木村倭の世界選手権遠征は、これまでにないものになった。15歳にしての初参戦は、黒山陣がすでにやっている。親子二人で渡欧するスタイルも、すでに先輩たちが選んできたやりかただ。木村がこれまで誰もやったことがないことをやった、というのは、木村がまだ国際B級ライダーであり、それも昇格してわずか半年ということだ。

木村家の大ボスといえば、初代全日本チャンピオンの木村治男さん。天才少年とデビュー時から注目を集め、その後ヤマハのトライアルマシンのほとんどすべての設計・開発を担当し、革新的TY-Eのデビューを見送るまで、ヤマハトライアルを推進したレジェンド。その息子、大輔は治男さんが興したトライアルショップRIDERSの店頭に立ちつつ、国際A級ライダーとして全日本選手権への参戦を続けた。
そしてその息子の倭(やまと)。ある日トライアルを始めると父親のバイクを持ち出して乗り始めたと思ったら、あっという間に上達し、中部選手権で実績を積み上げてトライアルGC大会に出場、見事初参戦初優勝を果たして国際B級への昇格を果たした。

しかし倭くんの目指すところは、もっともっと、もっともっと先にあった。
木村倭、そして大輔のコンビは、いかにしてヨーロッパに旅立ち、そしていかにして戦ったのか。父大輔は、今回のチャレンジを雄弁に語った。15歳のライダー倭は、父親の語りにおまかせしているように見えて、話の流れを静かに見守っている感じ。大人たち(お父さんとおじいさん世代)の会話をすべて透視してる感じもする。
今回、世界に挑戦することになった経緯というのは、どんなところだったのだろう?
「まず一回、ミーティングをしたんです。シェルコジャパンの三留社長がセッティングしてくれて、シェルコ本社のアルベルト・カサノバが来てくれました。ぼくらはそれを横浜ミーティングっていっていて、思い出深いミーティングになってるんですけど、そこで最初の相談をしました。ぼくたちの予定としては、まずイギリスに参戦したいと希望したんです。そしたらイギリス大会のトライアル3がスケジュールから消えてしまって、それでまた予定がなくなりました。当初はイギリス大会に向けてがんばるぞ、と思ってましたから」
FIMの予定は、こんなふうにころころ変わること、もある。なかった大会が突然加わったり、油断できない。
「それでイギリスがないなら、125ccはもういいから、300ccに乗り換えようって、300を買って練習を始めました。16歳になったら300ccに乗れてトライアル2に出られますから。去年から世界のトライアル3に出てみるって目標にしてたのになぁと思って、気持ちを切り替えてがんばろうと思った矢先、イギリスのトライアル3が復活してるって話になって、二人してやべえやべえってなって、急遽また125ccに乗り換えました。125ccに乗り換えて7回か8回乗ったところで全日本のキョウセイでした。でも、その頃だったかもっと前だったか、9月のイギリスに出ますって話をしたら「なんでそんな無駄なことをするんだ」って言われて、可能性があるならサンマリノとフランスにも来ちゃいなよっていわれたんです。とにかく早い方がいいって」
「ぼくも倭も考える能力がないくらいに、知識とかなくて頭が悪い人間なんで、そういわれて、その場でもちろん行きますって言っちゃったんです。即答しちゃったもんで、そっから話が進んでいきました」
開幕戦のスペインとポルトガルに、倭は参戦していない。それはどうして?
「そこは頭になかったんですよね。そもそも、そんなに簡単に行けるもんじゃないと思ってたから。しっかり準備をして、9月のイギリスまで125をいっぱい乗り込んでようやくなんとか形になるかなと思っていました。逆に、開幕戦のスペインに出ようとしても、そこではたぶん技量が足りなかったと思いますね」
なるほど。半年、1ヶ月でぐんぐん上手くなってる感じがある?
「そうですね。125cc、まだ乗り慣れてないですけど、でもだいぶ体のタイミングが回ってきたので、ちょっとずつ高さも出したりとか。レベル的にはちょっと上がってます」

Photo:Pep Segales
トライアル3、10位の目標があったということですけど……。
「そうですね。10番以内の目標でやってたんですけど、最初のフランス大会は11位、12位、13位あたりでした。フランスはめっちゃグリップ良かったんですけど、サンマリノはツルツルで、もうぜんぜんうまく走れなくて、1日目ノーポイントでした。2日目に立て直して、1レース目は悪かったんですけど、2レース目で9位になれました。結果、そこは修正できたなと思っています」
10位の目標は達成できましたね。
「初挑戦で12位あたりでも立派とみなさんからは言われましたけど、本人的には、うまくいけば6位くらいに、と思ってました。なのでやっぱり、すごい悔しい思いはありました」
12位という順位自体が悔しい? たとえば自分の走りができなかったという悔しさとかですか?
