雪は降ったって春は春。シーズンは開幕してます。えいえいおー

阿部孝夫さん、ありがとう

両神の桜

4月12日のことになるけれども、阿部孝夫さんが亡くなった。トライアルぞっこんの人や若い人は、阿部さんの存在を知らないかもしれないけど、とってもすごい人だった。そして熱い人だった。

本日は、昔話を思い出しながら、阿部さんの思い出話をつらつら書いてみます。長いけど、ごめんなさい。

阿部さんはホンダのファクトリーライダーをやっていたけれど、ホンダから離れると、営んでいたショップのある浜松で、漁師を始めた。もともと北海道の人だから漁師なのか、釣りが趣味だったのかはわかんないけど、結局現役時代は走るのに忙しくて、現役を退いたら釣るのに忙しくて、ショップはもっぱら奥さんが仕切っていたらしい。

現役を離れてからは、ライディングスポーツ誌で小気味よいインプレッションを書いていたから、これを知っている人はいるかもしれない。走っている姿は、ちっとも速そうじゃない。だって、でぶなんだもの。でも、たぶん世界一速いでぶだった。

高校の教室で、授業中に食い入るように見ていた、先輩たちが読み古したオートバイの雑誌には、阿部孝夫はスズキのTR500で登場していた。それから、阿部さんはカワサキにチームを変えた。カワサキでは、のちにチャンピオンマシンとなるKR250/350の開発を始めていて、阿部さんはその重要な開発スタッフだった。

ぼくがはじめてカメラを持ってサーキットにいったとき、阿部さんは大けがからの病み上がりで、KR250に乗っていた。和田将宏(当時は正宏)清原明彦といった荒法師らとともに、カワサキのチームは個性派ぞろいだった。強烈な個性が、レーシングマシンとしてはおとなしいライムグリーン一色に包まれて、これまた弾丸のように突っ走るコントラストがおもしろかった。

その翌年から、阿部さんはホンダのライダーとなった。最初は、市販車のCB900Fで耐久レースに出ることになった。阿部さんは、とにかくライディングポジションにうるさかったという。タンクにスポンジを貼って、上半身のホールドをできるようにしてくれれば、タイムを2秒縮めてやると大口を叩いたりしていた。なにかを主張するときの阿部さんは、ちょっと口がとんがる。

20歳そこそこ、ぺーぺーの新米カメラマンにとって、阿部さんはおっかない存在で、声なんかかけられなかった。ようやく話ができるようになったのは、ライディングスポーツを創刊することになって、おっかなくても無理やり話を聞かなければいけなくなってからだった。

1983年の鈴鹿8時間耐久レース、ぼくらはその解説を、その前年に引退したヤマハの名ライダー金谷秀雄さんにお願いした。金谷さんに自由にレースを観てもらって、好き勝手を語ってもらおうという企画だ。当日は、ぼくは金谷さんの付き人みたいにいっしょについて回った。金谷さんのプレスクレデンシャルを取得するのはちょっとたいへんだったのだけど(いくら世界チャンピオンに匹敵するライダーでも取材は素人ですから、素人並のクレデンシャルしか出せませんという鈴鹿サーキットとの押し問答)それは阿部さんとは関係ない。

阿部さんが烈火のごとく怒ったのは、金谷さんのその記事だ。もちろん、金谷さんから話を聞いて、文章にしたのはぼくだ。

「ニシマキー、おまえが書いたのか」

その号が出た次のレースで、阿部さんはくってかかってきた。

「もうおまえなんかとは口をきかんぞ」

横で、東海の暴れん坊と異名をとった水谷勝が「まぁまぁアベちゃんもそう怒らんと。まだ駆け出しだもんな」ととりもってくれた。ふだんのキャラクターは、温厚な阿部さんに対して水谷さんがきついキャラを持っている。ここではそれぞれのキャラが逆転しておもしろかったのだけど、阿部さんが怒りまくっているので、ぼくはそれどころではない。

