許も持っているんだが(宝の持ち腐れ)飛行機でも、けっこうコクピットに入れてもらったりしたもんらしい。わざわざ入れてもらわないでも、運転席と客席のドアが閉まっていないのも多かったから、コクピットをのぞくのも簡単だったのだけど。その機長さんも、今ならクビでしょう。

 たぶん、昔っからいけなかったんだろうけど、いけないことにたいしての罰則が、うんときつくなったのかもしれない。はじめて海外旅行をした頃、外国ってのは飲酒運転は不問なのだと思っていた。けっしてそんなことはない。事故を起こさなければ、多少は許すというだけの話だったみたいだ。今は、事故を起こす可能性は、ちょっとでもつぶしておくという姿勢なんだろう。

 そうそう、蒸気機関車の旅をしていた頃は、客車ってのは扉は手で開けるもんだった。閉めるのも手動。動いているときでも、扉は開く。混んでるときには扉を開けて、デッキに腰掛けて風に吹かれていた。当時の列車のお便所は垂れ流し式だから、前のほうでいたされた方の物体は、ぼくの鼻先にも飛んできただろうけど、まぁそんなことは気にしていられない。垂れ流しも、今じゃ許されないことですね。
 今じゃ、窓が開く列車だって少なくなった。自動車も、窓が開かないのが多くなって、エアコン前提の設計をしてるものが多い。デッキに腰掛けて旅をしたなんて、なんてあぶないことをしていたんだろうと思う一方、そういうことがあたりまえの時代だったんだなぁと、今から30年前の日本を、少しなつかしく思った。
 でも、その20年弱前、終戦直後の日本では、列車の乗り方はこんなもんじゃなかったんだね。機関車のデッキにまで鈴なりだよ。乗るほうも走らせるほうもおっかないと思うんだけど「乗る人がいるからしゃあねぇじゃないか」「客室にはいりきらないんだからしゃあねぇじゃないか」てなもんで、油断をすればすぐに死ぬという状態で、列車は走った。
 慣れれば、自分の安全はなんとか確保できるようになるんだと思う。キャメルトロフィーに取材で参加したとき、リヤゲートにつかまってよく移動した。狭いクルマに乗り込むより、屋根につかまってしがみついていたほうが楽しいんだもの。ジャングルだし、落ちても死ぬことはないかもしれないけど、ケガはする。ジャングルだから、木々を掻き分けて進むんで、ときどき身を低くしないと、木の枝に顔をはたかれたりするリスクはある。でもみんな、上手に木をよけながら、リヤゲートにしがみついていた。でもこれも、誰かが禁止令を出しちゃった。あぶないなんて言い出すなら、キャメルトロフィーなんてやらなきゃいいだろうと思ったりしたけど、これも時代だ。

 で、トライアルのお話。いまどき、オートバイにはいろんな安全対策がほどこされている。ブレーキを思い切りかけてもスリップしない装置とか、スタンドを上げないとエンジンがかからないとか、親切この上ない。ところがトライアルでは、そういう親切さがほとんどない。ぜーんぶ、ライダーが自分で考えて、自分で道をつけなさいということになっている。ニュートラルランプまでついてないから、これだけでとまどってしまう一般ライダーは多いんだ。
 でも今のご時世、安全は自分で得るべしという思想は貴重だ。安全安全とがんじがらめにしておいて、それでいて子どもたちの運動感覚がにぶっているとか、危機意識が薄いとか言われても、そりゃそうだろうと思ってしまう。トライアルというスポーツは、スポーツとしてみたら当然なんだけど、オートバイ遊びとしてみると、桁がちがうほどに危機意識を要求されるものだ。オートバイに乗ったり、山の中を走ったり、セクショントライをしたりという楽しみもトライアルの大きな魅力だけど、自分を危機にさらすことができるというのも、今どきの世の中にあっては、トライアルの得がたい魅力なんじゃないかと思う。

 危機意識が薄いいまどきの現代人たちは、みんなトライアルをやったほうがいいよね。トライアルがうまくならなくても、危機を実感するだけで、きっと大きな意味があるにちがいない。