「走りは自分本来のものではあったんですけど、自分のレベルはここまでかなって感じで、みんながみんなうまいんで、そういう悔しさですか。一番最下位の人でもとんでもなくうまいんですよ。そんなだから、トップ10はさらにうまいっていう感じです」
「親から見たらぜんぜん上出来なんですけどね、本人は毎回毎回悔やしがって、ネガティブになって帰ってきてました」
「フランスの大会は、もう半端なくきつかった。すべて超絶グリップだったんで」
「クレパスみたいなのがあって、そこ、5m以上の溝なんですよね。ぼくもマインダーしてて、足を滑らして落ちたら死んじゃう、みたいな。親ながら、そんなところをほんと、マジでやるのかと。倭も失敗したらやばいっていうところはあったと思うんですけど、全部臆することなくやってたんで、それで無事に帰ってきたんで、それだけでいいのかなと思ったんです。そしたら本人はもうくやしいくやしいと」
走ってて、こわいところとかなかったんですか?
「下見の時は、これけっこうやばいなーってところはあったんですけど、走ってみると意外とやっぱ恐怖心とかがなかったですね。心配しても、というところはありますし、むしろ、お父ちゃん大丈夫かなって」
「ほんとだよ。お父ちゃん立ってて、つまずいたら本当に死んじゃうからね、あれ。セクションは、安全意識とかないなぁと思いました。絶対失敗しないという前提でやってますね」
目標は10位で、もしうまくいったら、何位くらいに入れる想定で出かけていったんですか?
「10番以内は、もうあと順位ひとつふたつですけど、それから上っていうとまたかなり壁がありますね」

Photo:Pep Segales
そもそも、ヨーロッパが初めてですね。お父さんも?
「二人とも、初めてです。ヨーロッパ行くのも初めて、飛行機も初めて、コルシカ島までフェリーに乗ったけど、それも初めて。初めてづくしです。全部今回が初めて。みんなにかっこいいね、なんて言われちゃうんだけど、必死ですよ」
長旅の思い出から、なにか出てきそう。
「倭は、長い飛行機でちょっとまいっている感じでした。気圧の関係とかもあったのかもしれません。バルセロナまで10時間ぐらいあって、向こうについてまず初めての時差ボケ経験です。そこで親心で、早く時差ボケ解消した方がいいと思って、無理して食事なんかに行っちゃって、それでまず完全にダウンしちゃいました。ここで一回覚悟したんですよね。体調戻らなかったら、このまま日本に帰るしかないかなって」
それは時差ボケで?
「時差ボケと、あと、フライト前に、日本でけっこう猛練習したんですよ。その疲れと、外国の緊張感もあったと思います。いきなり、日本語がいっさいない環境で、やっぱり緊張したんだと思います。あと親として、最初からスペインに順応しなくちゃいけないってがんばっちゃって、お店とかにがんがん入っていって、地元のいろんな人とコミュニケーション取ったりとかしたんです。スペイン語なんてできませんよ。しゃべれないんですけど、そういうのに、全部倭を連れていったんです。それもあって、参っちゃったのかもしれません。幸い、次の日ちょっと1日オフにして、2人で散歩したりとかして、それで体調は回復してきました」
初めてのヨーロッパはどうでした?
「親も子もヨーロッパは初めてなんですが、うちの父はもちろんヨーロッパ経験はけっこう豊富なんで、いろいろ情報はくれたんです。こういうの持ってった方がいいとか、いろいろ。でもぼく自身、自分の能力のキャパについてはだいたいわかってるんで、言われたことを全部やるのは不可能だと思ったんですね。一つ準備が整わないと不安になるし、二つも三つも整わないともっと不安になって、最終的に行動をためらっちゃう可能性も、人間なんで十分にあり得ると思ったんです。だったらもう本当に腹くくって丸腰で行こうぜっていう話になって、あえてそういうアドバイスを全部シャットアウトして、素のままででかけたんです。聞くと、よけいに不安になっちゃうので、本当になんの知識も入れずにバーンっていって、その場で困ったことをそのつど解決していこうと、バルセロナに降りたときには本当に丸腰です」
すばらしいです。
「だからトラブルだらけでした。最初は、いきなり日本から持っていった家電の大爆発事件です。飯は自炊しようと、IHヒーターを持っていったんですけど、変圧器を使うのを忘れてスイッチ入れちゃって、そしたらホテルの中でバーンと火を吹いちゃって、倭も体調の悪い中そんなことになったもんで、うわーってなっちゃって、それで自炊はできなくなっちゃいました。でも、パン買ってくれば大丈夫っしょって。IHヒーターだけじゃなくて、ドライヤもダメだし、日本から持っていった100V専用の家電はほぼ全滅です」
「なんだかんだと、そういうドタバタは、完全に払拭はできなかったですね。最後の最後の日まで、ホテルのカーテンを閉めようとしたら、カーテンレールが落っこちちゃうとか、一日たりともトラブルがなかった日はなかったですね」
なるほど。それは大きく言えば、海外旅行ならではのトラブルだった、でくくれるものでしょうか? それとも緊張していたりして、やらかしてしまった事件だったのでしょうか?
