雪は降ったって春は春。シーズンは開幕してます。えいえいおー

三宅島にまつわる複雑な思い

 噴煙を吹き上げる三宅島。ここでTTレースをやろうとぶち上げた人がいる。石原慎太郎さん、東京都知事だ。
 そのニュースを知ったのは1月末のことだったけど、それから半年、ふたたびそのニュースは、悲しい知らせとともにやってきた。
 なにが書きたいのか、自分でもよくわかっていないので、読んでいただいても混乱するかもしれないけど、書いておこうと思いました。


 最初のニュースはこれ。ちょっと前の朝日新聞のWEB記事。元ネタが消滅しているので、引用させていただきます。

三宅島復興へ村が二輪レース構想 提案は石原都知事
2006年01月28日22時40分
 噴火による全島避難が解除されて2月1日で1年を迎える東京都三宅村が、島の復興策として、世界に通用するオートバイレースの開催を検討している。平野祐康村長は「帰島直後は余裕がなかったが、今年こそ海外のレースを視察して参考にしたい」と話し、夢の実現に向けて一歩を踏み出した。
 きっかけは、1年前の石原慎太郎都知事の言葉だった。知事は村長に対し、世界的イベントのオートバイレースで知られる英領マン島を例に挙げて、「三宅島は起伏に富んでおり、腕に自信のあるライダーにとっては魅力のある場所」と提案。村は1年間、夢を温め、来年度予算案でマン島への視察費を計上した。
 平野村長は27日に石原知事と会い、応援を要請。石原知事は「レース開催は吸引力になる」と改めて勧め、「三宅島でやらなきゃ八丈島がやると言っている」と村長の背中を押したという。
http://www.asahi.com/national/update/0128/TKY200601280272.html