なにを書いたかというと「ホンダの監督はレースを知らない」と書いたのだ。徳野政樹さんというその後8耐で優勝することになるライダーがいたんだけど、レース中いろいろあって、この人はリヤブレーキなしの状態で走ることになった。リヤブレーキが直らないまま、レースに復帰させた、その采配を金谷さんは責めるのだけど、その監督さんというのは、ホンダがマン島で勝利したときにメカニックとして参加していた秋鹿(あいか)行彦さんで、これまた名だたる人だ。

「秋鹿さんがそんなことをするわけがない」

阿部さんはホンダの看板を背負って、駆け出しのニシマキに文句を言っていた。取材拒否するとか、そういう現代的な言い方ではなくて「おまえとは口きいてやらない」という子どもみたいな怒り方が、今でもきのうのことのように思い出される。

仲直りをしたかどうかは覚えていない。でも、ぼくは阿部さんが好きだったから、ことあるごとによっていった。

阿部さんはでぶだったけど、あるシーズンは125ccでレースに出た。ライバルは体重40kg台の江崎正(神戸でショップをやってる)。ふつう、勝負にならない。でも阿部さんは、登りのきつい鈴鹿のS字で、江崎さんとデッドヒートした。

「おれが飛ぶか江崎が飛ぶかどっちかだなぁと思って走ってた」

S字から帰ってきた阿部さんは、にこにこしながらつなぎを脱いだ。そう、飛んだのは阿部さんだった。レースには負けたけど、体重差が倍もあるようなふたりが軽量級クラスで熱戦をした事実は、なんだか夢を見ているみたいだった。

ホンダのライダーが思うように走れないという打ち上げをすると、阿部さんが走って見せる感じ。コーナーの小さな筑波サーキットでも阿部さんは125ccに乗った。でもあれは、素人目にも遅かったなぁ。最終コーナーでは、なりふり構わず飛び込んでくる地元の若手ライダーに対して、阿部さんは周到にラインを考え、ターンインしてくる。その間に、血の気の多い若者は、先へ行ってしまう。

「みんな、どうやって走ってるぅ?」

タイムのでない阿部さんは、ぼくごとき素人に状況を聞いてくる。どんな情報でも仕入れて、自分の糧にするといえばかっこはいいけど、その時の阿部さんは、まさにワラにもすがる感じだった。そういうなさけない阿部さんも、また阿部さんだ。

ぼくがはじめて海外のレースに出かけたら、そこに阿部さんがいた。ケニー・ロバーツ(もちろん親父のほう)の走りを見て

「そりゃーもう、とにかく開けっぷりがいいわ〜」

と感心していた。開けっぷりがいいということは、開けられる態勢に持っていっていることで、開けられるラインに乗せているということだ。マシンのセッティングも、相応のものになっているはず。そういういろんなことを観察しながら「開けっぷりがいいぞ」と楽しそうに講評するところが、阿部さんらしい。

そのときの阿部さんは、その直前のレースで大転倒して肺挫傷かなんかになってしまった清原明彦のことが心配そうだった。すでにホンダとカワサキでチームも別々だったが、かつてのチームメイト。阿部さんはキヨさんのことをキヨ兄と呼んで慕っていた。人のことを心底慕える人は、また慕われる人でもある。

阿部さんは、フレディ・スペンサーが世界チャンピオンとなったNS500の開発などにも尽力したけど、阿部さんもそのマシンに乗った。ホンダの大排気量マシンはそれまで鈴鹿サーキットでしかレースをしていなかったけど、いよいよ全日本選手権を全戦回るってんで、見る方もわくわくだった。エースライダーは木山賢吾。阿部さんは脇役だった。

ところが木山さんは壊れたり転んだり、ついてない。阿部さんは2位や3位に入り続けて、3戦くらい走ったところでランキングトップに立った。

「このままやったらアベちゃん、チャンピオンやね」

本当なら自分がチャンピオンになるはずだった木山さんが、最後のレースとなった菅生で言った。

「わしはもう、はよう鈴鹿に帰りたいわ」

ランキングトップの阿部さんを、ぼくらは、インタビュー記事でとりあげることにした。写真をそろえて、あとは阿部さんの話を聞くだけになった。で、レースの週末の土曜日に話を聞くことになって出かけようとした矢先、木山さんの訃報が届いた。練習中に、事故死されたのだ。インタビューどころではなくなった。ぼくは鈴鹿への出張をやめて、阿部さんのインタビュー記事のかわりに、木山さんの追悼記事を書いた。