「基本、ぼくたちは事前準備っていう時間がほとんどなくて、シェルコさんに来いと言われてすぐ行きますって飛んでいったという感じです。準備しても、どっちみち整わないからとりあえず行ってから考えようっていう思考だったんですよね。知識を入れて行動するんじゃなくて行動しながら知識を得ていった感じなんです。なので1ヶ月間ずっと、海外を生活するためのノウハウを学び続けたわけです。だからトラブルもある程度は想定内というところです。必ずトラブル続きになるって覚悟していったんで。だからあとは、どうしたらこの状況下で親子で楽しんでやっていけるかなと、思考をちょっと変えました」
そういう覚悟は、ある程度は行く前に親子で意思統一があったわけですか?
「そうですね。入国すら知識がなかったので、いろんなところで止められちゃって、手荷物出せとか言われて。ぼくもいけなかったですけど、バッテリーをリュックに入れたりとかしていて、ボディタッチとかされまくりましたけど、言葉も分かんないしで、どたばたです。それは北京の空港でしたけど、北京は特にバッテリーには厳しいみたいでした。機内でも、スマホを充電してたらCAさんがすごい顔して注意してきたりとか、もうトラブルばっかりです。妻が、やっぱり倭のことを心配して、日本食を持たせてくれたんですけど、最初に家電を壊しちゃったから持っていった食材も食べられずです。IH壊した時点で、自炊の壁は厚いって、あきらめちゃったんです。食材も調味料も、黒山チームに教えてもらった焼き肉のタレも、いっぱいあったんですけど、ほぼ手をつけずです。二人とも、日本で自炊した経験もなかったんです、実は。それをいきなり海外でやろうとしたのが、大きなまちがいです」

Photo:Pep Segales
それで実際に困らなかったんでしょうか?
「よく海外行った人が、日本食が恋しくなったり、空を飛ぶ飛行機を見て帰りたいと思ったりって話を聞いたりするんですけど、ぼくたちにとっては、スペイン、フランス、サンマリノ、イタリアって舞台が本当に新鮮で毎日刺激的で、すごく楽しくて、日本が恋しいと思う時間もそんなにはなかったんですね。ただ、父親としては、IHが燃えて、やべえなぐらいな勢いだったですけど、倭はやっぱり15歳の少年なんで、ことごとく家電がつぶれていくのを目の当たりにして、この先、1ヶ月近くヨーロッパにいるのに、自分たちは本当に大丈夫なのかっていうショックを受けたと思うんですね」
そのへん、倭くんはどんなふうに思っていたですか?
「あのー、次々といろんなものが壊れていって、ずーっと壊れまくりで、大丈夫かなと思ったんですけど、まぁ途中から、だんだんそういうものかと慣れていきました。慣れてきたのは、4日目ぐらいかな? なので体調をくずしたのも、家電がぶっ壊れたショックもあったかもしれません。ただもちろん、一番きつかったのは時差ボケでした。時差ボケがとれてきた時点で、ヨーロッパ暮らしにもなんとなく腹がくくれたみたいな、感じですね」
結局、なにを食べて暮らしていたんでしょう?