 実はこれを見てすぐ、ぼくは三宅島の村長にメールをした。メールの内容は「三宅島はマン島にもなれるかもしれないけど、その前に魅力的なトライアルフィールドで、トライアル大会なら今すぐできる。コース整備にかかる費用もゼロに近い。ロードレースとちがって、広い年齢層を受け入れられる。ロードレースもいいけど、とりあえずトライアルを検討しててみちゃくれないだろうか。日本全国には、見本となるようなトライアルイベントがいっぱいあるよ」というものだった。ここだけの話、少しお酒飲んでて気持ちが大きくなって書いたメールだったけど、書きながら、メールじゃパンチがないから、あらためて資料とともに郵便を送ろうと思いつつ、ぼくの悪いくせでそのままになってしまった。
 そしてマン島TTの季節になった。なんと石原慎太郎が三宅島の村長とともに視察にいくという。これにはMFJ会長の鈴木さんも同行されていた。東京都でTTレースを開催するとなったら、MFJが出ていかないわけにはいかないよね。
 マン島TTに毎年取材にいっている小林ゆきさんの報告によれば、鈴木会長は石原知事に“他のカテゴリー”の説明もしたけど、知事はロードレースにご執心だったとのこと(ほかのモータースポーツを知らないんじゃないのかな、とは思ってても言ってはいけない)。知事がそういうことなら、三宅島村長も、トライアルは却下だったのだろうなぁと、そのときはニュースを読み飛ばしてしまった。こういうおいしいネタが転がっているのに、自分を含めて、トライアルは本当にもったいない。おいしいネタを、次から次へと見逃している。
 石原慎太郎のマン島視察はテレビのニュースにも登場した。テレビはマン島については(たぶん)どうでもよくて、石原慎太郎と三宅島の将来という視点で報道をまとめていたけど(当然だ)、そこにはひとりの日本人ライダーが映っていた。前田淳。彼はぼくがまだロードレースに足しげく通っていたふつうのモータースポーツジャーナリストだった時代、新進気鋭の若手ライダーだった。鈴鹿4時間耐久でも優勝したことがあったような気がしていたんだけど、調べたら北川圭一(耐久世界選手権世界チャンピオン)と組んで2位になったことはあるが、優勝はみあたらなかった。優勝が本命視されながら勝てなかったのかもしれない。
 NSR使いのシャープなライディングをするライダーという印象があったから、マン島に出場するというニュース(最初は97年のことだったという。ちょうど、黒山健一が世界選手権で初優勝した頃だ)を聞いた時には、ちょっとミスマッチな感じがしたものだ。
 マン島ってところは、今やおそろしくリスキーで、ノスタルジックで、しかし牧歌的なサーキットだ。サーキットという言い方は正しくないけど、サーキットの中に人が住み、サーキットとともに人々の人生がある。今現在マン島で暮らす多くの人々にとって、マン島TTは自分が生まれる前からそこにあったものであって、日本人が軽々しく「伝統の」とか「歴史ある」なんて言ってはいけないような神々しさがある。そのへんは、同じく長い歴史を持つ(言ってしまった)SSDTと共通したものがある。
 ぼくがはじめて海外のモータースポーツに触れたのが、実はマン島TTだった。まだ22歳だったなぁ。そこにはひとりのおじさんカメラマンがいて、英語がほとんどしゃべれないぼくに、いろいろと教えてくれたものだった。25年たって、今ぼくはそのおじさんと数々のトライアル場でいっしょに崖を登り、よくわからない冗談を言い合っている。エリック・キッチンさんというんだけど、キッチンさんとはライディングスポーツ時代に写真を提供してもらったこともあったし、ちょっとした関係なのだけど、本人に25年前のマン島のことを話すと「覚えてないなー」と言う。まぁ当然でしょうね。そういえば、おととしだったか、エリックがもてぎの日本GPに来日する来、カメラのチャージャーを忘れてきたことがあった。現地から(人づてに)連絡をもらって、ぼくは町田のヨドバシカメラまでチャージャーを買いにいきましたよ。70歳をすぎて、ぼくらといっしょにトライアル取材をするのだから、ものすごい元気だ。「チャージャーを忘れなかった?」と聞いたら「今回はFIMのプレスゼッケンを忘れた。この前は撮影しようと思ったら、メモリーカードを家においてきてしまったことに気がついて青くなった」と忘れ物談義。忘れ物ではぼくも負けてはいないのでね。
 いけない。エリックの話ではなかった。しかしそうやって、エリックと友だちになってみると、イギリスという国の歴史や文化の大きさに、あらためて圧倒される。エリックはお父さんの代からスコットランドに通い続けている。マン島のコースを見ても、一家でコースマーシャルをやっている風景をよく見た。旗を振るお父さんの横で、お母さんが赤ちゃんにおっぱいをあげていたりするのだ。あの赤ちゃんも、今年あたりはいっぱしのコースマーシャルとなって旗を振っているにちがいない。そういう壮大な時間の流れが、この島にはある。
 前田淳は、だから最初は、一見さんの外様ライダーだったのだと思う。だけど彼ははまってしまった。そのあたりの経緯は、彼のレポート(http://www.mmbc.jp/mmbc/jun/)に詳しい。Webで拝見する彼最近の横顔は、マン島の歴史に根付いてきたように見えた。
 さて、テレビで石原慎太郎と前田淳の姿を見た数日後、前田淳クラッシュ重症というニュースを知った。骨盤骨折ということだったからたいへん重症だけど、ロードレースではよくある骨折なのだと、その時は思っていた。それが5月29日。
 ところが6月5日になって、彼は亡くなった。今度は一般紙でも取り上げられて、ぼくは杉谷からその情報を聞いて、びっくりした(前田淳死去を伝える前述小林ゆきさんのエントリー)。「誰か死んだらしいよ」という杉谷の他人事の言い方が悲しかったけど、杉谷には本当に他人なのだから、しょうがない。
 前田淳は、スタートしてわりとすぐのユニオン・ミルズというコーナーの先でスロー走行していて他車に追突されたらしい。ユニオン・ミルズは、かの昔、高橋国光が生死をさまよう大クラッシュをしたところだ。あれから50年近くたって、奇跡は2度起きなかった。
 これから、三宅島のロードレース計画がどういうふうに進むのか、ぼくにはさっぱりわからない。石原慎太郎と三宅島村長が「ロードレースはやっぱりあぶないですね」という結論になっちゃったら、それは絶対に前田淳にとっては本望ではないはずだが、こればっかりはどうすることもできない。
 そして同時に「トライアルだったら安全ですよ」とトライアルを売り込もうとしていたぼくも、なんとなーく自己嫌悪に陥っているのだった。
 安全だからトライアルを勧めるのではない。トライアルが魅力あるスポーツで、三宅島にとってよい材料となるからお勧めする。しっかりそういう気持ちになってから、三宅島に、もう一度お手紙を書いてみたいなと思う。できればそのときには、三宅島でロードレースが開催されていてほしい。それが前田淳の遺志でもあるのだから。