阿部さんのページを作るためのレイアウト用紙は、ずいぶん長いこと、ぼくの引き出しにしまったままになっていた。あのページに並んだ阿部さんの顔は、本当に楽しそうにレースをしている感じのものばっかりだった。ページにならなかったのは、残念だった。

それからしばらく、記憶に強烈なのは、また怒っている阿部さんだ。NS500レプリカと称してホンダが作ったのは250cc3気筒。今となっては、すっかり失敗作ということになっている。舞台は、これの発表試乗会となった鈴鹿。雑誌界の大御所が、ぼてぼてっと、何人か続けて転んで「フロントの接地感がどうも…………」なんて感想を語ったのだね、たぶん。阿部さんは切れました。

「おれはこのマシンの操縦性に自信を持ってるんだよ。5コーナーで転ぶなんてのは、4コーナーの入り方がへたくそに決まってるんだ。どこの素人がテストしてんだよ」

大御所の先生は、誰と誰だったかは忘れた。おひとりは、今でも大御所をやってらっしゃる。そして、ときどき転んでいるらしい。

メーカーにとっては、雑誌屋さんはお客さんである。いい記事を書いてもらって、オートバイがいっぱい売れるとうれしい。転倒したと聞けば、まずお見舞いに駆けつけ、転倒理由を聞き出し、その原因を分析し、転倒がライダーのせいでもなく、もちろんマシンのせいでもないという結論を導く。「ちょっと飛ばしすぎちゃいましたね、だってこのマシン、気持ちがいいんだもん」と言ってもらえれば、丸くおさまる。阿部さんが「おれが乗り方を教えてやる」なんて出ていくのは、賢くない。ぼくが目撃したのは、怒っている阿部さんを、開発陣が一生懸命止めているところだった。

その頃だったと思うけど、鈴鹿の飲み屋で、阿部さんが木山賢吾の思い出話をしつつ、一瀬憲明について語った。一瀬は125ccのチャンピオンで、かの山本昌也とはHRC入りが同期だった(チーム入りしたときはRSCだった)。しかし当時の一瀬はケガと将来について悩んでいた。

「イチは、ひたむきなんだよなぁ。木山を見ているみたいだよ」

このときの阿部さんは怒ってはいなかったけど、怒っているときと同じように、熱かった。それからしばらくして、一瀬は新幹線に飛び込んで、自殺してしまう。ライダーとして以外に生きる道を見失い、ライダーとしても将来に不安があった。でも死ぬことはないじゃないか。

それからしばらくして、阿部さんはチームHRCを去って、浜松で漁師になった。ホンダとけんかしたという説が一般的になっているけど、ああいう人だから、けんかはしょっちゅうだったはずだ。

それからは、1年に1度ほど、耐久レースに出てくるくらいになった。年に1度のレースで、昔とおんなじ走りができるってのがすごい。その頃はぼくもまだサーキットに顔を出していたから、そんなふうな問いかけを阿部さんにしてみたことがある。

「これといっしょよ」

と、阿部さんはやっぱりくすくすっと楽しそうに笑う。“これ”ってのは、女性とまぐわうアクションである。パドックの真ん中で、そんなジェスチャーをしながら、阿部さんはレースを語ってくれた。

何年か前に、阿部さんはガンの手術をした。それからまた復帰して、漁師と、ライディングスポーツのインプレッションライダーを務めていた。でも最近、また体調を崩されていたようだ。

24年前にはたせなかった阿部さんのインタビューは、ついに実現しないままになってしまった。漁船に乗せてもらう約束も果たせなかった。

レースを教えてくれて、ありがとうございました。いつか、ちがう世界で会うことがあったら、またしかりつけてください。

*昔の写真は、全部ライディングスポーツが持っていて、ぼくのところにはほとんど残ってない。それにインターネットの世の中、フィルムを引っ張り出してくるのはたいへん手間になってしまった。いつか、懐かしい写真を公開したいのだけどごめんなさい。写真は、ぼくのお気に入り、ぼくんちから歩いて1分の散歩道。