「スーパーへ行って、すぐに食べられるものを選んでました。パスタとかが多かったですが、あとパンがすごい安かった。パスタ茹でることもできないので、完成されたのを買ってきて、食べるだけです。電子レンジだけはあったんで。ただぼくたち、最初はどれが冷凍食品なのかもよくわかんない。ふだん買い物しないし、ことばわかんないし。高かったですけどね。パスタひとつ、1,000円以上しました。だからパンばっかり食べていました。買い物でも、Googleレンズ様々です。それとGoogle翻訳。これがなかったら、本当になにもできませんでした」
Google翻訳なんてない時代、黒山一郎さんは注文する前にレストランを一周して、おいしそうなのを食べてる人の料理を指さして頼んでいました。
「はいはい、まさにぼくたちもそれでした。店員さんに中から出てきてもらって、食べてる人の前まで連れてって、これと同じものをくれっていうようなこともやりました。ことばがしゃべれないんで、大慌ての日本人を演出するというか、やばいやばいみたいな雰囲気を出すと、とりあえず助けてくれました。今、T3のランキング1番のライアンっていう若手のアメリカ人のライダーも、そんなに向こうの言葉は達者じゃなくて、我々といっしょに、一番上のおいしそうな高級そうなの食べとけばいいねって頼んだら、イカ墨のスパネッティが出てきちゃったんですけど、ライアンはイカ墨絶対食べれない人で全部残したりしてました。食べたことなかったんでしょうね。たぶんあの子は、倭といっしょで、ちょっと偏食じゃないかな? 倭はエビのアレルギーはちょっとだけあるみたいですけど、単純に食わず嫌いですかね。というか、今までぼくたち、外食をあんまりしてこなくて、練習後も家に帰ってママのご飯を食べたいってのが倭の希望だったんです。それがママの料理から1か月近く離れて外食だけですから、そもそもわけわかんないものを口に入れるのがたいへんだったかもしれません。ぼくなんかもう、何でもかんでもとりあえず口の中に入れちゃうタイプですけど、倭は現代の子だから。でも二郎くんと陣くんと一緒に食事してると、あの二人はもう、何でもかんでもおいしそうに食べるんですよね。これが黒山チームの生命力の強さか、みたいな発見もありましたね。倭にも、二郎くんみたいな野生的な生命力を見習わないとダメだぞって言ったりしてね」
ヨーロッパへ行って、変化はありましたか?
「ずいぶんよくなりましたよ。今まで、外食してもいつも決まったものしか食べなかったんですけど、ヨーロッパで本人も少し苦労したからか、いつもとちがうものを注文するようになったみたいな。冗談ではなくて、黒山チームのそういうところから、ぼくたちは学ぶところが多かったです。やっぱりスペインとかで活動するためには、そういうのが絶対必要だと思うんですよ。あと会食とかも、向こうの人の文化でもあるんで、なにを出されてもおいしいおいしいって食べられるようにならないと、今後付き合いも多くなっていくかもしれないから」
なかなかトライアルの話に行かないけど、こういう話はとってもおもしろいです。それで、バルセロナには何日くらいいたんですか?
「バルセロナというテレスタってとこなんですけど、2週間くらいいた? 1週間ちょっとかな? 今回前乗りしてヨーロッパ入りしたんですけど、やっぱり予感的中で、倭がコンディション作れなくて、ようやく練習に行ったりできるようになって、準備ができてからは出っ放しですね。フランス大会は地中海のコルシカ島で、その後イタリア行ってサンマリノ。もうずっと出っ放しで、最後の3日間だけ、またテレスタに戻ってきました」
食べるあてのない日本食はその遠征にも持っていった?
「どうだったっけ? もちろん、もはや必要のないものだったんですけど、荷物を組みかけるのがとてもめんどうで、シェルコが大きなバンを貸してくれたから、スペースには余裕があったから、もう全部持っていったんじゃなかったかな? もしかしたら食べるかも、という予定はなくて、食材は一度も袋から出さないまんまでした。ぼくらの日本食たちは4カ国を旅したんですけど、一度も出番がないままでしたね」
向こうで食べた、おいしかったものはなんですか?
「あぁこれは、親子ともども最高な思いができたんですけど、親のほうは、コルシカ島で食べたムール貝のパスタが、本当に今まで人生の中に一番おいしかったですね」
「ぼくはサンマリノで食べたピザが一番おいしかったです」
イタリアのピッツェリアには、ピザのメニューも山ほどありますよね。
「基本、倭のピザはマルゲリータの一択なんです。さっきの偏食の話じゃないですけど。そこでも黒山チームといっしょで、ちょっとはちがうピザを食べるとか、少し冒険もしていたかな? あの、二郎くんがすごくて、イタリアに入った瞬間に、あの生命力がまた上がって、いろいろ教えてくれるし、本当にうれしそうでした。ぼくたちも、なるべく黒山チームの足手まといにならずに自立するように努力もしたんですけど、本当に黒山チームがいてくれたおかげで、スムーズにいった部分がありました」
二郎くん、すごい
「フランス大会の1日目、レース1が終わってピットに戻ってきて、レース2に行くぞってなった時に、もう1回スタート台に登ってタブレットにピッてやらなきゃいけないんですけど、ぼくが近くのおばちゃんに聞いたら、とにかくすぐにセクション1に行け、みたいなジェスチャーで、ぼくらもよっしゃと第1セクションに向かったんです。ちょっと不安はあったんですけど、倭は先行っちゃってて、二郎くんに出会って、あれピッしなくていいんだよね? と聞いたら、そりゃあかんで、やんないと失格になるでって言われて、それでやばいとなって倭を探すことになりました。倭は先に行ったと思ってるから、3kmくらい先の第1セクションまで全開で走っていったら、第1セクションには観客すらいない。誰もいない」
「パパはちがう道を走っていっちゃったみたいで、ぼくは行っちゃったこともわからなかったんで、本当にどうしようかもなったんですけど、とりあえず行ってみたら、そしたら途中でたまたま遭遇したんです。それで急いで本部に戻って、スタートやりなおしました」
結果オーライ。コースの逆送とかというめんどくさいことにはならずに済んだ?
「ふつうの道路がコースで、山の中の一本道ではなかったんで、大丈夫だったのかな。そういうのも含めて、ほんとにわかんないことだらけです。カードをタブレットにかざしてピッてやるのも初めてだし、セクションインの時笛が吹かれたらもう時計が動き始めているというのも、今年かららしいですけど、もちろん知りませんでした」
ルールを的確に把握するのも、けっこうたいへんですね。
「今のトライアルGPはシステムがむずかしくて、たぶん日本で理解してる人はあんまりいないんじゃないかと思うんです。MFJもすべてを理解してる感じではなくて、なにか聞こうとすると、ルールブックに全部書いてありますということで。ルールブックもけっこう翻訳機使ったようなむずかしい記述があって、やっぱりリアルの現場に立って経験しないと、なかなか全部は理解できないですね。だから今回、トラブル未満というかトラブルはいっぱいあったんですけど、結果、なにごともなく全部のレースを完走できたのは、科学を超えた力がぼくたちに宿ったのかなって思ったりするわけです」
成績がなんだかんだっていう以前に、もっともっと絶望的なことが起こったとしてもぜんぜんおかしくはなかったと
「もちろんそうです。さっきの、第1セクションに行っちゃったやつも、失格にもならず、タイムペナルティもつかなかった。もしかしたら戻ってくるときに逆送してて失格になったかもしれない。一般道を、観客飛び越えてみたいな勢いで戻ってきましたから。これ、ナイショですよ。そういうあれやこれやで絶望的なペナルティになる可能性もあったわけです。あと、スタートに戻ったけど、自分たちの状況がうまく伝えられないんですよ。そろそろT2のスタートの時間になりそうになってて、スタート台に乗ろうとすると、おまえの順番じゃない、向こう行けみたいな感じ。まぁそうなりますよね。でもそれがうまく伝えられなくて、そうしたらそこに廣畑くんがいて、本当に廣畑くんにも何回も助けてもらいました。スペイン語で、キムラ親子がこうこうで焦ってるって伝えてくれた。それでスタート台にも乗れて、レース2をスタートできました。これが、フランスの1日目。なにもわかってない状態の時でした。レース2は、みんなよりスタートが遅かったわけですけど、ここではタイムオーバーつかないんですね」

Photo:Pep Segales
そうするとT2が何人かスタートしてるか、少なくともT3の一番最後から追いかけていった?
「そうですね。T3が全部スタートして、最後尾から追い上げるって感じですね」
トライアルGPでは、途中何ヶ所かでタイムチェックがありますよね。
「だから時間はすごくタイトでした。タイトですけど、あれはすごくいいシステムだなと思います。みんな、もうポンポントライしていきますね。そのうえスタートで遅くなってるから、ほんとだったらちょっと気持ち整えてとか、そういう時間がまったくなかった。倭もそうとうしんどかったと思いますけど、ぼく自身もかなりたいへんでした。とにかくフィジカルがきつかった。コルシカは足滑らすと本当に命を落としちゃうようなとこなんで、みんなぴょんぴょん飛び跳ねてましたけど、そうとう注意してやっていたと思います」
木村親子が、ライダーとマインダーのコンビを組んだのは、いつからですか?
「ぼく自身、一昨年までは一応IA現役で走ってたんで、倭のサポートってのはほとんどやってこなかったんですよね。それで倭が急遽世界選手権にトライするってなって、こんな無知の状態で行ったら責任問題だと思って、今年の1月から私自身もアシスタントの練習をするようにしたんですよね。それで裕大くんとかにもけっこう質問しまくって、アドバイスもらいました。時計とかも何買っていいか分からないから、とりあえず裕大と同じのをメルカリで買いました。そんなゼロから始めたアシスタントですけど、中部選手権でもアシスタントを練習したいなと思って、やりました。倭の中部選手権は、アシスタントが必要なことはないんですけど、練習だから走り回ったり、言わなくてもいい時間を読み上げたり。これは中部選手権と全日本と、両方でやってましたね。必要かどうかって言えば、全日本もアシスタントなしでまぁ問題ないんですけど、アシスタント業の練習というわけです。なんでそんなに小刻みにタイムを言うのかって思われたり、なんであんなに走ってるんだと思われてたと思うんですけど、これはもうどう思われてもいいから、世界のセクションで自分がマインダーとして立った時に困らないように、自分のために努力してやってました」
なかなか、いろいろおもしろくて、ヨーロッパの試合本番の話にならないけど、そろそろトライアルの話にいきましょうか。2戦走って、目標は10位、できたら6位に入りたかった、ということですけど、現場では、どんな感触、どんな予測があったでしょう?
「あーぼくは正直、まったく予想がつかなかったです。事前の申請とか準備とか、そういうのを自分の力で乗り越えていく必要があったんで、主役はライダーという感じではなくて、めちゃくちゃたいへんだったんですよね。だからスタートできた時点で、すごく安心したのを覚えています。書類関係とか、そういうので揉めることになったらいやだなと思って、パソコンも持っていって何があっても大丈夫なようにしていました。スタートして安心、というのと、ヨーロッパに着いてからの、事前のプラクティスなんかを見ていても、他のライダーにぜんぜん負けてなかったんですよ。ついた当初は調子を崩しましたけど、大会が近くなった頃には、だいぶいい状態になってきていました。そんな状態で、日本にいるのと変わらない走りができていました。これなら、絶対にそこそこは走れるなっていう手応えがその時点ですでにあったんですね」
「世界選手権に出かける前の練習では、倭は平常心でできていたと思います。でもそのときに陣くんが、倭くん、日本にいるときとぜんぜんちがう、調子よくないね、って気がついてくれて、それをシェルコジャパンの社長に言ってくれてたみたいなんです。それでマシンのセットアップとかに取り組んでもらって、そしたら調子が上向いてきたというのがありました。今思うと、マシンの調子の問題もありましたが、時差ボケ明けでもあり、燃料や気候の違いもあったと思います。最初の練習場がインドアで、いろいろ不慣れだった、というところもあったかもしれないですね」
陣くんはIAS、倭くんはIBですが、同じ練習ができるもんですか?
「調子のいい悪いや足をつくつかないはありますけど、同じところを走ってましたね。人間もマシンもピークパワーを使うようなところは、陣くんは上手でした。倭はそういう練習をやってこなかった、というところはありますね。でもほとんど、一緒のところを走ってたと思います。
今、全日本でIASを走れといわれたら、走れますか? 走れますか?
「今スーパー走れって言われたら、走れるは走れるけど、という感じですか。どこらへんを走って、というのはだいたい見えているんですけど、ちゃんと走るには、もう少し時間がかかるかなって感じがします」
セクションがおっかない、みたいな感覚はない?
「そうですね。割と、全部行ける自信があるようなところが多いです」
そうすると、T3のセクションについては、これは無理だ、むずかしい、どうしたらいいかわからない、みたいなポイントはなかった?
「そうですね。でもやっぱり、自分が出る大会で一番ハードな設定ではありました。下見のときに、これはちょっとやばいな、いけなさそうだなって思ったところはあったんですけど、実際にやってみたら、上がるところは上がるし。全部うまく走るのはまぁ無理なんですけど、最後の最後までは一応どのセクションもいけるっていうのはわかりました。あとは、どうやったら体力をうまく使って、最後のセクションまで抜けれるか、というところが足りない。
走破力そのものとかテクニックのあるなしというよりは、どこでどういうテクニックを使って、時間をどう配分するかとか、そういうセクション走破の組み立てのテクニックみたいなところで、もうちょっと勉強するべきところがあるみたいな、そんな印象かな。
「そうですね。単発だったらほとんどできると思うんです。難しいのはほとんどないです」
セクション走破時間の1分は厳しかったですか?
「時間はかなり厳しかったですね。世界で覚えたのは、残り10秒になってもまだけっこう時間があるなって、自分もだいたい分かってきた感じです。焦らないこと。残り10秒であとポイント1個残っているというのは、実際の現場ではけっこうあったものですから。1分でギリギリ走れるかっていうセクションばっかりだったですね」

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結果、順位についてはどんなふうに考えて走っていたでしょう?
「最初の日は、もう何もわからなかったので、とりあえず走ってみたんですけど、だいたいこの感じかというのはわかったんで、それから改善していったんですけど、なかなか順位が上がることはなくて、自分的にはもうちょっといけると思ったんですけど、目標としてたところよりも少し下でなかなか10位以内に入れない。もったいない5点がかなり多かったですね。そういうところをなおせば一ケタ順位に入れるのはわかっているんですが」
初めての世界選手権で12位で、数字としては一ケタに入るのも時間の問題、とはみんなが思ったと思います。
「そうですね。ちゃんと走れて、一応だいたい全体の真ん中ぐらいの順位だったんで、すごい悪いって感じではありませんでした。
順位の確認はしていましたか
「何回か見るようにはしてました」
「順位はスマホで常にチェックできるので、マインダーの私の方で把握してました」
その情報はライダーには教えていましたか?
「基本的には情報も作戦になるので、常に共有はしてました。必要な時に必要な分だけ、彼に説明してました。本人から神経質に今何点という感じではなくて、勝負のかかっている時にはぼくから伝えていました。
フランスの1日目は、初出場だからスタートもうんと早かったんですよね?
「スタートは1番か2番くらいでした。それで不利な部分はあったんですけど、それで真ん中ぐらいの順位だったんで、2日目のスタートはだいぶ遅くなりました。技量が近いライダーとスタート順が同じぐらいになったんで、自分のトライ前に技量の似ているライダーのトライを見て、2日目はわりと調子よくなっていました」
11位になってポジションが一つ上がったぞっていう感じでしたか?
「それでも、もうちょっと上に行きたかったなっていう感じですね。11位になったレース1はよかったんで、そのまま続けれられれば10位以内は見えていたたと思います。ただそこから、体力不足で一ケタに入れなかったんですね。腕をつったり、というのはなかったんですが、そういう目に見えるところではなくて、よけいな足が出たりとか、そういうカタチで体力不足が出てきました。最初は細かい足つき減点でいけていたのが、最後の方は5点を何個も食らったりとかしちゃいました」
フランス大会コルシカ島からはまっすぐにサンマリノに? 移動はみんなといっしょですか? 二人だけで?
「そうですね。まっすぐサンマリノに向かいました。こちらは2人で借りたバンに2人で乗ってて、シェルコチームと帯同して、みんなについて移動した感じですね。サンマリノに着いたのは木曜日でした。大会終わって、フェリーの時間もあったんだと思いますが、次の日か、次の次の日に移動を開始したんだと思います」
コルシカからのフェリーはどこの町に入るの?
「よくわかんないです。コルシカを出たのが月曜日か火曜日かも覚えてません。イタリアに入って、けっこう走ってサンマリノに着いた覚えだけあります」
ヨーロッパの地名については、まだ二人ともピンとこない感じ?
「ぜんぜんピンときません。今どこを走ってるのかは、Googleマップでマークはできてるんですけども、ぼく自身は運転に集中してたんで、場所の記憶はあんまりないですね。二郎くんが言ってた、コバンザメ作戦ってやつです。絶対離れないように、後ろぴったりついて、見逃さないように走ってましたね。トイレ休憩とかもみんなと同じタイミングだし、食事もすべて一緒のタイミングです。これもヨーロッパの環境に慣れるっていう面で
必要だと思うんですよね。本人がどうしたいかという思いは一瞬無視して、全部本場の彼らと同じような行動をしてました」
シェルコのコンボイはどんなメンバーだったんですか?
「スコルパ・シェルコチームみんなですけど、ライダーだとアルナウとかライアンとか陣くんとかかな。ルイス・ガリャックさんが先頭を走ってくれていました。それでサンマリノに着いたんですけど、会場も設定も、開幕戦とはずいぶんちがいましたね。コルシカはグリップよかったですけど、サンマリノは真逆でけっこう滑るセクションあったんです。それで1日目は、すっごい滑る岩の経験がなくて、ぜんぜんうまく走れませんでした。それで1日目は17位でした。レース1は本当になかなかうまく走れないうえに、今までやったことがない、キルスイッチがからだに当たって外れるとかエンストするとか、時間食われて5点みたいなのがけっこうありました」
「2日目は、やっぱりレース1はよくなかったですけど、レース2がすごくよくて、自分が思っていた走りが最後までできて、最高位の9位に入ったんです。それが一番よかったですね」
滑るところは苦手ですか?
「苦手まではいかなくて、好きは好きなんですけど、やっぱり想像してたようにはうまく走れなかったですね。それが 3レース走って、4レース目にようやくなんとか形になりました。やっとコツがつかめたっていう感じです。ただ調子がよく走れた時でも、自分なりにはけっこう改善点があったんで、これで5位以内というのも見えてきたりしましたね」
最終戦、イギリスも行くんですよね?
「はい、行きます」
改善点は、イギリスで試せますね
「そうですね。それに加えて、世界戦のときに足りなかった体力とか、走り方とか、そういうのを今ちょっとずつ改善しているところです。走り方というのは、セクション内の時間配分とか、そういうところですね」
ふだんの練習はどんな設定でやっていますか?
「最近は、全日本のIAのセクションより難しくて走りにくいところをやってます。T3で勝つためには、トライアル3以上の練習をしないといけないんで、こうなりますね」
世界のT3を走って、日本でIBを走るのって、物足りないというか、セクションが簡単すぎませんか?
「そうですね。難易度は低くて物足りない、という思いはありますけど、どのクラスでもしっかり走り切ってと、気持ちを入れて走っています。まぁ、バイクに乗るってだけでも楽しいんで」
国際B級チャンピオンは、目標とはなっていますか?
「目標は目標だったんですけど、世界戦と日程がかぶったりとか、いろいろ出てきたんで、今はイギリスをしっかり走って来年につなげるところが目標ですね」
イギリスと灰塚の大会がかぶっているから、7戦中2戦を休むことになるんですね。
「灰塚の結果で、タイトル狙う可能性があるかどうか、だいたい見えてくるとは思います」

Photo:Pep Segales
イギリスの攻略方法は研究している? オートバイについては、どんなセッティングパーツを持っていくんですか?
「イギリスは、ってなるとやっぱ沢のイメージとが多かったんですけど、最近のイギリス大会を見ると、けっこうドライな岩盤とか岩とかがあるんで、どんなふうなものになるのか、ちょっと想像が深まっていないんですけど、イギリスがどんな地形でも対応できる実力になりたいです」
「マシンのパーツはほぼ持っていかないです。シェルコにマシンを用意してもらうので、日本でもスタンダードを基本に練習してます。持っていくのは、本当に細かな好み。キルスイッチのストラップとか、そんなところですか。最初に付いてるやつがビヨーンと伸びるタイプで、手が少し離れても完全にキルスイッチが離れないんで、危ないかなと思って。布の生地のやつは、すぐにピッと離れるんで、機能面から選んでます」
ハンドルもサスペンションも、何も持っていかずですか?
「そうですね。ハンドルも、あえて日本でもツルシのまま、ノーマルです」
イギリスではどんな大会になるでしょう、どんな大会にしたい?
「やっぱり、自分の納得いく走りと、来年につなげれる走りですね。いろいろなところを、ひとつずつ改善できたいですね。イギリスへ行けば、また新たに課題が出てくるでしょうし、ひとつずつです。目標は10位以内にきっちり、全戦入ることです」
イギリスはおじいちゃんの治男さんも行くんですね。
「行きます。なんか表彰されるとかの話もあるんで」
おじいちゃん、治男さんは、今回の遠征とか挑戦とか、結果やらについて、何か感想を言ってくれましたか?
「がんばった、とは言ってくれたんですけど、あんまりほめられたことはないですね。おじいちゃんにほめられた思い出といえば、5歳くらいの時、自転車がすごい好きで、毎日激しいことばっかりやってたんですね。だからパンクもしまくるんです。それをじいじになおしてもらっていたんですけど、あるとき、忙しかったのか、なおしてくれなかったんです。後でやるから、って言われてずっとやってくれなくて、それが悔しくて、自分でやったんです。修理するのは見てたんで、やってみたらできちゃって、ふつうに乗れるように復活できました。そのときはほめられました」
5歳のときって、まだ10年前なんですね。10年前はおじいちゃんもヤマハの監督さんできっと忙しかったですね。
倭くんは木村家の血統書つきのサラブレッドだけど、世界選手権初挑戦に悪戦苦闘してきた様子は興味深かったです。まずはイギリス、がんばってください。そして、イギリスの後にでもまた話聞かせてください。
